事故調査ファイル_災の埋伏④
「火災が起こった日の朝、この工場で何が起こったのか、それを今から説明する」
清貴たちは、遊撃憲兵騎士団の仮設テントまで戻ってきていた。
以前に訪れた時と変わらず、実用性を重視した天幕は無駄を削ぎ落としてあり質素ともいえた。そんな中で、深紅の布地に刺繍を施された憲兵であることを示す旗は染み一つなく騎士団の名誉を告げている。
組み立て式の机を挟んでカシアンと清貴が向き合い、その背後にはアレスとゼノンが控えていた。
「あの酒造工場には巨大な酒樽が三つそびえ立っていた。それだけ巨大な樽だ。劣化してきたとしても簡単に取り換える事など不可能だ。かなりの年月、同じ樽が使われ続けてきたことが想定される。
そして実際、致命的な劣化は発生していた。その一つが樽を締めるための金属の箍だ。事件前日にこの箍にヒビが入っていた事が確認されている。
しかしハブリエルはそれを大した事だとは思わなかった。恐らく今までも似たような事が何度もあったのだろう。だが、今回は最悪の悪条件が重なっていた」
清貴は一度言葉を切って、卓上の地図に視線を落とす。
「まず、季節外れの温かい気候が続いていたこと。これによって樽の内部の酒が普段より早く蒸発し、ガスとなって内圧を高めていた。樽の木材そのものも、熱と湿度で外側へと膨張していたはずだ。風船が限界まで膨らむように、箍には凄まじい張力がかかっていた。……そこへ、あの嵐が近づいた」
清貴の声が、一段と低くなる。
「嵐の到来を前に、周囲の気圧が急激に下がった。外からの気圧による抑えが失われたことで、内部のガスはさらに膨張しようとする。内側から押し広げる力と、それを締め付けようとする箍。金属疲労は、その瞬間に最高潮に達した」
カシアンは重苦しい表情で頷き、ゼノンとアレスも目を伏せる。誰もがその「見えない悲鳴」を想像していた。
「そして――負荷が限界を迎えた瞬間、箍がはじけ飛んだ。弾けた箍は金属の鞭となって周囲を破壊し、支えを失った大樽はまさに爆発するように崩壊した。その衝撃で隣り合う樽も連鎖的に叩き割られ、……150万リットルという、想像を絶する量の酒が濁流となって一気に外へ溢れ出したんだ。
150万リットルと聞いてもピンと来ないかもしれない。だがカシアン、例えば君が、樽が爆発した瞬間に工場の外に立っていたとしよう。轟音の直後、君が目にするのは4メートルを超える『酒の壁』だ。君の身長の倍以上の高さの濁流が、逃げ場のない狭い路地を、時速50キロ近い速度で突進してくる。無論、立っていることなど不可能だ。君は一瞬にして100メートル以上先まで押し流されるだろう」
清貴は冷徹に、しかし当時の地獄をありありと描写していく。
「それもただ流されるだけじゃない。濁流は下層区の密集した木造家屋を土台から完膚なきまでに破壊し、その瓦礫や木片、ガラス片をすべて凶器の刃物に変えて巻き込みながら突き進む。
だが真の恐怖は、それが水ではなく高濃度のアルコールだということだ。波を被った瞬間、強烈な刺激で目は焼け付くように激痛に襲われ、視界を奪われる。息を吸おうと口や鼻を開けば、肺に直接送り込まれるのは気化した高濃度のアルコールだ。まともに呼吸すらできず、脳は一瞬で激しい急性中毒を起こして昏睡する」
「……そんな状況であれば、我が騎士団の精鋭でさえ、抗う術なく溺死するでしょうね」
「その通りだ。工場の周囲にいた者たちは、この最初の数秒の濁流で、意識を失ったままほとんどが溺死した。だが、これはまだ地獄の入り口に過ぎない」
清貴が言葉を切ると、カシアンが机の上で固く拳を握った。僅かに震えている手が、やり場のない怒りの深さを物語っている。
「凄まじい質量と速度で放出されたアルコールは、激しく攪拌されながら一瞬にして街全体に微細なミストとなって広がっていった。下層区の全域が、巨大な可燃性ガスに閉じ込められたような状態になった訳だ。
そこに、ほんの僅かな火種があればどうなるか。崩壊した工場のボイラーの種火でもいい、激流で瓦礫や鉄の箍が衝突した際に散った、火打ち石のような一瞬の火花でも事足りる。……それだけで、街を満たしたアルコール霧が一爆のもとに燃え上がる。
純度の高すぎるアルコールの炎は、あまりにも高温な上に、炭坑事故などのガスと違って煤を残さない。何より、昼間の光の中では『炎そのものが目に見えない』んだ。犠牲者たちからすれば、突然、何もない空間の空気が陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には全身が灼熱に包まれていたことになる」
「それが、下層区を一瞬にして燃やし尽くした、目に見えない炎の正体……」
「その通りだ。そしてすべてが焼き尽くされた後、本物の嵐が訪れた。嵐の暴風雨は破壊された瓦礫や土砂を押し流してスープのように混ぜ合わせ、地中に残っていた大量のアルコールに泥の蓋をすることになった。今、この街は、泥濘の蓋をされた巨大な酒造庫そのものなんだよ」
天幕にしばしの間、重い沈黙が降りた。
