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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第五章:正確で、死んでいる翻訳

 B群の次にC群が崩れた。


 崩れ方は同じだった。骨格は分かる。しかし視野の右端が青くならない。語の重要度の序列が見えない。訳文は成立する。しかしどこを信じればいいかが決まらないまま、訳文が出ていく。


 5ヶ月目に、A群が崩れ始めた。


 A群の崩れは別の意味で深刻だった。肺胞系言語は既知宇宙の中でも広く使われている。第七翻訳部門の案件の4割がA群を含む。感情副詞の重みが読めない。感嘆と恐怖が同じ重さで届く。緊急信号と定期報告の温度差が消える。翻訳士としての核心部分が、音を立てずに欠けていった。


 レイは仕事の速度を落とさなかった。


 骨格解析だけで訳文は出せる。字義は正確だ。ただ、()()()()()()()()()()。以前は感覚が先にあって、骨格がそれを確認した。今は骨格だけがあって、感覚がない。同じ結論に至っていても、何かが逆になっている。


 提出した翻訳に修正依頼が来たことはない。しかしレイには、自分の訳文が正しいのか正確なのかが、もう区別できなかった。正確な骨格。しかし、そこに()()()()()()()()()()()()()()()


 サエは「レイ、最近また()()()()()()()()()」と言った。


 レイは何も言わなかった。


 速くなった理由は、感覚を待つ時間がなくなったからだ。以前は身体が反応するのを待った。苦味が来るのを待って、脈動が来るのを待って、そこから解読を始めた。今は待たない。波形を見て、構造を解析して、終わる。


 翻訳が終わった瞬間に、完全に終わる。何も残らない部屋に戻る。以前は翻訳が終わると、その言語の手触りが数時間続いた。A群を訳した後は、午後いっぱい舌の裏にうっすら金属の味がした。B群の後は、夕方まで左のこめかみが微かに温かかった。その余熱の中で、次の案件に向かっていた。


 それがなくなった。


 その週、ヴァシとの月例報告があった。


 局長室に入ると、ヴァシは手帳を開いていた。レイは報告を始めた。B群、C群、A群の順で感覚応答が低下したこと。字義の精度への影響はないこと。ただし感情副詞の重み判定に支障が出ていること。VX-Null信号の観測継続中であること。


 ヴァシは手帳に何かを書きながら聞いていた。


「精度は落ちていない」


「字義の精度は、はい」


()()()()()()()()


 レイは答えなかった。


「そうだろう」とヴァシは言った。

 疑問ではなかった。

 これは()()()()()()の声だった。


 ヴァシは手帳を閉じた。閉じてから、レイに渡した。


「57ページを見てくれ」


 レイはページを開いた。57ページには、ヴァシの手書きで翻訳文が書かれていた。既知言語の公式文書だ。レイは読んだ。読んで、止まった。


 一箇所、()()があった。


 完全解読済みのはずの言語で、一語がずれていた。

 原義は「確定した」という意味の動詞だが、ヴァシは「揺れている」という別の動詞で訳していた。意味は正反対に近い。


「これは」


「うん」とヴァシは言った。


「誤訳です」


「うん」


「意図的ですか」


 ヴァシは答えなかった。手帳を受け取って、また閉じた。


「感覚が落ちても字義は正確、という感覚は正しい」とヴァシは言った。


「その先の話をしているか」


「記録対象外にしています」


「そうか」


 それだけだった。ヴァシはまた別のことを書き始めた。レイは退室した。


 廊下に出てから、エレベーターに乗るまでの間、ヴァシの誤訳のことを考えた。「確定した」を「揺れている」に変える。何のために。誰のために。どのページで止まり、どのページを開くかを決めているのは誰か。


 エレベーターの中で、鏡を見た。第七翻訳部門のエレベーターには鏡がある。レイは自分の顔を見た。目が静かだった。いつも静かだ。感情が読めないと言われることを、レイは知っている。それが欠点だと指摘された回数も覚えている。7回だ。


 今日の自分の顔を、しばらく見ていた。


 4階のボタンを押した。


 その夜、VX-Nullを受信した。


 翻訳しなかった。

 分類しなかった。

 ただ受信状態にして、ヘッドセットをつけて、椅子に座っていた。


 信号は届いてくる。構造は相変わらず分からない。マッピングを起動しないから、拒絶も起きない。ただ、届いてくる。


 でも胸の奥の圧力が消えた。


 20分後に消えた。消えてから気づいた。


 レイはヘッドセットをつけたまま、天井を見た。

 天井には何もない。換気システムの通気口が一つあるだけだ。

 ローターが回る低い音がする。


 その音が、VX-Nullの信号の合間に聞こえた。音と信号の間に隙間があった。その隙間の中で、レイは何も考えなかった。


 記録簿を開いた。


 感情的内容:測定不能。


「測定不能」と書いたのも初めてだった。「判定保留」は書いたことがあった。しかし「測定不能」は違う意味だ。測定できる状態にない、ということだ。計器が壊れているのではなく、測定すること自体を一時的に手放した状態。


 レイはその違いを30秒考えて、やはり正確な定義が出なかったので、保留した。


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