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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第一章:舌の裏の苦み、あるいは312の檻

 舌の裏に、金属の苦味が広がる。


 レイ・カナエは波形から目を離さず、左手の指を微妙に曲げた。データグローブの内側で振動が返ってくる。細かく、規則的に。肺胞系言語だ。発信源の座標を右隅で確認する。第三腕状星雲の外縁、登録済みの入植地からの通常交信。


 レイは3.7秒で構造を掴んだ。


 端末の画面には橙色の波形が四列、上下に揺れている。レイには、その揺れ方が「話しかけている」ように見えたことは一度もない。波形は波形だ。苦味が強くなる。こめかみが脈打つ。B群の混交がある。二種の言語が一つの交信に混在するのは珍しくない。入植地では世代ごとに言語が変容する。


 レイは17分で骨格を解読した。


 解読の過程で、レイの指は止まらない。グローブの内側では312種の振動パターンが待機している。レイはその中から正しいものを選ぶというより、身体が勝手に向かっていく感覚に従う。翻訳とは探索ではなく、受け取り方の問題だ。


 左のこめかみの脈動が収まる。苦味が消える。代わりに、視野の右端がほんの少し青みを帯びる。C群の補助表現が末尾に混じっている。星雲外縁の入植地では、光変調系の語彙が感情的な副詞として機能することがある。


 2時間後、翻訳完了。


 レイは記録簿を開く。端末上のフォームに、決まった項目を埋めていく。


 解読済み。意味:入植地第七区の設備補修申請、および周辺星域への航路変更要請。発信源:第三腕状星雲外縁・座標NW-7734。感情的内容:なし。


「感情的内容:なし」は毎回書く。書かない日がない。


 翻訳業務において、翻訳士の主観的感情は精度を下げる。レイはそれを研修で習ったわけではない。14歳のとき、初めて異星語の翻訳を試みた日に自分で気づいた。感じながら訳すと、言葉が揺れる。だから感じない。感じそうになったら、即座に分類する。喜びなら記号に。不安なら構文に。


 同僚のサエ・ムラカミが廊下から顔を出した。


「レイ、今日も昼食べてないでしょ」


 レイは答えない。次の波形に視線を移している。


「机に置いとくから」


 サエはそう言って、何かを置いていった。20分後にレイが気づいたとき、それは包み紙に入ったパンだった。少し冷めていた。レイはそれを見て、手を伸ばすかどうか3秒迷い、結局伸ばした。


 味はした。


 でも分類する前に、飲み込んだ。


 銀河交信記録局の第七翻訳部門は、局舎の北棟四階にある。窓がない。照明は一定の色温度に固定されていて、朝と夜が区別できない。レイはそれを不便だと思ったことがない。翻訳に昼夜は関係ない。波形は時刻に関わらず届くからだ。


 部門には翻訳士が11名いる。レイ以外は全員、翻訳後に互いの解釈について話し合う習慣がある。解釈会議と呼ばれるその時間に、レイは参加しない。参加しなくていい、とヴァシ局長が取り決めている。理由は説明されていない。他の10名も、レイに理由を聞かない。


 第七翻訳部門が扱う交信は、既知宇宙の辺境から届くものが多い。解読難易度の高い言語、あるいは複数言語の混交、あるいは長期間の文化的変容によって原型をとどめなくなった変種。そういったものが第七に回ってくる。


 レイが担当する案件の8割は、他の部門で解読不能と判定されたものだ。


 共感覚があるからだ、とレイは自分では説明しない。ただ、身体が言語を記憶していると思っている。312言語。それぞれに固有の感覚がある。


 言語A群、つまり肺胞系言語では舌の裏に金属の苦味が来る。話者が空気圧を操作して言語を生成する種族の言葉で、人間の口腔では発音できないが、受け取ることはできる。苦味の強さが母音の開口度に対応している。感情の起伏は苦味の後に来る微かな甘みとして届く。その甘みを読めない翻訳士には、A群の感情副詞が文字通りの意味にしか見えない。


 言語B群、振動伝達系では左のこめかみが脈打つ。固体を通じて情報を伝える種族の言語で、人間の骨格がその振動の一部を受け取る。脈動のリズムが文法の時制を示す。リズムの微細な揺らぎが文脈を担っていて、構造解析だけでは揺らぎが平坦に消える。


 言語C群、光変調系では視野の右端が青くなる。発光によって情報を伝える種族で、人間の網膜の端が波長の変化を周辺視野で捉える。青みの濃さが語の重要度に比例する。重要度の序列が分からなければ、文章の何を信じればいいかが決まらない。


 312言語を習得しているのは、記憶力の問題ではない。勉強して身につけたわけでもない。身体が312通りの「受け取り方」を覚えているのだ。レイにとって翻訳とは、身体を特定の周波数に合わせる行為だ。構造を解析すれば言葉の骨格は取れる。しかし骨格だけでは、その言語が生きていた温度が分からない。


 今日の最終交信は、第九腕状星雲の辺境から届いた振動系の信号だった。こめかみが脈打つ。内容は農業コロニーからの気象変動報告。レイは17分で解読し、記録簿を閉じた。


 感情的内容:なし。


 窓のない部屋に、換気システムの低い音だけが残った。レイはその音を聞いていたが、周波数を分類しようとして、途中でやめた。やめたこと自体、翌朝まで忘れていた。



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