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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第26話 北の妖精と、狂気のレッドゾーン

 真矢が背中の防水シリンダーをかばうように身を屈め、低いサイドシルを跨いで助手席へと飛び込んだ瞬間だった。

 分厚いガルウィングのドアが完全に下がりきるよりも早く、小松美鈴は一切の躊躇なくアクセルペダルを床まで踏み抜いた。


「撃て!!」


 我に返った私兵のリーダーが絶叫する。手すりから身を乗り出し、特殊警棒を放り捨てた彼らが、腰のホルスターから黒光りする銃を引き抜くのが見えた。

 数発の乾いた銃声がコンクリートの閉鎖空間に連続して響き渡る。特殊な加工が施された助手席側の防弾ガラスに、白い蜘蛛の巣状のヒビが幾つも走った。硝煙の匂いが僅かに車内のフィルターを抜けて鼻を突く。

 真矢は反射的に頭を抱えて身を固くしたが、運転席の美鈴の横顔には恐怖の欠片も浮かんでいない。


「ちょっと、塗装直したばっかりなのに!」


 彼女は楽しげな鼻歌交じりにシフトレバーを乱暴に叩き込むと、華奢な腕からは想像もつかない力強さと正確さでステアリングを限界まで切り返した。


 悲鳴のようなスキール音が鳴り響く。

 分厚いスポーツタイヤがアスファルトを削り、ゴムの焼ける強烈な匂いと白煙が立ち込める中、車体が独楽のようにその場で強烈なスピンターンをキメる。

 遠心力で振り回された漆黒のスポーツカーの分厚いリアバンパーが、出入り口を封鎖していたSUVの一台のフロントグリルを情け容赦なく削り取った。凄まじい金属の破砕音と散る火花。衝撃で重量級のSUVが横滑りして隣の車両の側面に激しく衝突し、ヘッドライトの破片が夜の空気を切り裂いて散乱する。


「うっ……!」


 真矢はバケットシートに深く身体を押し付けられながら、臓腑が片側に寄るような強烈な横Gに耐えた。シートベルトが肩に食い込む。


 敵の陣形が崩れ、車両同士の衝突で生じた一瞬の隙間。

 美鈴はそのわずか一メートル強の突破口を見逃さなかった。タコメーターの針が一気に跳ね上がり、大排気量のV8エンジンが狂ったように吠える。漆黒の車体は、衝突して身動きが取れなくなったSUVの脇をすり抜け、駐車場の精算ゲートのバーを根元から粉砕しながら、深夜の公道へと矢のように飛び出した。


 夜風が割れたプラスチックの破片を巻き上げ、後方からは私兵たちの怒号が急速に遠ざかっていく。


★★★★★★★★★★★


「信じられない……。あの完全な包囲網を、車ごと強行突破したっていうの?」


 清太郎のマンションのリビング。

 三面のモニターに表示されたGPSトラッキングの赤い光点が、ゼニス・パートナーズのビルから一気に離脱し、都内の幹線道路を異常な速度で移動し始めたのを見て、クロエが呆然と呟いた。


「しかも、あの車の機動……ただの直線番長じゃないわ。交差点のコーナリングで一切減速していない。あの車、一体どういう足回りをしてるのよ」


 フレイヤも、手元のタブレットでハッキングした交通監視カメラの映像を追いながら、エメラルドグリーンの瞳を見開いていた。彼女の赤い爪が画面をスワイプするたびに、漆黒のスポーツカーが一般車両の隙間を縫うように疾走する姿が次々と映し出されては消えていく。信号のタイミングすら完全に予測し、一瞬の滞りもなく街をすり抜けていく異常な動きだった。


 その緊迫した空気の背後、静謐に保たれたリビングの隅で、微かな爪音が響いていた。

 清太郎が昨日届いたばかりのパーツを、ミリ単位の歪みもなく完璧に組み上げた木製のキャットタワーだ。ウォールナット材の深いブラウンとマットブラックのアイアンフレームで作られたそれは、機能性を追求した無機質なこの部屋のトーンに美しく調和していた。


 生後一ヶ月半の小さな黒猫、ルカが、自身の身体の何倍もある太い麻紐の支柱にしがみつき、必死によじ登ろうと奮闘していた。

 短い後ろ足でジタバタと宙を蹴り、前足の小さな爪を懸命に立てて、じりじりと、少しずつ高みを目指す。何度かズルズルと滑り落ちそうになり、その度に小さく「ニャ」と悔しそうな声を漏らしながらも、数分の格闘の末、ルカはようやく中段に設置されたボウル型のハンモックへと転がり込んだ。


「ミャッ!」


 ハンモックの柔らかい布地にすっぽりと収まったルカは、短い尻尾をピンと立て、まるで世界の頂点に立ったかのような誇らしげな顔で、下界――ダイニングテーブルに座る清太郎たちを見下ろした。


 清太郎は、エスプレッソマシンの前で温かいカフェラテを二つのマグカップに注ぎながら、その小さな征服者を温和な目で見つめていた。


「よくできました。あなたの新しい領土です」


 清太郎の静かな声に、クロエが我に返ったように振り返る。


「あなた、あの絶体絶命の状況で、あの狂った運び屋を最初から仕込んでいたわけ? どんな手を使ったのよ」

「手を使ったのではありません。方程式を解いただけです」


 清太郎は、淹れたてのカフェラテをクロエとフレイヤの前に静かに置いた。コーヒーの深い苦味とスチームミルクの甘い香りが、張り詰めた空気を僅かに和らげる。


「彼女は元プロのアスリートです。過去にスポンサーの不正経理によってキャリアを潰されかけたところを、私が数字の矛盾を解きほぐして救った経緯があります。以来、彼女はその操縦技術を活かして裏の運び屋をしているのです」


