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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第二章:ヴァシの遺言、破られた手帳

 局長室は、第七翻訳部門の真下にある。


 ヴァシ・オリンは大柄な男で、白髪を短く刈っていた。局長室の机は広いが、端末は隅に追いやられていて、中央には常に紙の手帳が開いている。インクのにじんだページが多い。書いた直後に手が触れたのか、それとも別の理由なのか、レイには分からない。ヴァシ本人はその理由を説明しない。


 呼ばれたのは火曜の午後だった。


「座れ」


 ヴァシはレイが入ってくるのを見もせずに言った。手帳に何かを書き込んでいる。筆圧の強い線と弱い線が混じっている。強い線は直線で、弱い線は波打っている。


 レイは椅子に座った。ヴァシが書き終えるのを待った。45秒かかった。


「辺境から変な信号が来ている」


 ヴァシは手帳を閉じずに言った。端末を操作して何かを呼び出す素振りはなかった。代わりに、手帳のページを1枚めくって、波形らしき曲線を手書きで写し始めた。


「なぜデータで見ないんですか」


 レイが言うと、ヴァシは書く手を止めた。止めただけで、答えなかった。また書き始めた。


 30秒後に言った。


「データで見ると、分からないものが分かった気になる。紙は嘘をつかない。手が覚えているものしか残らない」


 レイはその言葉の意味を考えた。考えている間に意味が見つからなかったので、保留した。


 ヴァシは別のページを開いた。隅が破り取られた跡があった。破られた繊維が白く毛羽立っている。レイはそれを見てしまった。ヴァシはゆっくりページを閉じた。


 沈黙が続いた。換気システムの音がした。


「一つ聞いていいですか」


 レイが言った。


「手帳のページを破って、誰かに渡したことがありますか」


 ヴァシは手帳を見た。それからレイを見た。


「ある」


「何を書いていたんですか」


「忘れた」


 レイはそれが嘘だと分かった。分かったが、あえて追及しなかった。


「信号の話をする」とヴァシが言った。


「VX-Null領域からだ。座標は渡す。解読できないかもしれない。それでいい。ただ向き合ってくれ」


「翻訳不能の可能性があっても?」


「翻訳不能でも向き合うことはできる」


 レイはその言葉を聞いて、何かを言おうとして、やめた。


 ヴァシは手帳を再び開いた。最後のページに近い部分で止まった。


「私は若い頃に、ある言語を40年かけて解読した」


 突然の話だった。レイは何も言わなかった。


「解読した瞬間に思ったのは、終わりだ、ということだった」


「完成したということですか」


「違う」とヴァシは即座に言った。


「もう分からなくなることがない、と思った。それだけだ」


 レイは意味を考えた。考えて、言葉が来なかった。


「その星系の文明は、解読完了の翌年に絶滅した。最後の交信記録の意味は、私たちはここにいた、だった」


 レイは何も言わなかった。


「悲しいかどうか聞くつもりだったなら、違う」とヴァシは続けた。「ただ、分からなくなるものがなくなった、と感じた。それだけだ」


 沈黙。


 ヴァシはデータを端末から転送した。


「急がなくていい。ただ、正直に向き合ってくれ」


 レイは端末を受け取って立ち上がった。ドアに向かいながら、一度だけ振り返った。ヴァシはまた手帳に何かを書いていた。


 廊下に出た。


 「分からなくなるものがなくなった」という言葉が、胸のあたりに引っかかっていた。引き出しを探したが、入れる場所が見つからなかった。分類できない言葉は初めてではなかった。しかし今日のそれは、別の重さがあった。


 レイはエレベーターのボタンを押した。4階の表示が点灯した。扉が開くまでの6秒間、廊下の壁を見ていた。壁は何もない灰色だった。


 第七翻訳部門に戻ると、サエが新しいパンを机に置いていった。今度は温かかった。レイはそれをすぐに食べた。味がした。小麦の、素直な甘さだった。


 データを開いた。


 VX-Null領域。座標を確認する。既知宇宙の外縁部、さらにその先。公式地図では「観測未確認領域」と記されている。翻訳局のデータベースには、この座標からの交信記録は存在しない。


 レイはヴァシが手書きで写した波形のデータと、実際の信号データを並べてみた。ヴァシの手書きは正確ではなかった。いくつかの波形の形が変えられていた。


 意図的かどうか、見当がつかなかった。


 レイはその手書きの波形を、しばらく見ていた。正確でないのに、何か別のものが伝わってくる気がした。「気がした」という感覚を、レイはすぐに「主観的印象、記録対象外」と分類した。


 分類した後で、ヴァシの手書きの画像を端末の片隅に残した。



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