事故調査ファイル_灯篭の祭⑥
街はまるで戦場だった。
空は真っ赤に燃え上がり、どす黒い煙が天蓋のように街全体を覆い尽くしている。荒れ狂う火炎竜巻の凄まじい咆哮と暴風。
人々の泣き叫ぶ声も、懸命に誘導を試みる憲兵たちの怒号も、すべてがかき消されていた。
大通りの中央に置いた楔は、押し寄せる群衆の波を左右に割り、正面衝突を防ぐという役割を正しく果たしていた。
しかし、緩やかとはいえ坂道を駆け上がる避難路では、群衆の圧迫の中でつまずき、転ぶ者が多数現れる。うっかり足を取られて倒れてしまえば、後から押し寄せる靴底に容赦なく踏みつけられる。彼らは二度と起き上がることも叶わないまま絶命していく。
激しい人の流れによって、繋いでいたはずの我が子の手を離してしまい、悲鳴をあげたとしても――誰一人として立ち止まることはできず、先へ先へと強制的に流されていく。
人が少なくなった中央広場付近には、群衆に踏みにじられて息絶えた者たちが重なり合って倒れていた。その傍らでは、親とはぐれた幼子や、歩むことを諦めた老人が、絶望に立ちすくんだまま迫り来る火の海を見つめている。
そこへ駆けつけたのは、黒蹄衆のディタルニア人たちだった。彼らは逃げ遅れた人々を次々と荷馬車に引き上げ、物見の塔と密に連絡を取り合いながら、竜巻の進路を避けた比較的安全な路地を選んで迅速に退避させていく。
幸いにも、火炎竜巻の進行方向にあるディタルニア人たちの居住区は、火の手が上がった初期の段階でほとんどの住民が危険を察知し、自主的な避難を完了させていた。
「清貴様! あそこを!!」
ふいに、ゼノンが大声を上げた。
煤塗れの指が指し示す先を見れば、崩れ落ちた雛壇の脇で、一人の司祭が逃げ遅れた子供たちの手を引き、炎の中を走っていた。
絢爛だったはずの長い法衣の裾には火が移り、老齢の司祭はただ一人で逃げることすら困難な状態だ。それでも司祭は、泣き叫ぶ子供たちを必死に励まし、手を引いて坂道を上がろうとしていた。
だが無情にも、その行く手に業火を纏った巨大な木柱が倒れ込み、道を完全に塞ぐ。かつて彼らが誇らしげに立っていた、雛壇の支柱だった。
「アレス……! 彼らを――」
清貴は叫びかけた言葉の途中で、一瞬の逡巡を見せた。
アレスはセレスティア派の異端審問官だ。そのアレスに源流派の司祭を助けに行けと命じることが、果して正しいのだろうか。
――しかし、清貴の心配をよそに、アレスは一切の迷いを見せなかった。
ただ素早く振り返り、鋭い視線をティムールへと飛ばす。
「私が戻るまでの間、命に代えても聖女様をお護りしなさい」
「……我が先祖の魂にかけて誓おう」
ティムールは力強く拳を胸の位置に引き上げ、自らの心臓を叩いてそれに応じた。ディタルニア人にとって、それは命よりも重い厳格な誓言の形だった。
アレスはそれを見届けると、一瞬で地を蹴り、すぐそばにある石造りの壁を垂直に駆け上がった。重力をあざ笑うかのような、美しく、そして獰猛な疾駆。
煙に巻かれ、泣き叫ぶ子らを庇う司祭の前に着地したアレスは、問答無用で司祭の火がついた裾を掴み、一筋の躊躇もなく引き裂いて投げ捨てた。
続いてアレスは、街道の中央に楔として配置されていた巨大な樽の一つへ跳び蹴りを叩き込んだ。
中身は、清貴が万が一の火災に備えてあらかじめ設置させておいた消火用の水だ。火炎竜巻の前では焼け石に水だが、頭から被れば一時的に皮膚と呼吸を炎から守る鎧になる。
呆然とする司祭と子供たちの頭から容赦なく水を浴びせかけると、アレスは手を差し出した。
「私の背中に!」
「き、君は、……いや、私はいい! この子供たちを!」
「私は全員を連れて帰れます。……ぐずぐずするなッ!!」
可憐な見た目に反して、腹の底から響かせた恫喝は完全に男のそれであった。老司祭は気圧されて言葉を失い、指示に従うほかなかった。
老人を背中に担ぎ上げたアレスは、残った幼子を左右の小脇に素早く抱え込むと、まだ自力で走れる子供たちへ鋭く声を投げかけた。
「私から離れるな! 走りなさい!」
子供たちもまた、その圧倒的な覇気にしばし恐怖すら忘れ去った。猛然と駆けるアレスの後姿を必死に追いかける。
「ティムールッ!!!! 坂の上から樽を転がせッ!!」
鼓膜を刺すアレスの怒声に、坂の上にいたティムールは瞬時にその意図を察した。
「野郎ども、手を貸せ! 樽を倒せッ!」
ディタルニアの男たちが一斉に力を込め、傾斜に合わせて巨大な水樽を転がす。重厚な木樽は急坂を転がり落ち、燃え盛る巨大な柱に激しい質量となって直撃した。
