事故調査ファイル_灯篭の祭⑤
定礎奉献祭前夜、ケマルダグの街は異常な緊張に包まれていた。
街のいたるところに巡礼者のテントがひしめき合い、隣の天幕との隙間はわずかでも存在しない。設営が厳禁とされているはずの大通りにまで、毛布にくるまった巡礼者があちこちで文字通り足の踏み場もないほどに座り込んでいた。
ケマルダグは冬になれば空気が激しく乾燥し、山から吹き付ける風は、夜間には氷点下になるほどに冷え込んでいく。その凍えるような寒さをしのぐため、過密を極めた路上のあちこちで焚き火が赤々と熾された。それは強風にあおられて火の粉となって夜空に飛び散り、早くもあちこちで天幕に引火する小火が起こり始めていた。
現時点では周囲の者が叩き消せる程度のものであった。しかし、それは明日の本番で巻き起こるであろう凄惨な大惨事を予感させるには、あまりにも十分すぎる前兆だった。
それでも、誰一人としてこの狂った状況を変える術を持っている者はいなかった。
黒蹄衆に対しては、巡礼者たちは民族と宗派の違いから耳を貸さなかった。
ケマルダグの領主は悲劇を予感していたが、祭りを止める事が出来なかった。
巡礼者たちの中には不安を感じている者もいた。しかし彼らはこう信じていた。我らが神の祭りで悲劇が起こる筈もない、と。
そのすべての傲慢と無知が、必然の惨劇へと一歩一歩、確実に足を踏み込んでいくことになったのだ。
「駄目だ、僕の計算が甘かった。現場はハザードマップの予測を遥かに超えている……! 危険すぎる、なんとしても今すぐ中止させるんだ。領主に掛け合って憲兵を全員出動させ、巡礼者を街の外へ強制避難させなければッ!」
黒蹄衆のアジト、清貴は地図を広げた円卓に拳を叩きつけていた。
だが、黒蹄衆のギルド長たちも、そしてゼノンとアレスさえも、ただ静かに首を振るだけだった。
「無理です、清貴殿。今更止められる規模ではありません。狂信に火がついた一万人を無理に動かせば、それこそ今この瞬間に暴動が起きます」
ティムールが硬い声で告げる。
「馬鹿を言うな! これから起こる悲劇は五十年前の比じゃないぞ! ランタンが上がれば街ごと焼き尽くされる! 止めなければ、何百、何千という人間が立ったまま窒息死し、生きたまま焼かれるんだ!」
「ええ、そうでしょう。アタシらもそれを分かってるから、胸糞が悪りィんだよ。だけどね、もう遅いんだ」
ヨンジャが苦々しく吐き捨てる。
清貴は狂いそうな焦燥感に突き動かされ、部屋の出口へと歩を進めた。
「そこをどいてくれ、ティムール。まだやれることがあるはずだ」
「駄目です。異教徒の不穏分子と巡礼者で溢れ返る夜の街に、彼らの敵であるセレスティア派の『聖女』である貴方が出ていけば、それこそ格好の火種になる」
静かに、しかし絶対に通さないという意志を込めティムールが立ちふさがる。清貴は血が出るほどに歯を食いしばった。
彼らの言葉が正しいことは、防災のプロである清貴自身が一番よく分かっていた。
群衆パニックの引き金は、いつだって「良かれと思った不用意な刺激」なのだから。それでも、清貴の理念が、これから起こる地獄を前にただ座して待っていることに耐えられない。
「――聖女様」
一歩前に進み出たのは、アレスだった。ベールの奥の冷徹な、しかし深い光を湛えた瞳が清貴を射抜く。
「ナサニエル王子の言葉を思い出してください。もし今、貴方の身に何かあれば、ヴェネンティカとこの源流派の国との間で、言い訳の立たない全面戦争の火種になる。そうなれば、一体どれほどの死者が出るでしょうか。このケマルダグの巡礼者どころではない、数万、数十万の無辜の民が家を失い、故郷を追われることになるのですよ」
「……分かっている。頭では、分かっているんだ、だが……!」
「清貴様」
今度はゼノンが、アレスと並び立つようにして清貴の肩に手を置いた。
その手の温かさと重みが、清貴の過熱した脳を宥めていく。
「貴方は正しい。目の前の命を救いたいと足掻く貴方は、どこまでも正しい。……だからこそ、我々にはまだ“やれる事”が残されているはずです。それは、狂った群衆の前に飛び出して犬死にすることではない。
