第五章:正確で、死んでいる翻訳
B群の次にC群が崩れた。
崩れ方は同じだった。骨格は分かる。しかし視野の右端が青くならない。語の重要度の序列が見えない。訳文は成立する。しかしどこを信じればいいかが決まらないまま、訳文が出ていく。
5ヶ月目に、A群が崩れ始めた。
A群の崩れは別の意味で深刻だった。肺胞系言語は既知宇宙の中でも広く使われている。第七翻訳部門の案件の4割がA群を含む。感情副詞の重みが読めない。感嘆と恐怖が同じ重さで届く。緊急信号と定期報告の温度差が消える。翻訳士としての核心部分が、音を立てずに欠けていった。
レイは仕事の速度を落とさなかった。
骨格解析だけで訳文は出せる。字義は正確だ。ただ、判断の根拠が変わった。以前は感覚が先にあって、骨格がそれを確認した。今は骨格だけがあって、感覚がない。同じ結論に至っていても、何かが逆になっている。
提出した翻訳に修正依頼が来たことはない。しかしレイには、自分の訳文が正しいのか正確なのかが、もう区別できなかった。正確な骨格。しかし、そこに生きていたはずの温度のない翻訳。
サエは「レイ、最近また速くなった気がする」と言った。
レイは何も言わなかった。
速くなった理由は、感覚を待つ時間がなくなったからだ。以前は身体が反応するのを待った。苦味が来るのを待って、脈動が来るのを待って、そこから解読を始めた。今は待たない。波形を見て、構造を解析して、終わる。
翻訳が終わった瞬間に、完全に終わる。何も残らない部屋に戻る。以前は翻訳が終わると、その言語の手触りが数時間続いた。A群を訳した後は、午後いっぱい舌の裏にうっすら金属の味がした。B群の後は、夕方まで左のこめかみが微かに温かかった。その余熱の中で、次の案件に向かっていた。
それがなくなった。
その週、ヴァシとの月例報告があった。
局長室に入ると、ヴァシは手帳を開いていた。レイは報告を始めた。B群、C群、A群の順で感覚応答が低下したこと。字義の精度への影響はないこと。ただし感情副詞の重み判定に支障が出ていること。VX-Null信号の観測継続中であること。
ヴァシは手帳に何かを書きながら聞いていた。
「精度は落ちていない」
「字義の精度は、はい」
「しかし何かが違う」
レイは答えなかった。
「そうだろう」とヴァシは言った。
疑問ではなかった。
これは知っている者の声だった。
ヴァシは手帳を閉じた。閉じてから、レイに渡した。
「57ページを見てくれ」
レイはページを開いた。57ページには、ヴァシの手書きで翻訳文が書かれていた。既知言語の公式文書だ。レイは読んだ。読んで、止まった。
一箇所、誤訳があった。
完全解読済みのはずの言語で、一語がずれていた。
原義は「確定した」という意味の動詞だが、ヴァシは「揺れている」という別の動詞で訳していた。意味は正反対に近い。
「これは」
「うん」とヴァシは言った。
「誤訳です」
「うん」
「意図的ですか」
ヴァシは答えなかった。手帳を受け取って、また閉じた。
「感覚が落ちても字義は正確、という感覚は正しい」とヴァシは言った。
「その先の話をしているか」
「記録対象外にしています」
「そうか」
それだけだった。ヴァシはまた別のことを書き始めた。レイは退室した。
廊下に出てから、エレベーターに乗るまでの間、ヴァシの誤訳のことを考えた。「確定した」を「揺れている」に変える。何のために。誰のために。どのページで止まり、どのページを開くかを決めているのは誰か。
エレベーターの中で、鏡を見た。第七翻訳部門のエレベーターには鏡がある。レイは自分の顔を見た。目が静かだった。いつも静かだ。感情が読めないと言われることを、レイは知っている。それが欠点だと指摘された回数も覚えている。7回だ。
今日の自分の顔を、しばらく見ていた。
4階のボタンを押した。
その夜、VX-Nullを受信した。
翻訳しなかった。
分類しなかった。
ただ受信状態にして、ヘッドセットをつけて、椅子に座っていた。
信号は届いてくる。構造は相変わらず分からない。マッピングを起動しないから、拒絶も起きない。ただ、届いてくる。
でも胸の奥の圧力が消えた。
20分後に消えた。消えてから気づいた。
レイはヘッドセットをつけたまま、天井を見た。
天井には何もない。換気システムの通気口が一つあるだけだ。
ローターが回る低い音がする。
その音が、VX-Nullの信号の合間に聞こえた。音と信号の間に隙間があった。その隙間の中で、レイは何も考えなかった。
記録簿を開いた。
感情的内容:測定不能。
「測定不能」と書いたのも初めてだった。「判定保留」は書いたことがあった。しかし「測定不能」は違う意味だ。測定できる状態にない、ということだ。計器が壊れているのではなく、測定すること自体を一時的に手放した状態。
レイはその違いを30秒考えて、やはり正確な定義が出なかったので、保留した。




