第六章:余白という名の贈り物
ヴァシの定年退職の日、小さな送別会が第七翻訳部門の休憩室で開かれた。
ヴァシは紙コップのコーヒーを持って、サエと他の翻訳士たちの間で笑っていた。白髪が照明に白く光っていた。大柄な身体が椅子に収まっていた。手帳は今日も胸ポケットに入っていた。
レイは部屋の端に立っていた。
ヴァシが翻訳士の一人と話し終えたとき、レイの隣に来て座った。椅子を引いて、パンを手に取った。食べながら、何も言わなかった。
レイも何も言わなかった。
2分ほど経ってから、ヴァシが言った。
「どうだ」
「翻訳できません」
「うん」
「他の言語の感覚が薄れています。A群もほぼ消えました」
「うん」
「字義の精度は落ちていません。しかし温度が分からなくなっています」
「うん」
「……何か言ってください」
ヴァシはパンを食べ終えた。紙コップのコーヒーを飲んだ。飲みながら、レイを見た。
「君はまだ、母親の死を翻訳していない」
沈黙。
休憩室の向こう側では、サエたちが笑っていた。誰かがヴァシの昔の武勇伝を話していた。ヴァシはそちらを見なかった。
レイは何も言えなかった。
「翻訳しなくていいんです」とレイはようやく言った。
「翻訳すべきものではないものがあります。私はそれを知っています」
「知識としては知っている」とヴァシは言った。
また沈黙。
ヴァシは胸ポケットから手帳を出した。最後のページに近い部分を開いた。破り取られた跡が一ページある。その跡の部分だけを、ゆっくり手帳から切り取り始めた。ハサミではなく、指で慎重に破っていった。白い繊維が見えた。インクのにじんだ端が残った。
「これをあげよう」
レイは受け取った。
破られた跡の紙片だった。何も書かれていない。もともとそこに書かれていたものは、ヴァシが手帳から破り取った別のページに残っている。レイが持つのは、その余白、つまり何もなかった部分だ。
「使わなくていい。ただ持っていてほしい」
「……何のためにですか」
「分からない」とヴァシは言った。
「ただ渡したいから渡す」
レイは紙片を折って、ポケットに入れた。
ヴァシは続けた。
「私は40年かけて言語を解読した。解読した瞬間から、その言語が死んで見えた」
「それで、意図的に誤訳するようになった」
「そうだ」
「それは翻訳士として失格だと、分かっていますか」
「分かっている」とヴァシは言った。
笑ってはいなかった。
「しかし生きている言語に、完全な解読は似合わない」
レイはその言葉を聞きながら、指先でポケットの中の紙片を触った。紙の繊維の感触がした。ざらついている。
「君が見ているものは、怖いものか」
レイは答えなかった。
「分からない、という意味か」とヴァシは聞いた。
「はい」
「分からないなら、まだ大丈夫だ」
ヴァシは立ち上がった。向こう側でサエが手招きしていた。ヴァシはそちらに歩いていった。大柄な背中が人の輪の中に消えた。
レイは紙片を、ポケットの中で、もう一度触った。
送別会が終わった後で、レイは第七翻訳部門の端末室に戻った。窓のない部屋。照明は一定だった。VX-Nullのデータを開いた。波形を見た。
翻訳しようとしなかった。
ただ見た。
見ている間、胸の奥が静かだった。