貴方がいつも、僕たちに言っていたはずです。『生きて調査結果を持ち帰らなければ、次の悲劇は防げない。生きて帰るまでが僕たちの仕事だ』と」
ゼノンは、清貴の目をまっすぐに見つめ返した。
「ですから、僕たちが裏で仕込んだ『計画』を最後までやり遂げましょう。僕たちの手の届く範囲で、一人でも多くの命をすくい上げる。明日、これからどんな地獄が起こるとしても、ここに我々がいたことに、絶対の意義があったと言える仕事をやり遂げる。そうでしょう、清貴様」
その力強い言葉に、清貴の胸を破裂させそうになっていた焦燥が、僅かに、しかし確実に緩んだ。
目の前にあって、自らの力では中止させられない巨大な災害がある。
だが、自分には、自分たちにしかできない「命の砦」を裏で築く作業が残されている。
それを見誤って、パニックの渦に呑まれてはならないのだ。
「……ああ。すまない、取り乱した。――僕たちの仕事を、最後までやり遂げよう」
清貴は自らが背負った事故調査員としての、そして”聖女”としての重みを深く噛みしめながら、力強く頷いた。
定礎奉献祭、当日。
中央広場は、夜が更けるとともに押し寄せた巡礼者たちで完全に埋め尽くされていた。街全体がすり鉢状の形をしており、その最底辺に位置する広場には、群衆の流入を制限するようなゲートなどどこにも存在しない。
何としてでも中央広場へ入ろうとする後発の波に押され、最初に集まっていた者たちは広場の中央へ、中央へと押し潰されるように凝縮されていった。もはや、腕を上げることすら困難なほどの異常な過密、――物理的なデッドロック状態だ。
だが、遥か上方の安全な雛壇に登場した源流派の司祭たちは、足元で起きているその異常事態にまったく気付いていなかった。
巡礼者たちはこの苦痛を「神への忍耐と美徳」と捉えて耐え忍び、街の領主は司祭たちに頭が上がらない。誰一人として、彼らに不吉な警告の報告を届けようとはしなかったのだ。
壇上の司祭たちは、ケマルダグの地が第二の聖地として定められ百周年を迎えたことを心から祝福し、朗々と祝辞を述べた。
その厳かな声が響く合間にも、ディタルニア人たちは清貴の指示通り、ひっそりと行動を起こしていた。過密な広場から繋がる細道の入り口をあらかじめ用意していた偽装板で次々と封鎖し、主要な大通りの中央には、すぐには動かせない巨大な荷車や石材を置いていく。
ティムールの事前交渉が実を結び、これには現地の憲兵も密かに協力していたため、群衆制御のための網は速やかに張り巡らされていった。
そうしてついに、大司祭の厳かな合図によって、いっせいにランタンへ火が灯されることとなった。
広場中央でほとんど身動きが取れない者たちでさえ、圧迫される苦痛に耐えながら懸命に身体を動かし、懐から折りたたまれていた紙製のランタンを取り出して両手で天へと掲げた。
――あるいは、そのランタンが群衆の圧力で無惨にひしゃげ、使い物にならなくなっていれば、まだ救いがあったのかもしれない。
だが、そうはならなかった。
一斉に、何万という火皿に火が灯る。
そうして放たれた光の群れが、夜空へと上っていく。
まるで無数の星々が天へと昇っていくような、息を呑むほどに美しく、幻想的な光景。
誰もが我を忘れてその光の海に見とれていた。黒蹄衆のアジトにある高い物見の塔から広場を見守っていた清貴たちでさえ、その瞬間だけは、純粋にその美しさに目を奪われていた。
――だが、神の奇跡のような時間は、一瞬で終わる。
最初に、風が止んだ。
それまで街を吹き抜けていた穏やかな風がぴたりと止まり、次の瞬間、人々の祈りの声が嘘のように掻き消えた。気圧の急激な変動による、耳が痛くなるほどの不気味な静寂。
その直後、止まっていた空気が激流のごとく動き始めた。すり鉢状の街の全方位から、中央広場に向けて、猛烈な勢いで冷たい大気が吹き込んでいく。
刹那、上空を埋め尽くしていたランタンが一斉に――まるで一つの巨大な太陽、凶悪な火の玉のように爆燃した。
最初の惨劇は、悲鳴の一つすらなく巡礼者たちに襲い掛かった。
広場の中央にいた高密度の群衆が、一切の前触れもなく、糸の切れた人形のように音もなくバタバタと倒れ伏していったのだ。
