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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第28話 完璧な朝食と、欺瞞の幕開け

 決戦前夜の喧騒が嘘のように、高野清太郎のマンションは深い静謐に包まれていた。


 午前六時。東の空から白み始めた淡い陽光が、リビングのブラインドの隙間をすり抜けて、チーク材のフローリングに幾筋もの光の線を引いている。

 徹夜で証拠データの暗号化とバックドアの構築を終えたクロエ・マクスウェルは、無機質なデスクの上で腕を枕にして突っ伏し、微かな、しかし規則正しい寝息を立てていた。その数メートル離れた場所にあるカッシーナの黒い革張りソファでは、フレイヤ・ヨンスドッティルが薄いブランケットにくるまり、胎児のように丸くなって微睡んでいる。極限まで酷使された世界最高峰の二つの頭脳は、今は深い休息の底に沈んでいた。


 その静寂の中、生活感を徹底的に削ぎ落としたオープンキッチンに立つ清太郎の安物のスーツには、今日も一切のシワがなかった。

 ネクタイこそ外しているものの、真っ白なシャツの袖を美しく捲り上げた彼の所作には、一切の淀みがない。数時間後に巨大企業の常務取締役を社会的に抹殺しに行くという気負いや、復讐心からくる熱狂は微塵も感じられなかった。


「……ミャァ」


 足元で、微かに空気を震わせるような頼りない鳴き声がした。

 視線を落とすと、黒猫のルカがよろけるような足取りで近づいてくるところだった。キャットタワーに備え付けられたハンモックで寝ていたはずだが、清太郎がキッチンに立つ気配を感じて、わざわざ降りてきたのだろう。

 しかし、生後間もない子猫にとって、睡眠欲は絶対的な引力だ。ルカは清太郎の革靴のつま先にぽすんと小さな額を押し付けるようにしてお座りをしたものの、すでに限界が来ているようだった。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、小さな黒い頭が前へと傾いていく。カクンと首が落ちて、ハッと金色の目を見開くが、数秒も経たないうちに再び重い瞼がくっついてしまう。どうしても起きていたいのに、強烈な睡魔に抗えずに舟を漕ぎ続けるその姿は、張り詰めた決戦の朝において奇妙なほど愛らしく、平和だった。

 清太郎は音を立てずにしゃがみ込み、その極小の頭を人差し指の腹でそっと撫でた。喉の奥からゴロゴロという微かな振動が伝わってくる。


 静かに立ち上がった清太郎は、再び火に向き直った。

 コンロに乗せられた特注の伊賀焼の土鍋からは、白米の炊け上がる甘くふくよかな香りが立ち昇り始めている。分厚い土鍋の中で米粒が対流し、余分な水分が飛んでいく微かな音。彼はタイマーを見ず、蒸気の勢いと匂いの変化だけで、火を落とす完璧なタイミングを計っていた。


 隣のグリルでは、三日間自家製の味噌床に漬け込んだ銀鱈の西京焼きが、まさに極限の火入れを迎えようとしていた。

 西京味噌に上質な酒とみりん、そして隠し味に柚子の皮をほんの少しだけ削り入れた特製の床。味噌の糖分が奥深くまで浸透した魚は、極めて焦げやすい。遠火の強火で表面の味噌がカラメル化し、最も香ばしい匂いを放つその一瞬のストライクゾーンを、清太郎は視覚と嗅覚で冷徹に見極めていた。

 飴色に色づいた皮の表面に浮き出た上品な脂が、チリッと微かな音を立てて弾けた。


「……おはようございます」


 静かな声と共にグリルを引く。一切の焦げ付きなく、表面で細かな脂が泡立っている完璧な焼き上がりがそこにあった。

 声に反応したのか、デスクで身じろぎしたクロエが、重い瞼をこすりながら顔を上げる。


「……コーヒー。濃いやつをちょうだい」

「ほうじ茶にしました。極限まで酷使した脳と胃には、カフェインの刺激よりも優しい温度が必要です」


 清太郎がダイニングテーブルに並べたのは、炊き立てで艶やかな輝きを放つ白米、なめこと豆腐の赤出汁、そして芳醇な匂いを漂わせる銀鱈の西京焼きだった。匂いにつられたのか、ソファのフレイヤもブランケットを引きずりながらふらふらと起き上がってくる。