そうして、呻くように口を開いたのはカシアンだった。
「――確かにこれは、極めて悪質な人災だ。そもそもにして、それほど危険な工場を住宅密集地に建てるべきではない」
「その通りだ。彼らは危険性を認知していなかった訳じゃない。分かっていたが、見て見ぬふりをした。『今までが大丈夫だったから今回も大丈夫だ』と……致命的な事故が起こるその瞬間まで、コストを惜しんで放置し続けたんだ」
「しかし、彼らの過失を法的に証明するのは難しい。そうでしょう?」
「……そうだな。大樽の崩壊と火災の因果関係を、科学の素人である法廷に理解させるのは非常に骨が折れる。その上、この街の経済は酒造工場の利益によって支えられている。いざ過失を問う段階となれば、工場側にとって有利な、あるいは保身のための偽証をする者が多く現れることも想像に難くない」
清貴は、現地を分析した結果を嘘偽りなく報告する。
今後、樽のサイズ規定を見直すなどの改善提案はいくらでも書けるだろう。しかしそれが、事故調査委員会の『書類上の実績』として積み重ねられることと、実際にこの地獄を生み出した元凶の過失を問えるかどうかは、全くの別物だった。
「カシアン様! お取込みのところ失礼致します!」
ふいに天幕の外から切迫した声が響いた。「入れ」とカシアンが短く応じれば、伝令とおぼしき若い騎士が息を切らせて踏み込んでくる。
「どうした?」
「それが、……上層区の住人たちが水路の瓦礫を押し流すために、民間から魔石クレーンを強引に持ち出してきました!」
「なんだと!? まだ下層区の住民たちの救助が終わっていないと、あれほど待てと言ったはずだ!」
「……上層区の間では、今回の火災は下層区の人間が不始末で起こしたものだという噂が広がっています。もとより移民の多い下層区への悪感情が根底にあるところへ、水路が塞がれたことで上層区側も徐々に床下浸水が始まっており、住人たちの不満が今にも爆発する寸前です!」
「無理に力で押さえ込めば、そのまま暴動に発展する、か……!」
カシアンは奥歯をきつく噛みしめる。騎士団の兵力は今、救助活動で完全に分散しているのだ。
「――カシアン、その水路はどこにあるんだ?」
清貴が問いかけると、カシアンはすぐに地図の一点を指さした。
「ここです。調査によれば、火災発生時に上層区と繋がる箇所の石橋が崩壊し、水路を塞ぐ形となりました。さらにそれより上流の舟橋も火災により次々に燃え上がり、その残骸が流れ着いた事によって完全に流れを遮断したのです」
「火災発生時という事は、嵐が来る前だな。瓦礫に船橋の残骸、……つまりそこには、アルコールが大量に混ざった水がせき止められているという事だ」
「その通りでしょう。水路が遮断された付近からも気分が悪くなったと言って倒れた者が出ております。それもまた、水を流さなければという思いに拍車をかけているようです」
舟橋とは中世や近世ではよく見る橋の一つであり、その名の通り舟や筏を川に並べ、それを繋ぐ事で橋としたものである。橋を作る技術が未熟だった時代において、石橋が壊れるのは日常茶飯事であり、馬車などが通る往来の多い道以外はこの舟橋が用いられる事が多くあった。
当然ながらそれらは火には弱く、火災が起きれば燃え落ち、その残骸が下流に流れる事となる。
川幅や橋の数によりけり、流れ着く材木は侮れない数になるだろう。
「カシアン、……その水路が解放されれば、この街はもう一度『大火事』に見舞われる可能性があるぞ」
清貴は椅子から立ち上がった。
「なんだと?」
「先ほど話した通り、今、この街の土壌には大量の酒が染み込んでいる。せき止められた水路の水も、高濃度のアルコールで満たされているはずだ。その状態で瓦礫のダムを取り除けばどうなる?」
清貴は卓上を指で叩く。
「一気に解放された水流に乗って、大量のアルコールが『火のついた導火線』のように街中に張り巡らされた水路を駆け巡る。そして、崩壊した瓦礫の底でいまだくすぶっている種火に接触した瞬間――水路そのものが炎の網と化して、街全体を内側から一瞬で焼き尽くす。今度は下層区だけじゃない。上層区も含めて、この街が炎に包まれる」
「そんな事になれば、……」
「ああ。一度目の火災を生き延びた生存者も含めて、完全に全滅だ」
カシアンはこめかみを強く押さえた。
暴動寸前の上層区の住民たちを、言葉だけで説得するのは不可能に近い。彼らに二次火災の危険性を説いたところで、パニックを起こしている人間には時間稼ぎの戯言としか映らないだろう。かといって武力行使に出てしまえば、それこそ火に油を注ぎかねない。
「……どうすればいい、……クソ、どうすれば……!」
ドン、とカシアンが拳を机に叩きつける。
清貴は静かに目を閉じ、脳内の全細胞を思考に動員した。数式、地形、流体力学、人々の心理――あらゆる条件が頭の中で噛み合っていく。
再び顔を上げたとき、その瞳には、かつて”事故調の野良犬”と恐れられた、冷徹で獰猛な光が宿っていた。
「地図を見せてくれ。そうして、一緒に考えよう。二度目の火事など起こさせない。――絶対に、だ」