上空の巨大な火の玉が一瞬にして周囲の酸素を喰らい尽くす。すり鉢の底へ超高濃度の一酸化炭素ガスを叩き落とされた。彼らは何が起こったか理解する暇すらなく、一呼吸で意識を刈り取られたのだ。
続く災厄は、ほぼ同時に発生した。
生き残った周辺の群衆から湧き起こる絶叫。
そして、猛烈な上昇気流によって突如として発生した局地的な暴風が、広場にいた人々を、物言わぬ屍も、まだ絶望に狂いもがく者たちも、そのすべてを容赦なく上空へと巻き上げ始めた。
それは上空の巨大な炎の塊をも巻き込み、漆黒の煙と紅蓮の炎を狂ったように躍らせながら、天を突く激しい渦となって回転を始める。
「まずいぞ……! 空気が煙突効果で完全に収束している。あれは――火炎竜巻だッ!!!!」
叫ぶ清貴の身体を、アレスが迷わず背後から引き寄せ、その外見からは似つかぬ剛腕で軽々と抱き上げた。
アレスは翻るベールをものともせず、凄まじい脚力で塔の階段を駆け下りていく。
外はすでに地獄だった。
家々を構成する木材や石材が暴風で引き剥がされて巻き上げられる。避難する合間にも、物見の塔の外壁に凄まじい質量兵器と化した石や瓦礫が激突する音が、鼓膜を狂わさんばかりに響き渡っている。
「あれは……清貴様、あれは一体何が起きているのですか!?」
塔の最下層から飛び出すと、煤まみれで血相を変えたティムールが暴風に抗いながら走ってきた。
清貴は自分の足で立とうとしたが、体格のいいティムールですら吹き飛ばされそうになる烈風だ。アレスは清貴を抱えたままアジトの頑丈な石造りの屋内へと滑り込み、重い扉を閉ざしてひとまず避難した。
しかし、閉ざされた屋内であっても、周囲の壁の温度がじりじりと上昇していくのが分かる。外の炎が、すぐそこまで迫っているのだ。
「火炎竜巻だ……! 何万という粗悪なランタンが一斉に激しく燃えたことで、中央広場の空気が消滅し、桁外れの上昇気流が発生したんだ。ただの紙と獣脂なら一瞬で燃え尽きて風も収まったはずだ。だが、今年の燃料は『高温で燃え続けるオイル』だ!
アルテハゼと薄紙の残骸、それだけじゃなく周囲の可燃物が、絶え間なく吸い上げられ竜巻の中で燃え盛っているんだ!」
清貴は冷や汗を流しながら、閉ざされた扉の向こうで唸りを上げる悪魔の渦を睨みつけた。
「……そんな、では、どうすれば?」
「どうしようもない」
重く、血を吐くように清貴は言葉を落とした。
「一度発生した火炎竜巻を消す方法はない。操る方法も存在しない。だからこそ今の僕たちが成すべき事はシンプルだ。
炎の怪物の進路から、出来る限り多くの人間を街の外に逃がす。特に、古い木造建築が密集しているディタルニア人の居住区は、燃料源として火炎竜巻が吸い寄せられる可能性が極めて高い。
幸いにも入り口はすべて、あの偽装板で封鎖済だ。パニックになった巡礼者たちが、炎の向かう先である狭い坂道へ逃げ込んできて、身動きが取れなくなる最悪の事態だけは防げている」
一つ一つ、冷静に。
恐怖に呑まれかける脳を激しく叱咤し、用意してきた安全策を正しく脳内で組み立てていく。
「……我らがディタルニア人の家が、すべて灰になると言う事ですか?」
ティムールもまた、拳を血がにじむほど強く握りしめていた。
しかし、その理知的な瞳はすでに最悪の状況を正しくかみ砕いていた。
「ああ、家は灰になる。……だが、命は、命だけはまだ救える。幸いにも、救援物資の運搬に合わせて、多くのディタルニア人はすでに近隣の村に避難を終えているはずだ」
「ええ、そうですね。残された財産など、命が生きていればいくらでも作り直せる。
――では清貴様、残っている同胞と、巡礼者たちを一人でも多く外へ出すために、全力で動きましょう!」
ティムールの力強い言葉に、ヨンジャも、そして土木や運輸のギルド長たちも一斉に頷いた。
「ゼノン、アレス! 僕たちも行くぞ。大通りの中央に置いた障害物が正しく機能しているか、憲兵たちの誘導が維持されているかを確認する!」
「御意!」
「聖女様の御心のままに」
激しく床を揺らす火炎竜巻の咆哮を背に受けながら、清貴たちは地獄と化したケマルダグの街へと一斉に駆け出した。




