第八章:余白に刻む呼吸の点
翻訳をしない時間の使い方を、レイは知らなかった。
それに気づいたのは、ある休日の午後だった。局は休みで、翻訳業務はない。レイは自室にいた。端末を開いて、VX-Nullのデータを開いた。それからしばらくして、今日は業務がないのに何をしているのかと思った。
端末を閉じた。
何かをしようとした。
何もなかった。
レイは起き上がって、近くの食堂まで歩いた。パンを買って食べた。ライ麦の酸味と、発酵の鋭い香りが来た。翻訳しようとした。味を言語化しようとしたが途中でやめた。やめた後でパンがまだ口の中にあって、その感触がしばらく続いた。
食堂を出て、局舎の外廊下に出た。冷却ダクトの排気音がした。周期的な音だ。毎分8回、低く振動する。いつもならその数を数えて、機械の種類を特定する。
今日は数えなかった。
ただただ聞いた。
聞いていると、自分の呼吸が音に合わせて変わっていくのが分かった。呼吸が合わせようとしているのか、音が呼吸に寄ってきているのか、分からなかった。
ポケットに手を入れた。ヴァシの紙片が入っていた。折り畳まれた状態で、少しくたびれている。毎日持ち歩いていた。
もちろん何も書かれていない。破られた跡の繊維が白い。端にインクのにじみがある。もともとそこに書かれていたものは別の紙片にある。レイが持つのは余白だ。
ペンを取り出した。
何かを書こうとしたが言葉が来なかった。
言葉ではなく、点を打った。一つ。また一つ。
呼吸のタイミングで打っていた。吸って、吐いて、点。吸って、吐いて、点。不規則な間隔で、不規則な大きさで、点が増えていった。
5分ほどそうしていた。
点を打ち終えて、紙片を見た。点の群れがあった。文字ではない。記号でもない。ただ、その時間にレイが呼吸した回数だけ、紙片に跡が残っていた。
レイはそれを折り畳んで、ポケットに戻した。
廊下に立ったまま、冷却ダクトの音を聞いた。
その夜、VX-Nullを受信した。やはり翻訳しなかった。マッピングもしなかった。ポケットから紙片を出して、机の上に置いた。点の群れが見えた。
信号が届いてきた。
構造は分からない。
意味は、取れない。
しかし届いている。
レイは紙片の点を見ながら、信号を聞いた。聞きながら、ペンを手に持ったが書かなかった。ペンの重さだけを手に感じていた。
30分後に受信を終えた。紙片をポケットに戻した。