――ガツンッ、と爆音が響き、衝撃で金属の箍が跳ね飛ぶ。
弾け飛んだ大量の水と木片が炎を散らし、……燃える柱の壁にほんの一瞬。人が通り抜けるに十分な隙間が生まれた。
「突貫ッ!」
アレスはその隙間へ躊躇なく突入した。
泣きながらアレスの後ろを追ってきた子供たちを、坂の下まで駆け下りてきたティムールと黒蹄衆の男たちが次々と抱き上げ、炎の壁から引き抜いていく。
「引け! 上へ走れッ!」
迫り来る熱風を背に受けながら、彼らは救い出した命を抱きかかえ、一心不乱に坂道を駆け上がっていった。
城門の外では、息を弾ませたディタルニア人たちが、逃げ遅れた巡礼者たちを腕に抱き、次々と城門から走り出てくる姿があった。
はじめ、それを見た巡礼者たちの中には「土壇場の混乱に乗じた人身売買か」と不審の目を向ける者もいた。
だが――泣き崩れる母親のもとへ無事に子供を送り届ける姿を。自らは腕に痛々しい火傷を負いながらも、年老いた巡礼者をそっと荷馬車から降ろす姿を目にするうちに、信者たちの心から疑念が消えていった。
そこへ、アレスに担ぎ出された老司祭が追いついた。
己の身を挺して助け出される一部始終をその目で見ていた司祭は、異教徒と蔑んできたディタルニア人が、いかに懸命に自分たちの命を救おうとしていたかを痛いほどに理解していた。
「――彼らに、『癒し』を」
司祭の震える言葉に従い、源流派の癒し手たちが動き出し、怪我を負ったディタルニア人たちの治癒にあたり始めた。敵と味方、異教徒と信者という隔たりが。百年の長い隔たりがゆっくりと少しずつ消えていく。
そんな中、火炎竜巻は可燃物の多い木造の貧民街を完全に焼き尽くした後、燃えるべき燃料を失って徐々にその勢いを衰えさせ、やがて虚無の中に終息していった。
圧倒的な猛熱が去った後に訪れたのは、身も凍るような厳しい冬の寒さだった。
城門の外は遮るもののない吹きさらしの丘陵地だ。着の身着のままで逃げ出した人々は、凍える夜気をしのぐため、互いに身を寄せ合って震えるほかなかった。火災の熱気で焼かれた喉が痛み、寒さによって空腹感は凄まじい勢いで増していく。
暖を取ろうと焚火を起こしても、山からの強風にあっという間に掻き消され、ところどころに置かれた魔石ランプの淡い光だけが、暗闇の中の唯一の標識だった。
これほどの大勢の人々がひしめき合っているというのに、その夜はあまりにも孤独で、果てしなく長かった。
命からがら逃げ出したという極限の興奮が冷めると、後からやってきたのは底なしの絶望と諦念だった。祈る声とすすり泣く声があちこちから漏れ聞こえ、あるいは、涙を流す気力すら失い暗闇の中でただ震える者もいた。
――それでも。どれほど寒く凍えた長い夜であっても、遠い丘陵の果てから、やがて柔らかい朝の光が差し込んでくる。
その時、丘の上の見張りから叫び声が上がった。
「馬車だ……! 馬車が来るぞッ!」
その声に、人々は強張った身体を重そうに起こし、続々と立ち上がった。
緩やかに続く丘の斜面の向こう、黄金色の朝日を背にして、何台もの馬車が列をなしてやってくる。
一台や二台ではない。地平線を埋めるほどの無数の荷馬車が、ゆっくりと丘を越えて近づいてきた。
それは、ディタルニアの運輸ギルドが総出で運んできた、救援物資の車列だった。
豊かな食料、清浄な水、温かな毛布、乾いた衣服――絶望の淵にいた人々が必要としていた全てが、そこにはあった。
黒蹄衆の土木ギルドの男たちが瞬く間に簡易配給所を作り上げ、巨大な大鍋で温かな飯が炊かれ始める。
風に乗って漂ってきたのは、ディタルニア人が愛する、香辛料と羊肉、そして豆を煮込んだ素朴で濃厚なスープの香りだった。
その香りを嗅いだ瞬間、巡礼者たちは堰を切ったように泣き出した。
己のみじめさに泣いたのではない。見返りもなく差し出された温かな情の深さに、理由も分からずただ涙が溢れて止まらなかったのだ。
巡礼者の中でも動ける者は自発的に手を挙げ、配給を配る側に加わった。隣にいる見知らぬ者と助け合い、限られた温もりに感謝しながら分け合った。
朝日に照らし出されたケマルダグの街は、貧民街を中心に無残な廃墟と化していた。しかし、寒風の吹く城門の外で、人々の心は不思議なほど温かかった。
街は壊れた。
多くの尊い命も奪われた。
しかし――その後に残されたのは、決して絶望ではなかった。
その場にいたすべての者が、朝日の中でたしかにそれを感じていた。




