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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第八章:余白に刻む呼吸の点

 翻訳をしない時間の使い方を、レイは知らなかった。


 それに気づいたのは、ある休日の午後だった。局は休みで、翻訳業務はない。レイは自室にいた。端末を開いて、VX-Nullのデータを開いた。それからしばらくして、今日は業務がないのに何をしているのかと思った。


 端末を閉じた。


 何かをしようとした。


 何もなかった。


 レイは起き上がって、近くの食堂まで歩いた。パンを買って食べた。ライ麦の酸味と、発酵の鋭い香りが来た。翻訳しようとした。味を言語化しようとしたが途中でやめた。やめた後でパンがまだ口の中にあって、その感触がしばらく続いた。


 食堂を出て、局舎の外廊下に出た。冷却ダクトの排気音がした。周期的な音だ。毎分8回、低く振動する。いつもならその数を数えて、機械の種類を特定する。


 今日は数えなかった。


 ただただ聞いた。


 聞いていると、自分の呼吸が音に合わせて変わっていくのが分かった。呼吸が合わせようとしているのか、音が呼吸に寄ってきているのか、分からなかった。


 ポケットに手を入れた。ヴァシの紙片が入っていた。折り畳まれた状態で、少しくたびれている。毎日持ち歩いていた。


 もちろん何も書かれていない。破られた跡の繊維が白い。端にインクのにじみがある。もともとそこに書かれていたものは別の紙片にある。レイが持つのは余白だ。


 ペンを取り出した。


 何かを書こうとしたが言葉が来なかった。


 言葉ではなく、点を打った。一つ。また一つ。


 呼吸のタイミングで打っていた。吸って、吐いて、点。吸って、吐いて、点。不規則な間隔で、不規則な大きさで、点が増えていった。


 5分ほどそうしていた。


 点を打ち終えて、紙片を見た。点の群れがあった。文字ではない。記号でもない。ただ、その時間にレイが呼吸した回数だけ、紙片に跡が残っていた。


 レイはそれを折り畳んで、ポケットに戻した。


 廊下に立ったまま、冷却ダクトの音を聞いた。


 その夜、VX-Nullを受信した。やはり翻訳しなかった。マッピングもしなかった。ポケットから紙片を出して、机の上に置いた。点の群れが見えた。


 信号が届いてきた。

 構造は分からない。

 意味は、取れない。

 しかし届いている。


 レイは紙片の点を見ながら、信号を聞いた。聞きながら、ペンを手に持ったが書かなかった。ペンの重さだけを手に感じていた。


 30分後に受信を終えた。紙片をポケットに戻した。



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