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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第六章:余白という名の贈り物

 ヴァシの定年退職の日、小さな送別会が第七翻訳部門の休憩室で開かれた。


 ヴァシは紙コップのコーヒーを持って、サエと他の翻訳士たちの間で笑っていた。白髪が照明に白く光っていた。大柄な身体が椅子に収まっていた。手帳は今日も胸ポケットに入っていた。


 レイは部屋の端に立っていた。


 ヴァシが翻訳士の一人と話し終えたとき、レイの隣に来て座った。椅子を引いて、パンを手に取った。食べながら、何も言わなかった。


 レイも何も言わなかった。


 2分ほど経ってから、ヴァシが言った。


「どうだ」


「翻訳できません」


「うん」


「他の言語の感覚が薄れています。A群もほぼ消えました」


「うん」


「字義の精度は落ちていません。しかし温度が分からなくなっています」


「うん」


「……何か言ってください」


 ヴァシはパンを食べ終えた。紙コップのコーヒーを飲んだ。飲みながら、レイを見た。


「君はまだ、母親の死を翻訳していない」


 沈黙。


 休憩室の向こう側では、サエたちが笑っていた。誰かがヴァシの昔の武勇伝を話していた。ヴァシはそちらを見なかった。


 レイは何も言えなかった。


「翻訳しなくていいんです」とレイはようやく言った。


「翻訳すべきものではないものがあります。私はそれを知っています」


「知識としては知っている」とヴァシは言った。


 また沈黙。


 ヴァシは胸ポケットから手帳を出した。最後のページに近い部分を開いた。破り取られた跡が一ページある。その跡の部分だけを、ゆっくり手帳から切り取り始めた。ハサミではなく、指で慎重に破っていった。白い繊維が見えた。インクのにじんだ端が残った。


「これをあげよう」


 レイは受け取った。


 破られた跡の紙片だった。何も書かれていない。もともとそこに書かれていたものは、ヴァシが手帳から破り取った別のページに残っている。レイが持つのは、その余白、つまり何もなかった部分だ。


「使わなくていい。ただ持っていてほしい」


「……何のためにですか」


「分からない」とヴァシは言った。


「ただ渡したいから渡す」


 レイは紙片を折って、ポケットに入れた。


 ヴァシは続けた。


「私は40年かけて言語を解読した。解読した瞬間から、その言語が死んで見えた」


「それで、意図的に誤訳するようになった」


「そうだ」


「それは翻訳士として失格だと、分かっていますか」


「分かっている」とヴァシは言った。

 笑ってはいなかった。


「しかし生きている言語に、完全な解読は似合わない」


 レイはその言葉を聞きながら、指先でポケットの中の紙片を触った。紙の繊維の感触がした。ざらついている。


「君が見ているものは、怖いものか」


 レイは答えなかった。


「分からない、という意味か」とヴァシは聞いた。


「はい」


「分からないなら、まだ大丈夫だ」


 ヴァシは立ち上がった。向こう側でサエが手招きしていた。ヴァシはそちらに歩いていった。大柄な背中が人の輪の中に消えた。


 レイは紙片を、ポケットの中で、もう一度触った。


 送別会が終わった後で、レイは第七翻訳部門の端末室に戻った。窓のない部屋。照明は一定だった。VX-Nullのデータを開いた。波形を見た。


 翻訳しようとしなかった。


 ただ見た。


 見ている間、胸の奥が静かだった。


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