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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第九章:間に合わなかった名前

 夢を見た。


 葬儀の日だ。レイは子供で、14歳よりもっと小さい。式場の椅子は硬くて、足が床に届かない。周囲の大人たちが泣いていた。泣き声は複数あって、それぞれ微妙に違う周波数を持っていた。


 レイは泣けなかった。


 泣けなかった、というよりも、何をすれば泣くことになるのか分からなかった。悲しいという言葉は知っていた。寂しいという言葉も知っていた。しかし胸の中にあるものは、そのどちらとも、かたちが合わなかった。


 名前のないものは、どこに置けばいいのか。


 置く場所がなかった。だから胸の中にあるものは、置かれないまま、そこにあり続けた。


 夢の中でレイは大人の背中を見ていた。黒い服が並んでいた。誰も子供のレイを見なかった。それが悪意からではないと分かっていた。ただ、誰も見ていなかった。


 目が覚めた。


 夜中の2時だった。部屋は暗かった。心拍が速かった。


 ヴァシの紙片を取り出した。折り畳まれたままの状態で、手の中に収まっていた。


 しばらく、開かずに持っていた。


 紙片の感触だけを感じていた。折り目の角が少し尖っている。紙が少しくたびれているから、角は柔らかい。


 広げると、点の群れが見えた。


 レイはその点を見て、急に、点を打った日の午後を思い出した。冷却ダクトの音。呼吸のタイミング。ペンを持っていた右手の感触。


 翻訳できなかった、という思いが来た。


 その思いが、なぜか葬儀の日の記憶と重なった。


 重なったとき、重なった理由を考えようとした。考えが続かなかった。


 葬儀の日、泣けなかったのは、悲しくなかったからではなかった、という思いが来た。それがどこから来たのか、手がかりがなかった。


 感情が言葉より大きかったから、言葉が見つからなかった。名前がなかったのではなく、名前が間に合わなかった。その差が、ある。


 間に合わなかった名前を、今も探しているのか。それとも、もう探していないのか。どちらとも言えなかった。


 ペンを取った。


 紙片に、もう一度点を打ち始めた。今度は呼吸のタイミングではなかった。心拍のタイミングで打っていた。心拍は速かった。起き抜けで、あの夢の後で、速かった。点の間隔が、最初の群れより詰まっている。


 打ちながら、点の意味を考えなかった。


 考えないでいると、点を打つ手が止まらなかった。


 30分打ち続けた。紙片の余白が埋まりそうになって、止まった。


 余白を残した。


 紙片を折り畳んで、また手に持った。


 しばらくそのまま、暗い部屋で座っていた。心拍が少しずつ落ち着いていった。


 窓の外が少し明るくなっていた。夜明けだった。レイは窓を開けた。


 外の空気が入ってきた。冷たかった。においがした。機械の排気と、湿った土と、何か別のもの。識別しようとしなかった。


 ただ、においが来て、肺に入って、出ていった。


 記録簿を取り出した。


「感情的内容:——」


 一文字目を書いて、止まった。


 ダッシュを一本だけ書いて、閉じた。


 翌日、レイはVX-Nullを受信した。ヘッドセットをつけて、椅子に座って、ただ聞いた。


 信号の中に、昨夜の心拍の速さを思い出させる間隔があった。


 思い出した、というのは正確ではない。間隔が来たとき、胸の奥で何かが照合した。記憶と照合したというより、身体が照合した。


 どちらが先だったのかは、今でも分からない。



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