事故調査ファイル_深海の顎⑤
「もう無理だ、……勘弁してくれ……」
ラング・オルムのサンプル採取に付き合って半日、清貴はすっかり滅入っていた。
その巨体を引きずったまま、ブリスタインからやや離れた緊急ドックに入港した軍艦は、魔石クレーンによってラング・オルムを引き剥がされた。
その遺体はすぐさまガス抜きが行われ、解剖が始まったがそれは予想以上に凄まじいものであった。
ラング・オルムの討伐から港に運び入れ、分離するまでにかかった時間は6時間ほどだった。
その6時間で、ラング・オルムの体内では猛烈なスピードで腐敗が始まっていた。
150トンもの巨体になると、死後に体熱がまったく逃げなくなる。それどころか、内臓が自己消化を起こす発酵熱で、内部はサウナのような高温――時として60度を超える『ヒートバースト』を引き起こすのだ。
これにより、外側からは新鮮に見えても、骨に近い中心部の肉は数時間でドロドロに融解していく。
巨大なガレージに運び込まれた死体は、オリハルコン製のメスで腹を裂かれた瞬間から、凄まじい熱気と酸性の水蒸気を噴き出し、そこに最悪の腐敗臭が加算される。
控えめに言って、地獄である。
検体保護のために冷却用魔石が運び込まれてからは、温度はましになったものの、臭いだけは如何ともしがたい。
そんな中にあって、アンヌをはじめとする研究員たちは、まさに狂喜乱舞の様相であった。
「凄いぞ! 見てくれ! 内臓にびっしりと寄生生物が詰まっている! 内臓そのものが動いてるぞ!」
「ああ、見て、私の予想通りよ! この肺機能を見て頂戴! 超高圧の深海で肺を潰さずに、水中に溶けた僅かな酸素をいかに効率よくガス交換するかが計算し尽くしてある。なんて美しい構造なのかしら!」
「ひゃっほーう! 胃の中から新種の生物がいくらでも出て来るぞ!! まるで宝の山だ!」
完全に浮かれ切っている研究員たちに、清貴をはじめ、見張りについている兵士たちもドン引きであった。
正直、兵士たちは研究員たちに全てを任せたいだろうがそうもいかない理由がある。
体内からまだ生きた第二捕食者が飛び出してくることがあるからだ。
つい先ほども研究員の一人が、人の背丈ほどもありそうな巨大ワームに飲み込まれかけたが、回復処置を受けたあとは嬉々として現場に戻ってきている。
だが、専攻を地質学とする清貴としては、その深夜テンションにも似た狂乱は単純に「怖い」の一言だった。
それゆえの冒頭の一言である。
煙草が欲しいと切実に感じたのは久方ぶりだ。
なにせこの場では、いくら大好物の珈琲があったところで、全てを強烈な臭気が上書きする。
疲れ切った足取りでラング・オルムの死骸から離れた清貴は、外の空気を吸うべく倉庫からそっと抜け出した。
「は、ぁ……いやはや、参ったな」
倉庫から出たところで身体に染みついた臭いは消え去らない。
風呂に入っても数日は残り続けることだろう。
うんざりと息を吐き出したところで、倉庫のドアが開く音が聞こえ、傍らにアンヌがやってきた。
「お疲れ様、聖女様」
「ああ、……君もね。ところで、その聖女様というのは勘弁してくれないか? 清貴と呼んでくれた方がありがたい」
「分かったわ、清貴様」
「”様”も不要だ」
「ふふふ、それじゃあ、何がいいかしら。清貴博士?」
「そうだな。それが一番しっくりくる」
清貴が笑うと、アンヌは防護マスクを外しながら微笑んだ。
「やはり、縄張りを追い出された原因は海底火山か?」
「十中八九そうね。皮膚にごく新しい火傷跡が確認できたわ。地震や津波と合わせて考えれば、ラング・オルムの生息する海域で火山活動が活発化したとみてまず間違いないと思う」
「ならば、ほとんど目撃例がなかった時期が存在するのも頷けるな。海底火山の活動周期と同調しているわけだ」
「きっとそうね。前回の座礁事故が起こった時も、火山の活動時期が重なったんだと思うわ」
「だとすれば、マントルが落ち着くまで、しばらくは続く可能性が高いな」
「そうね。ラング・オルムの個体数がどれほどか分からないけれど、今後も可能性があるのは確かね」
「ふむ、……だがそれならば、対策のマニュアル化が出来そうだ」
緊急用ドックが存在する場所は、海水の浸食によって造られた巨大な天然洞窟の中だった。
倉庫から出たところで、そこはまだ洞窟内で、天井は遥か遠いが解放感があるとは言い難い。
だが、湾は海に向かって開けており、そこから吹き込む海風は心地よかった。
「ところで、少々気になっていた事があるんだが、……君は、ラング・オルムを憎んでいる訳ではないのか? その、何だ、君は前回の座礁事故の際にその惨状を目の当たりにしたのだろう?」
「その通りよ。でも憎んでいると聞かれたら答えは”NO”ね。もし、生きたラング・オルムが湾内で大暴れしたというならば話は変わっていたかも知れないけれど。実際には死骸が流れ着いただけだもの」
「うむ、……君は、割り切るのが上手なんだな」
「そうね。周囲からは冷血だと思われることもあるみたい」
