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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第七章:翻訳士の白旗、聞こえないものを聞く夜

 報告書を書くのに6日かかった。


 6ヶ月間の観測記録を整理した。マッピング失敗の記録が日付順に並んでいる。信号の観測行為による構造変化の記録。翻訳を試みると崩れるという観察。感覚応答の低下記録。


 それらを一つの文書にまとめて、最後の結論を書いた。


 翻訳不能。


 局の歴史上、この二文字を公式文書に記したのはレイが初めてではない。しかし第七翻訳部門の主任翻訳士が記すのは、開局以来初めてだった。


 報告書を提出した翌日、副局長のマール・チョウから呼び出しがあった。


「脅威評価が必要だ。防衛部門に回すか」


「分類できません」とレイは言った。


「脅威かどうかも、翻訳できない」


「翻訳できないものは脅威と見なすのが原則だ」


「分類できないものを脅威と呼ぶのは、翻訳ではなく推測です」


 マールは机を指で叩いた。


「では何と呼ぶんだ」


「呼べません。今は」


「今は、ということは、いずれは呼べるのか」


「分かりません」


 マールはため息をついた。「継続観察を認める。ただし期限をつける。3ヶ月後に再報告を求める」


「了解です」


 退室した。廊下を歩きながら、レイは自分が「分かりません」と4回言ったことを数えた。業務中に分からないと言うのは珍しくない。しかし「分類できない」と「呼べない」を明言したのは初めてだった。


 翻訳不能という報告書を出した翌朝、レイは気づいた。


 翻訳するためではなく、ただ聞くために、VX-Nullを受信していた。


 昨夜もそうだった。その前の夜もそうだった。いつからそうなったのか分からない。しかし確かに、翻訳の試みは終わっていた。


 記録簿を開いた。


「VX-Null観測状態:継続中。目的:不明。感情的内容:測定不能。」


 「目的:不明」と書いたのは初めてだった。


 端末の画面に波形が出ている。翻訳しない。マッピングしない。ただ出力してある。音声変換をかけると、人間の可聴域外の周波数が多いため実際には聞こえない。レイはそれでも音声変換をかけた状態にしていた。


 聞こえないものを聞こうとしていた。


 その行動の意味を、レイは記録しなかった。



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