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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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第十一章 普遍的な素数ではなく、私の心拍を

 翌朝、目が覚めたとき、すでに送信するという前提で考えていた。


 いつから決まっていたのかは分からなかった。ただ、起きた瞬間にそこにあった。


 問題は、何を送るかだった。


 最初は翻訳士として考えた。最も適切な言語は何か。最も広く通じる構造は何か。宇宙言語学の観点から、知的生命体に向けた最初の送信として推奨されるのはどういう形式か。


 数学的なパターンが候補になった。素数の列。フィボナッチ数列。既知宇宙のどの知的生命体も独立に発見する普遍的な構造。


 しかしレイは、それを送ることができなかった。


 それはすでに翻訳された何かだ、という感触があった。翻訳されたものを送れば、翻訳されたものが返ってくるかもしれない。それは向こうが1.2秒の空白を作った理由ではない、とレイは思った。


 何が正しいのかも、説明できなかった。


 3日間考えた。考えている間、食事を3回忘れた。サエが4回パンを置いていった。3回は気づいて食べた。1回は翌朝まで気づかなかった。


 4日目の朝に答えが来た。


 翻訳士として考えるのをやめたとき、それは来た。


 312言語には、それぞれ「文法の隙間」がある。どの言語でも、言語が生まれた歴史の中で、一度は表現しようとして、うまく記号にできなかった構文がある。言語と言語の境界にある、意味になりかけて、なれなかった音の跡。


 言語学ではこれを「化石構文」と呼ぶことがある。使われなくなった文法の残骸。しかしレイにはそれが残骸に見えたことはない。なれなかっただけで、まだそこにある。


 312言語分の、意味にならなかった場所を集めることにした。


 その作業には1週間かかった。


 312言語のデータベースを一つずつ開いて、それぞれの化石構文を取り出した。規則はなかった。レイの手が向かうものを選んだ。身体が「これだ」と感じるものを選んだ。感覚応答が薄れた今でも、向かう感覚だけは残っていた。


 集まった断片を並べた。


 それを、自分の心拍の周期と同期させた。心拍センサーを接続して、心拍のリズムで断片の長さを切った。短く、長く、また短く。リズムはレイのその日の心拍が決めた。


 意味を持たない。


 しかしそれは生命にしか作れない形になった。


 送信した。


 端末のログに記録が残った。


「送信完了。送信内容:翻訳不能」


 レイは記録簿を開いた。


「感情的内容:あり」


 あり、と書いたのは初めてだった。


 書いてから、何が「あり」なのかを定義しようとした。できなかった。定義できないまま、「あり」と書いた事実だけが記録簿に残った。


 サエが翌日、「最近顔色がいいよ」と言った。


 レイは「そうですか」と言った。


 サエは「それだけ?」と笑った。


 レイは「それだけです」と言った。


 サエはまたパンを置いていった。今日のパンは少し甘かった。レイはそれを全部食べた。分類せずに食べた。


 夜、VX-Nullを受信した。送信から11日が経っていた。信号は変わらず届いた。心拍に0.31秒遅れて、返ってくる。レイは机を指で叩きながら聞いた。心拍のタイミングで叩いた。


 送ったものが届いたかどうか、今は分からない。それより、送れた、という事実がそこにあった。


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