旅立ちの準備 1
アリッサーニャの計画は、出航の前日に、副船長の朝矢の誕生日祝いを兼ねた出航の宴で、おそらく皆が盛り上がって酔っ払い、翌日の昼に出航するまでは諸々が手薄になるであろう間に、彼女の手引きで船に入りこみ、そのまま船出をするという内容だった。
「海に出ちゃえばこっちのものよ。いくらお父さんでも、良家のご子息を海に放りこんだりはできないわ」
彼女はそう言ったが、蒼惟はいささか不安を覚えた。本当にそうだろうか? あの船長なら、やりかねなくないか?
しかしタイミング的にも、それ以外に潜りこめそうな機会はなさそうだ。あとは旅支度だ。誰の目にもつかずに荷造りをしたり、準備を進める必要がある。
「つまり、俺も親父を欺かないとならないってわけか」
裏庭で蒼惟から計画を聞いたフィルディアスは、腕組みをして唸った。
「……行ってくれるか? 俺と一緒に」
蒼惟はやや不安そうに尋ねたが、フィルディアスは口の端を上げた。
「俺の今の仕事は、お前の護衛だ。お前が行くところに、ついて行くのは当たり前だろう」
「でも──多分、長旅になる」
「なんだ、今さら弱気だな」フィルディアスが、眉を下げて目を瞬く。「口に出したら怖気づいてきたか」
「うん……そうかも」
本当にそうだった。言葉にした途端、とんでもないことをしでかそうとしているような気がしてきたのだ。
フィルディアスはあくまで穏やかな表情で軽く息をつくと、赤銅色の瞳に心なしか力を込めて、蒼惟の目を見つめた。
「じゃあ、祠の話はきっぱり諦めて、方向転換するか?」
「え」
そう聞かれると、ぐっと詰まる感情がある。
「それは……」
言い淀んでいると、フィルディアスは質問を変えた。
「船を使って星莱を目指した場合の日数は割り出したのか?」
これにはすぐに答えられる。
「那波流港までは順調なら三日、そこから陸路が……多分五日くらいで辿り着ける。合計八日か」
「うむ。柊は今は星莱に戻ったと聞いているが、またどこかに行かないとも限らん。到着してからどのくらい滞在するかも分からない。あとは帰路をどうするかだ」
蒼惟は息を飲んだ。そこまで考えてなかった。顎に手を当てて足元に目を落として考え込んでいると、突然──
「お兄さま! フィルディアス!」
明るい声が響き、蒼惟は心臓が飛び上がりそうになった。
裏庭入り口の質素な木造扉を開けた軒下で手を振っているのは、蒼惟の三歳下の妹、シェリルメイだ。
彼女は扉を閉めると、落ち着いた濃いめの金髪を高く結った肩ほどまでのポニーテールを揺らし、二人のもとに弾んだ足取りでやってきた。
「なんだよ」
話の内容が内容だったので、蒼惟はなんとなく気まずくなって、ぶっきらぼうに尋ねた。どうしてこんな時に限ってお前が来るんだと、恐らくは顔に出ている。
「窓から見えたから」
シェリルメイは気にしたふうでもなく笑顔で答え、紫水晶のような瞳をフィルディアスに向けた。
「ごきげんようフィルディアス」
洗練された動作で、膝下丈の淡い水色のフレアスカートを少しつまんで広げて挨拶したシェリスメイに、フィルディアスが柔らかく微笑む。
「ごきげんよう、シェリー。そのイヤリング可愛いな。よく似合ってる」
彼は、シェリルメイの耳元の三日月型の耳飾りを示した。
「あっ……ありがとう」
すると彼女は、びっくりしたように目を瞬いて俯いた。
<あれ?>
蒼惟は、妹の反応に一瞬違和感を覚えつつも、「そんなのつけて、どこかに出かけるのか?」と問うた。シェリルメイはハッとしたように顔を上げ、
「別に、どこか行かなくたって、イヤリングくらいするわ」と心なしかあたふたした口調で返してきた。
「女性が普段からお洒落するのは、別に不思議なことじゃないさ」
フィルディアスがにこやかに補足する。
<なんか居心地が悪いな>
蒼惟は、このなんとも言えない雰囲気に身を置くのが急に苦しくなった。どの道、妹がいては話を進めようもない。それに、この後は父の付き添いで本殿に赴かなければならなかった。
「俺、ちょっと部屋に戻る。本殿に行く前に少し休みたいし。フィルはこの後、剣の鍛錬が入ってたよな?」
「ああ。今日はそのまま直帰だ。俺の後は、蒼惟の鍛錬が入ってるんだっけ?」
「うん。夕飯ギリギリまで、驃師匠に鍛えられてくるよ」
蒼惟はあまり気が進まぬ表情で答えたが、フィルディアスは「そりゃ、腹が減って夕飯も美味いだろう」と笑った。
「では蒼惟様、ご武運を。また明日、参上いたします」もっともらしく、フィルディアスが手を胸元に当てて礼の姿勢をとった。
「うん。また明日」
蒼惟はそんな相棒の様子に和みつつ、身を翻し歩き出してから──ふと、無意識に扉の手前で振り返った。
フェイルディアスが朗らかにシェリルメイに笑いかけ、穏やかな雰囲気だ。でも。
<あれ?>
シェリルメイの肩にはわずかに力が入っているような──
<あいつ、あんなに肩が張る姿勢だっけ?>
フィルディアスは特に深刻そうでもない。むしろ、いつも通りだ。緊張するような要素はどこにもなさそうなのに。
<シェリーの奴、誰かに姿勢のことでも言われたのかな>
もちろん、そんな話は聞いていない。子供の頃はいつも自分についてきて、手を繋いでやらないと一人でどこにも行けなかった妹は、ここのところ、前ほど兄に積極的に話すこともなくなっていた。
しかし、年齢を考えればそれも致し方ないのかも知れない。
蒼惟はほんの少しざわめいた心をしまいこむように、そっと扉を閉めた。




