第27話 時速200kmの嘲笑と、完全なる帰還
深夜の首都高。無機質なオレンジ色のナトリウムランプが等間隔に並ぶコンクリートの回廊を、漆黒のスポーツカーの低いルーフが流星のような速度で滑っていく。
デジタルメーターの赤い数字は、すでに時速200kmのレッドゾーンへと突入していた。
咆哮を上げるチューンドエンジンの爆音と、車体を叩きつけるような猛烈な風切り音。路面の僅かなうねりや継ぎ目の段差すらも、硬く引き締められたサスペンションを通してダイレクトに伝わってくる。内臓が浮き上がるような暴力的な加速Gに、助手席の菊池真矢は無意識のうちに五点式のシートベルトを強く握りしめていた。
元スタントウーマンとして、数々の危険な現場をくぐり抜けてきた彼女の卓越した身体能力をもってしても、この閉鎖された公道での常軌を逸したスピードは本能的な恐怖を呼び覚ます。対向車線とを隔てる壁が、一本のブレた線のようにしか見えない。
しかし、ステアリングを握る小松美鈴の横顔に、恐怖の色は一ミリも存在しなかった。
「あはっ、この車、最高に仕上がってるわ!」
プラチナブロンドの髪を揺らしながら、美鈴は心底楽しそうに歓喜の声を上げる。
彼女の視線は、フロントガラスの遥か先――暗闇に沈むコーナーの曲率と、路面のミューを完全に捉えていた。右足のつま先と踵を精緻に使い分ける微細なペダルワークで前後の荷重をコントロールし、ステアリングから伝わる路面情報を細胞レベルで処理していく。
『美鈴、聞こえる?』
インカムから、クロエ・マクスウェルの鋭く冷徹な声が飛び込んでくる。
「ばっちりよ、クロエお姉様。でも、後ろのストーカーどもがまだしつこいの」
美鈴がルームミラーに視線をやると、先ほど立体駐車場で振り切ったはずの黒いSUVが三台、異常な速度で車間を詰めてきていた。明らかに市販のエンジンではない。西園寺の豊富な資金力で徹底的にチューンアップされた、追跡専用の重装甲車両だ。
『現在、首都高の全監視カメラ映像と、ETCゲートの通過ログをこちらで掌握したわ』
インカムの向こう側――高野清太郎のマンションのリビングでは、世界最高峰の二つの頭脳が並んでキーボードを叩き、デジタルの完全な包囲網を敷いていた。
クロエが交通管制システムの基幹部分にクサビを打ち込み、隣に座るフレイヤ・ヨンスドッティルが、Nシステムと監視カメラの映像を次々と切り替えながら、敵車両との相対距離と速度をリアルタイムの弾道計算のように弾き出していく。
『敵の先頭車両との距離、150メートル。2.5秒ずつ縮まってるわ。あのデカブツ、直線だけは馬鹿みたいに速いわね』
フレイヤが、ゲームでも楽しむような軽快な声で実況する。
『美鈴、そのまま右車線をキープ。3キロ先のC1合流ポイントで、一般車両が二台走行中。間を縫って抜けて』
「了解。ナビゲート、助かるわ」
デジタルの神の眼と、美鈴のフィジカルな神業。二つの領域が完全に同期し、漆黒のスポーツカーは、目前に現れた一般車両のわずかな隙間を、速度を一切落とすことなく縫うようにすり抜けた。
「……信じられない。完全に車の四隅の感覚を自分の手足みたいに把握してる」
真矢が強烈な横Gに首の筋肉を張って耐えながら、呆れたように息を吐く。少しでもラインがずれれば、即座に壁の餌食になる速度域だ。
「雪山のツリーランに比べたら、動かない壁を避けるなんてお散歩みたいなものよ」
美鈴は屈託なく笑うが、バックミラーに映るSUVのヘッドライトは、なおも執拗に食らいついていた。直線の長い区間で、圧倒的な排気量とトルクに勝るSUVがじりじりと距離を詰めてくる。
『このままじゃ、次の長い直線で追いつかれるわよ』