 清太郎の視線が、再びモニターの光点へと戻る。


「ゼニス・パートナーズの金庫に物理的に接触する計画を立てた時点で、私は西園寺の私兵部隊によってビルが完全封鎖される可能性を予期していました。美鈴さんの機動力と輸送技術は、この盤上で唯一、あの包囲網を正面から粉砕できるピースだったのです」


 その言葉の裏には、絶対的な確信があった。人間が恐怖やパニックで判断を誤る状況において、彼女ならば計算通りのパフォーマンスを叩き出すという、数字と実績に裏打ちされた冷徹なまでの信頼。


★★★★★★★★★★★


 深夜の国道246号線。

 オレンジ色の街灯が等間隔で流れていき、流線型の漆黒のボディを滑るように反射しては後ろへ消えていく。


 美鈴の操るスポーツカーは、法定速度を遥かに超える領域で、深夜のトラックやタクシー、一般車両の間を縫うように疾走していた。

 助手席の真矢は、左手で防水シリンダーを胸に固く抱え込み、右手で頭上のアシストグリップが軋むほど強く握りしめていた。

 元スタントウーマンとして幾度も死線を潜り抜け、車の挙動限界を骨の髄まで叩き込まれている真矢の身体が、本能的な警告音を鳴らし続けている。

 車幅ギリギリのすり抜け。ミリ秒単位のブレーキング。タイヤのグリップ力の限界を探りながらの、綱渡りのような荷重移動。

 目前に迫る大型トラックの赤いテールランプ。ブレーキペダルを踏むべきタイミングを完全に過ぎているにもかかわらず、美鈴の右足は僅かにアクセルを残したままだ。


(ぶつかる――!)


 真矢が思わず息を呑み、右足が架空のブレーキペダルを踏みしめるように硬直した次の瞬間。


 美鈴のつま先がブレーキペダルを弾くように叩き、同時にステアリングが微かに切られる。車体はまるで吸い込まれるように、トラックと中央分離帯の間のわずかな空間へと滑り込み、一切の挙動の乱れもなく追い越しを完了させていた。風切り音が凄まじい悲鳴を上げ、隣を走るトラックの車体が壁のように後方へすっ飛んでいく。


「あんた……一体何者?」


 真矢が横Gに耐え、喉の奥から声を絞り出す。

 すると美鈴は、頭に乗せたサングラスの位置を片手で直す余裕すら見せながら、屈託なく笑った。


「ただの、雪山の妖精よ。ボスには昔、ちょっと借りがあってね。こういうヒリヒリする仕事、嫌いじゃないの」


 美鈴の視線が、ふとルームミラーへと向けられる。


「でも、向こうのお友達も、なかなか諦めが悪そうね」


 真矢がサイドミラーを確認すると、はるか後方の闇の中から、三つの強烈なヘッドライトの光が異様な速度で接近してくるのが見えた。立体駐車場で包囲を逃れた、あの黒いSUV群だ。

 先頭の車両はフロントバンパーをベコベコに凹ませながらも、強力な排気量のエンジンに物を言わせて猛追してきている。一般車両のクラクションが断続的に夜気を引き裂く。彼らは周囲の迷惑など一切顧みず、一般車両を無理やり路肩に追いやるようにして直線を駆け抜け、二台の距離を確実に縮めていた。


「プロの連中よ。どんな手を使ってでも、私たちが持ってる『紙』を取り戻しに来るわ」


 真矢の声に鋭い緊張が走る。相手は車体をぶつけてスピンさせる、ピットマニューバなどの戦術も躊躇なく使ってくるだろう。ただの運転手ではない、殺し合いのライセンスを持った連中だ。


「いいじゃない。鬼ごっこは、追ってくる相手が本気なほど燃えるでしょ?」


 美鈴は楽しげに喉を鳴らすと、ステアリングの脇にあるパドルシフトを指先で弾いた。


「しっかり捕まっててね、真矢ちゃん。ここからが、私の本業だから」


 ギアが一段落とされ、エンジンの回転数が跳ね上がる。

 漆黒のスポーツカーは咆哮を上げ、タイヤのグリップ力を限界まで引き出しながら、首都高速道路への急カーブのランプウェイへと突っ込んでいった。


「ちょっ、この速度でコーナーに――!?」


 真矢の叫びをかき消すように、美鈴はアクセルをさらに踏み込む。

 後輪が流れ始め、車体が斜めにスライドしていく。しかし、美鈴の表情には焦りはない。彼女のステアリング操作は、荒々しい車の挙動とは裏腹に、精密機械のように穏やかで正確だった。

 カウンターステアを当て、スロットルワークで車体の姿勢をコントロールする。遠心力とタイヤの摩擦が拮抗するレッドゾーンの境界線を、彼女はまるで氷の上を滑り降りるように、優雅に、そして暴力的な速度で駆け抜けていく。


 背後から迫るSUV群もまた、ランプウェイへと突入し、狂気じみた速度で追従してくる。彼らもプロだ。コーナーの限界を見極め、四輪駆動の安定性を活かして美鈴に食らいつく。

 深夜の東京を這う巨大なコンクリートの静脈、首都高速道路。

 料金所をETCで強行突破し、黄色い照明が連続するトンネル区間へと飛び込む。排気音がトンネル内で反響し、鼓膜を劈くような轟音となる。

 命がけのカーチェイスは、いよいよその本番を迎えようとしていた。

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