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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第四章:身体から温度が消えていく

 3ヶ月が経った。


 レイは毎日VX-Nullに向き合っていた。向き合い方は最初の1週間で確立した。まず信号を受信する。次にマッピングを試みる。マッピングが止まる。止まった時点で、停止の様態を記録する。同じ場所で止まるのか。別の場所で止まるのか。止まり方に変化はあるか。


 変化はあった。


 3週目に、マッピングが止まる前に、信号の構造がわずかに変化することに気づいた。翻訳を試みた瞬間に、波形が微妙にずれる。翻訳しようとするから崩れるのか、崩れるから翻訳できないのか、どちらが先かは分からない。


 レイはその観察を記録した。


「信号の特性:観測行為による構造変化の可能性。翻訳試行時に波形変動を確認。因果関係不明。継続観察中。感情的内容:なし。」


 2ヶ月目に入ったある朝、変化が起きた。


 それはVX-Nullとは無関係な業務中に起きた。


 サエから回ってきた報告書を読んでいた。第五腕状星雲の入植地からの交信、既知言語B群で書かれた簡単な文書。内容確認のための二次照合を頼まれた業務だ。


 レイは翻訳を始めた。


 B群だから、こめかみが脈打つはずだった。


 ()()()()()()()


 レイは画面を閉じて、もう一度開いた。もう一度翻訳を始めた。言語は分かる。単語の意味も分かる。文法構造も正確に把握できる。しかし、身体が反応しない。こめかみが脈動しない。骨格は取れる。しかし温度が来ない。


 レイはしばらくその状態を観察した。


 翻訳を完了させた。30分後、サエに返した。

 サエは「ありがとう、早いね」と言って微笑んでくれた。


 レイは何も言わなかった。


 しかし報告書の末尾を見直したとき、手が止まった。B群の感情副詞が三箇所あった。いずれも「おそらく強調」と処理していた。苦味の後の甘みが来なかったから、感情の重みが測れなかった。どの語が切実で、どの語が形式的かが、分からなかった。


 訳文は正しい。

 しかしそれがどのくらい正しいのか、今のレイには検証できない。


 それも記録した。


「B群言語:感覚応答の低下を確認。翻訳の骨格精度への影響なし。ただし感情副詞の重み判定に支障あり。原因不明。要経過観察。感情的内容:なし。」


 その夜、夢を見た。


 313番目の言語を覚えようとしている。しかし313番目の言語は、レイが近づくたびに形を変える。A群に見えて、B群の構造を持ち、C群の感覚で届いてくる。レイは「受け取り方」を合わせようとして、合わせるたびに外れる。


 目が覚めた。


 真夜中だった。

 部屋は暗い。

 天井を見上げた。心拍が少し速かった。


 記録簿を取り出した。


「感情的内容:判定保留」


 判定保留と書いたのは初めてだった。


 書いた後で、なぜ「なし」と書かなかったのか、しばらく天井を見ていた。分からないまま、また眠った。眠れたかどうかも、翌朝には忘れていた。


 さらにいつの間にかB群の感覚応答の低下が定常化していた。


 同時に、奇妙なことが起きていた。


 VX-Nullを受信している時間だけ、胸の奥の圧力が消えた。翻訳しようとすると、圧力が戻る。マッピングを指示すると、戻る。しかし翻訳も分類もせず、ただ受信している状態でいると、胸が静かになる。


 静かになる、というのはレイの言葉ではない。レイには「静か」の基準がなかった。ただ、圧力が消える、という事実だけを観察した。


 そしてその事実を、記録しなかった。


 端末を閉じた。


 4ヶ月目の最終日、ヴァシからメッセージが来た。


「進捗を教えてくれ。急がなくていいが」


 レイは返信した。


「解読中。変化あり。詳細は口頭で。感情的内容:判定保留。」


 最後の一行は消そうとして、消さなかった。


 送信した後で、窓のない部屋の照明を見た。一定の色温度。朝か夜か分からない。それを不便と思ったことはなかったが、今日は少しだけ、外の光がどんな色をしているか考えた。考えて、答えを出さないまま、次の業務に戻った。


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