フレイヤの声に、わずかな緊張が走る。
だが、その声を聞いた美鈴の唇に、いたずらっ子のような不敵な笑みが浮かんだ。
「大丈夫。向こうは直線番長みたいだから……ちょっと遊んであげる」
美鈴はアクセルペダルから僅かに力を抜き、意図的に速度を落とした。
時速200kmから160kmへの急激な減速。後続のSUVとの距離が一気に詰まり、敵の巨大なフロントグリルがリアバンパーに接触するほどの距離に迫る。ルームミラー越しに、血走った目をした私兵の顔が見えるほどだ。
「ちょっと、何してるの!?」
真矢が思わず声を上げる。背中の防水シリンダーを庇うように身を固くした。
「焦らないで。獲物を仕留めるには、十分に引きつけないと」
目前には、首都高の中でも特に複雑に分岐が入り組む、芝浦ジャンクションのカーブが迫っていた。右へ行けば都心環状線、左へ行けば湾岸線。コンクリートの分離帯の先端には、衝撃吸収用の黄色いクッションドラムが並んでいる。
「クロエお姉様、フレイヤ。……お願い」
美鈴の短い合図。
その数秒前、マンションのリビングで、クロエがエンターキーを激しく叩き込んでいた。
『オーバーライド、完了!』
美鈴の車が分岐点まで残り50メートルに迫ったその瞬間。
追手であるSUVの運転手の視界上部にある、巨大な電光掲示板。普段は渋滞情報を表示しているそのLEDモニターが、突如として全画面で強烈なホワイトアウトを起こした。
深夜の闇に慣れきっていた敵の網膜を、何万ルーメンもの閃光が物理的に焼き切る。
コンマ数秒のブラインド。
敵の視界が完全に奪われたその一瞬の隙を突き、美鈴は右足でブレーキペダルを強烈に踏み抜き、同時にステアリングを左へと鋭く切った。
車体が湾岸線側へと大きく沈み込むフェイント挙動。視力をもがれたSUVの運転手は、前の車のテールランプの残像と急ブレーキのスキール音に反応し、反射的に同じ方向へとハンドルを切った。
しかし、美鈴の真の狙いはそこではない。
左へ荷重が移動しきった瞬間、彼女はブレーキをリリースし、ステアリングを限界まで右へと切り返した。強烈なロールの反動を利用した、雪山でのエッジの切り返しのような神業の荷重移動。
漆黒のスポーツカーは、吸い込まれるように右の都心環状線ルートへと滑り込んだ。
一方、フェイントに完全に釣られ、左へと突っ込んだ先頭のSUVは、もはや制御不能だった。
重すぎる車体はフルブレーキングも虚しくタイヤをロックさせ、分離帯のクッションドラムへと猛烈な速度で激突した。黄色いドラムが爆発するように弾け飛び、中に詰められた水が周囲に飛散する。ひしゃげた車体が宙に浮き、後続の二台も突如として目の前に現れた鉄の障害物を避けきれず、次々と玉突き衝突を起こして凄まじい火花を散らした。
バックミラーの奥で遠ざかっていく、重金属が潰れる轟音。
「じゃあね、タコ野郎ども」
美鈴の屈託のない笑い声が、夜の闇に吸い込まれていく。
追手の気配は、完全に消え失せていた。
★★★★★★★★★★★
東の空が、白み始めていた。
朝焼けが東京のビル群の輪郭を淡く染め上げる頃、清太郎のマンションの地下駐車場に、焼け焦げたゴムとブレーキパッドの匂いを僅かに漂わせた漆黒のスポーツカーが滑り込んだ。
重低音を響かせていたエンジンが切られ、冷却ファンが回る音だけが地下空間に響く。
跳ね上がったガルウィングのドアから、真矢が大きく息を吐きながら降り立った。
「……生きた心地がしなかった。あんたの運転、控えめに言って狂ってるわ」
「そう? ボスにはいつも安全運転だって褒められるんだけど。ほら、傷一つないでしょ?」
美鈴はサングラスを頭に乗せ、軽いストレッチをしながらケロリと笑う。