 クロエは無言で箸を手に取り、銀鱈の身を小さくほぐして口に運んだ。

 その瞬間、彼女の青い瞳が驚きに見開かれた。ふっくらとした身から溢れ出す脂の甘みと、奥深く浸透した味噌の豊かな風味が、徹夜明けの身体の隅々にまで染み渡っていく。


「美味しい……。信じられないくらい、完璧な味」

「火加減一つ、秒単位のタイミングで全てが台無しになる。仕事も、料理も同じです」


 清太郎は自身の椀を手に取り、静かに微笑んだ。

 その表情には、これから始まる修羅場への恐れもなければ、巨悪を討ち果たすという正義感の昂りもない。ただ、己の引いた冷徹な方程式の、最後の答え合わせに向かうための研ぎ澄まされた静謐さだけがあった。


★★★★★★★★★★★


 午前十時。

 都内にある超高級ホテルのメインバンケットホールは、荘厳かつ重厚な空気に支配されていた。


 帝都物産の定時株主総会。

 天井で眩い光を放つ巨大なバカラ製のシャンデリアの下、数百人の株主たちがひしめき合っている。壇上の中央には、恰幅の良さを通り越して威圧感すら漂わせる大黒龍太郎社長が鎮座し、その右隣には、涼しげな顔つきで前を見据える常務取締役・西園寺豪の姿があった。


 西園寺の胸の内には、絶対的な勝利への確信が満ちていた。

 数週間前に起きた、経理部課長・鮫島健太による数千万円の横領騒ぎを『一部の不心得者による単独犯行』として速やかに処理し、警察への告発準備を進めることでマスコミの追及を最小限に抑え込んだ。そして、彼らの巣窟であった第8資料管理室は監査部を動かして物理的に封鎖した。

 高野清太郎という目障りなバグは、基幹ネットワークから完全に切り離された。もはやあの男にできることなど何一つない。


 そして何より、西園寺自身がぶち上げた『東南アジアのインフラ事業への巨額出資』というビッグプロジェクトは、株主たちから熱狂的な支持を集めていた。表面上は会社の未来を担う輝かしい成長戦略。しかしその裏で、帝都物産の口座から引き出された三十億という巨額の資金は、フレイヤの構築した迷宮を抜け、すでに日本の警察も司法も手を出せないタックスヘイブンの口座の奥深くへと完全に消え去っている。


(デジタル上の痕跡はすべて消去した。金は完全に私の支配下にある。大黒社長、あなたがその椅子に座っていられるのも今日が最後だ。老害は速やかに退場させ、私がこの会社の全権を握る)


 西園寺は、壇上から見下ろす数百の頭頂部を眺めながら、心の中で冷笑した。

 すべては計算通りだ。自分の足元を脅かす者など、この世界には存在しない。彼の纏う仕立ての良いダークネイビーのスリーピーススーツには、絶対的な慢心と、強者の余裕だけが滲み出ていた。


★★★★★★★★★★★


 同じホテルの高層階。

 一泊数十万円は下らないエグゼクティブ・スイートルームが、見えざる包囲網の前線基地と化していた。


『第一号議案、予定通り進行中。大黒社長の答弁に淀みなし。質疑応答は十分後に開始見込み』


 清太郎の持つ特殊な端末に、秘書課の山内久美子から暗号化されたメッセージが届く。彼女は現在、総会運営のバックステージで完璧な秘書の顔を貼り付けながら、会場の内部スケジュールや役員たちの細かな動向を、秒単位でこちらに流し続けていた。


「メインバンケットホールの音響と映像の制御システム、完全に掌握したわ」


 リビングに持ち込んだ三面のハイエンドモニターを前に、クロエがエンターキーを軽く叩く。彼女の指先から放たれたコードが、ホテルの堅牢なファイアウォールを無音で貫通し、総会会場の心臓部を乗っ取った。

 隣に座るフレイヤも、小悪魔的な笑みを浮かべてキーボードから手を放した。


「西園寺の海外口座のトラフィック監視もスタンバイOK。奴が少しでも資金を動かそうとすれば、一ミリ秒の遅延もなく追跡して口座を凍結できる。準備は完璧よ、ボス」

「素晴らしい手際です」


 清太郎は、姿見の前でネクタイの結び目を整えていた。

 完璧なディンプルが刻まれた深いブルーのネクタイ。安物のスーツは、彼自身の姿勢と骨格、そして内側から放たれる研ぎ澄まされた空気によって最高の戦闘服へと昇華されている。


 彼はデスクの上に置かれていた、上質な漆黒のレザーブリーフケースに静かに手を伸ばした。

 その中には、昨夜、真矢たちが命懸けで奪い出してきた『決定的な証拠』が収められている。


「行ってきます」


 清太郎はブリーフケースを手に取り、短い言葉を告げた。

 スイートルームの重厚な扉を開け、分厚い絨毯の敷かれた廊下へと足を踏み出す。

 その歩みには一切のブレがなく、靴音すら吸い込まれるほどの静寂を纏っていた。

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