アンヌは自嘲めいた笑みを浮かべたあと、清貴に向き直った。
「清貴博士、私たち、もう少しロマンティックな話もするべきかしら?」
突然の言葉に清貴はごほごほと噎せ返った。
「な、……なにを、突然……!」
「私、よく言われるのよ。アンヌは外見以外は全て駄目だって。奇抜過ぎる。奇想天外にも程がある。まるでモンスターを連れ歩いているみたいに、次の瞬間には何をしでかすか分からないって言うの」
「うう~ん」
清貴が低く唸ると、アンヌが肘で小突いてくる。
「ちょっと、否定してくれてもいいんじゃない?」
「いや、その何というか、……この時代の一般的な男性の感性からすれば、それもまた普遍的な評価というか。いやだが、僕はまったくそうは思っていないぞ」
「そうでしょう? でも、そうなのよ。そう思ってくれる男性なんてほんの一握りもいない」
「それで僕とロマンティックな話を?」
「うーん、そう思ったけれど、……どこかの素敵なサロンでお茶とデザートを食べたとしても、お互いの研究の事ばかり話してる所しか想像出来ないわね」
「……その通りだな」
肩をすくめる清貴に、アンヌが軽やかに笑う。
「だが、サロンでデザートは悪くないかも知れないな。この国のお菓子はどれも絶品だとゼノンが言っていた」
「それは本当にその通りよ。それじゃあ、ひと段落したら街一番のところにご招待するわ」
「……それまでに、この臭いを何とかしないとな」
「忘れるところだったわ。前に腐敗臭を誤魔化そうとして薔薇の香水をかけていったら、食人植物型モンスターの匂いがするって憲兵が駆け付けてきた事があったんだわ」
「そういうサプライズは、勘弁願いたいものだ」
清貴が笑ったところで、ふいに倉庫内が騒がしくなる。
「大変。またニックがワームに飲み込まれたみたい!」
「なんだ、まったく。ワームも捕食相手を選り好みするのか?」
「それ、面白い視点だわ! 今度、研究してみなくっちゃ!」
楽し気に駆け出すアンヌを、清貴は溜息混じりに追いかけた。
それから先も、ラング・オルムの解剖は様々な困難に見舞われた。
研究員たちはほとんど不眠不休で解剖を続け、倉庫には巨大な冷風ファンが持ち込まれたが、それでも確実に腐敗は進んでいく。
150トンもの質量が放つ発酵熱はすさまじく、死骸は内側から自沸し始めていた。筋肉は自重と熱でみるみる軟化し、メスを入れずとも自壊していく。
巨大生物の解剖とは、腐敗との戦いというより、『生体が自ら崩壊していく物理現象』との時間勝負なのだ。
そんな中でも様々な問題が襲い掛かる。
例えばそれは、大量のハエだった。いくら追い払っても瞬く間に集まるハエは、死骸のいたるところに卵を産みつける。孵化したウジ虫どもは、食事と排泄を同時に行える恐るべき特性を持っていた。つまり、生まれてから一瞬も休むことなく肉を溶かし、貪り食い続けるノンストップの摂食マシーンなのだ。親バエが新たな卵を次々と産み落とす波状攻撃により、死骸の表面はすさまじい勢いで分解され始めた。
もちろん、集まる虫はハエだけではない。様々な不気味な虫がどこからともなく集まってくる。だがそれは、危険性という意味ではまだマシな方だった。
次に現われたのは、腐敗臭を嗅ぎ付けたサハギンの群れだった。
ドックの海水面から、ぬらぬらとした大量の半魚人が這い上がってきたときには、清貴は思わず悲鳴をあげた。
仕方のないことだった。
これまでの人生で凄惨な航空事故や鉄道事故の現場を数多く見て来た清貴といえど、動く怪物の大群に襲撃されるというオカルト的なリスクへの安全マージンなど、ただの1ミリも持ち合わせていなかったのだ。
それは間違いなく、しばらくの間は悪夢に出てきそうな光景だった。
そんな修羅場の中にあっても、研究員たちは目を爛々と輝かせて、ひたすら解剖とサンプルの保管作業を続けていた。
死後30時間を超え、組織の自己消化が限界に達すると、内臓は原形を保てずに融解し出す。
大量に発生するガスは冷風ファンによって常に強制排気されているものの、ドック全体を埋め尽くす異臭は強烈だ。防護マスクのない兵士達の中には、その洗礼に中てられて倒れる者まで現れる始末だった。
だがここからが、この解剖のクライマックスとなる。
出来る限り骨を傷つけずに肉を引き剥がす「骨格標本フェーズ」への移行だ。
これは、アンヌの提案により、つい先ほどニックを呑み込もうとした巨大ワームたち17匹を再び放つことによって解決した。外皮を剥がされたラング・オルムの赤肉は、彼らにとっては極上のご馳走である。
ワームたちは骨に一切の傷をつけず、ピンセットでも不可能な緻密さで複雑な骨の隙間の肉を削ぎ落としていく。驚くほどクリーンな、熟練の解体業者のような手際だった。
ラング・オルムがドックに運び込まれて40時間。
清貴も、アンヌも、そして研究員たちは長い闘いの末に、人類の知的好奇心を満たした達成感とともに、完全に意識を手放して泥のように眠っていた。