二人はエレベーターに乗り込み、最上階の清太郎の部屋へと向かった。
分厚いドアを開けると、リビングでは徹夜でキーボードを叩き続けていたクロエとフレイヤが、マグカップを片手に深くソファに沈み込んでいた。床には何本ものエナジードリンクの空き缶が転がっている。
「おかえり。最高のショーだったわ、美鈴」
クロエが青い瞳を細め、疲労の色を滲ませながらも口角を上げる。
「お疲れ様。でも、あのフェイントは少し心臓に悪かったわね。数値上の余裕は1.2秒しかなかったのよ」
フレイヤも、小悪魔的な笑みを浮かべて二人を迎えた。
その奥、清潔に保たれたオープンキッチンから、高野清太郎が静かに歩み出てきた。
徹夜で指揮を執っていたにもかかわらず、彼の佇まいにはいつもと変わらぬ静謐な空気が漂っている。歩く所作一つにも無駄がなく、その落ち着き払ったオーラが、張り詰めていたリビングの空気をスッと鎮めた。
「お疲れ様でした、真矢さん、美鈴さん。見事な手際でした」
清太郎の温和な声。
「……はい、ご指定の品。とんでもない泥棒騒ぎになっちゃったけどね」
真矢はレザージャケットの内側から、背負っていた防水シリンダーを取り出し、清太郎へと手渡した。
清太郎はシリンダーのロックを静かに解除し、中から引き出した分厚い契約書の束を一瞥する。
ページをめくる、規則正しい紙の擦過音だけがリビングに響いた。
やがて、彼の手がピタリと止まる。
そこに記されていたのは、東南アジアのインフラ事業に絡むダミー会社の完全な支配権を示す条項。そして何よりも重い――西園寺豪という男の、逃れようのない直筆のサインだった。
「これで、彼らが『ハッカーによる捏造データだ』と主張する余地は完全に消滅しました」
清太郎は書類を静かにテーブルに置き、キッチンへと戻った。
カチャリ、と陶器の触れ合う音がする。彼は極限まで緻密に挽かれたコーヒー豆をポルタフィルターに詰め、寸分の狂いもない圧力でタンピングを行った。マシンにセットし、レバーを下ろす。漆黒のエスプレッソが細い糸のようにカップへと抽出され、黄金色のクレマが美しく表面を覆っていく。立ち上る芳醇な香りが、リビングの淀んだ空気を一掃した。
「完璧な仕事です」
清太郎は淹れたてのエスプレッソを真矢と美鈴の前に置き、自身もカップを手にした。
「にゃーん!!」
その時、足元から鋭く抗議するような声が上がった。
見下ろすと、黒猫のルカが尻尾をバタンバタンと激しく床に打ち付けながら、清太郎の革靴を睨みつけている。耳を伏せ、背中の毛を逆立てて「ぷんぷん」と全身で不満を表現する小さな黒い毛玉。深夜の喧騒と、定位置である清太郎の膝の上を奪われた不満が限界に達したようだ。
「……おや。随分とお怒りのようですね。申し訳ありません、ルカ。あとで特製のササミのスープを用意しましょう」
清太郎がしゃがみ込み、その滑らかな背中を指先で優しく撫でると、ルカは「ミャッ」と短く鳴き、仕方ないというように目を細めて喉を鳴らし始めた。
その和やかな光景に、真矢も美鈴も、張り詰めていた神経を解いて小さく笑い声を漏らす。
だが、立ち上がった清太郎の瞳には、再び絶対零度の理知の光が宿っていた。
「これで、デジタルとアナログ、すべてのピースが揃いました」
清太郎はエスプレッソを一口飲み、冷徹な三日月の微笑みを浮かべた。
「帝都物産の暗部を流れる30億円の真実。そして、それを操る常務の決定的な痕跡。……次は、彼らが最も大切にしている舞台――『株主総会』で、完全なるチェックメイトを宣言しましょう」
静かな、しかし確かな宣戦布告。
朝日に照らされたリビングに、反撃の終わりの始まりを告げる、静謐な熱が満ちていった。




