悲しみの始まり
玄関先からきょろきょろと見回していると、その影が見えた。
「麗奈!!」
「あれ?お父さん」
娘の帰りを待っていた陽智はほっと安堵の息を漏らした。
「心配したぞ、麗奈。今日早いはずなのに、なかなか帰ってこないから」
「あぁ、ごめんね。機械の部品買いに行ってふらふらしてたら大量になっちゃってさ。ばったり会ったから、雅さんに荷物持ってもらっちゃった」
そういう麗奈の後ろには、ビニール袋を片手に持った雅がいた。
「あらら…。ありがとうね、雅君」
「いえ、いいんです、これくらい」
雅から荷物を渡してもらうとかなりの重量があった。これだけ何買ったんだろう?
まぁいいか。
「とりあえず、お帰り麗奈。雅君は?寄っていくのかい?」
「いえ、俺はここでいいです」
「そうかい」
寄り道をしにきたわけではなかったらしい。本当にいい人だ。
雅に別れを告げ、家の中に入ろうとしたときだった。
「ねぇ、お父さん。ちょっといいかな?」
「…どうしたんだ?そんな改まって」
「えへへ…」
麗奈はぽりぽりと頬を掻いた。
「私ね、ずっとお父さんに言ってなかったことがあってね」
「言ってなかったこと?」
「……覚えてる、かな?小3のときに、私が風邪こじらせて…このまま歌ったら、声、なくすって言われた、時のこと…」
顔を直視できないまま言ってしまった。
これはきっと、誰にとっても暗黙の記憶なのだ。できれば自分から掘り起こしたくはなかった。だが…これを言わねば始まらない。
「あぁ、あったね、そんなこと…」
さっきまでとは明らかに、声のトーンが落ちていた。
(怖い…)
ダメだ。負けそうだ。
―――でも。
麗奈はぎゅっと拳を握り締めた。
逃げちゃ、いけない。
「あの時から、麗奈は歌わなくなったな、僕たちの前で」
「…だって、お父さんはずっと私の心配してくれたでしょう?声なくすって言われたとき…すごいショックを受けた顔をしてた。今でも、忘れたことはないよ」
「…そうか」
「うん…」
しまった。沈黙を挟んでしまった。
あたりに重い空気が流れる。背後では、じっと雅が話を聞いている。
握り締めた拳が震える。麗奈はもう一度、拳を握り締めた。
(負けない…っ!ここで、言わなきゃ…っ!!)
「お、お父さん!!私ね―――」
「すまなかったな、麗奈」
「へ……?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「え、何で、お父さんが…」
「どうやら僕たちは、麗奈から大事なものを奪ってしまっていたらしい」
その言葉を理解するのに時間がかかった。
「……お父、さん…?」
「麗奈が今まで歌わなかったのは、僕たちの事を思ってだった。自分たちが麗奈のためを思っていたはずなのに、いつの間にかその想いが…麗奈を苦しめていたんだね」
「……何言ってんのっ!?それは違うわ!!」
頭が理解した途端、麗奈は叫んだ。
「私が…っ!!私がいけないの!お父さんとお母さんが傷つくからって言う事を理由にして、私はずっと歌から逃げてたんだもん!!歌うのが嫌だって思って…っ!」
「でも、じゃあ何で、麗奈は歌を歌ってたの?俺たちに内緒にしてまで」
「え…っ!?」
麗奈は心底驚いた。後ろで雅もきっと目を開いていることだろう。そんな麗奈の表情を見て、陽智はただそっと微笑を漏らしていた。
「……お父さん、知って…?」
「…ずっとずっと、大切に育ててきたんだ。わからないわけないだろう?」
その言葉に、麗奈は思わず眉を下げた。
ずっと、知ってて、ずっと―――。
「麗奈、お前は決して弱い子じゃない。自分の大事なものを守ろうと必死になれる強い子だ。だからこそ、お前はもう少し、わがままになってもいいんじゃないかな?お前のやりたいこと、やっていいんだよ?」
「お父さん…っ」
「…もしも、僕たちが君の枷になっていないと言い張るのなら、どうか君が今本当にやりたい事を話してほしい。麗奈。君は一体どうしたい?」
麗奈はそっと目を閉じた。心が、震えているような気がした。
だがなんだろう。さっきまでの振るえとは全然違う。これは…恐怖なんかじゃない。
「……お父さん、私ね…」
これはきっと―――――――。
「私、プロデューサーを続けたい」
歓喜の、震えだ。
「……え?」
「私は確かに歌いたかった。大好きだったから。聞いてもらうことが、聞いてくれた人が褒めてくれることが何よりも楽しかった。だから大好きで、お父さんたちが傷ついたときは、すごく…私も傷ついた」
「それは…」
「今でもその気持ちは変わらなくて、ずっと大好きよ。でもね、きっとそれに気が付くのが遅すぎたんだと思うの。私はもうすでに、1人のプロデューサーとしての道を歩んでいる。この道を踏み外すわけにはいかない。それは、契約したものとしての勤め。誇りよ」
麗奈はそっと目を開けると、嬉しそうに微笑んだ。
「だからいつか…また、私の歌を聞いてね」
陽智が少しだけ驚いた顔になる。
「また…笑ってほしいの。お父さんとお母さんに、私の歌で…。私が、みんなと作る歌で、笑顔になってほしいの」
「麗奈…」
「だからまた、歌わせて?2人の前で、2人のために…いつか、また」
もう、怖くなんかなかった。
父のくれた言葉がある。雅が押してくれた背中がある。大好きだという気持ちがある。
霧の中で彷徨っていた感情に、温かな日差しが差し込んだようだ。
はっきりとした気持ちを伝えるだけで、こんなに明るくなれるだなんて知らなかった。自分と向き合うことが、こんなに大切だ何て思わなかった。
(もう、逃げないから)
苦しいことや悲しいことから、逃げたくない。
伝えたいんだ。この気持ちを。
「お父さん…」
麗奈がそっと声をかけると、陽智はすっと麗奈に歩み寄り、その頭を数回撫でた。
「……ありがとう、麗奈」
「え…?」
「またいつか必ず、志帆と聞くよ。大きくなった、君の歌をね」
「……うんっ!」
頬が高揚するのがわかった。
こんなにうれしいことはない。
またいつかきっと聞かせてあげるからね、お父さん、お母さん!
掘ればれ賭した面持ちの麗奈の心に、新たな決意が生まれた。
陽智が先に家の中へ入って行ったあと、麗奈は雅に向き直った。
雅は優しげな笑みを浮かべていた。
「よかったな、麗奈」
「はい。雅さんのおかげです、ありがとうございました!」
「いやいや。俺は何もしてないって」
「そんなことないです。あの時…背中押してくれなかったらきっと、こんなことには、何てなかったはずですから。全部全部、あなたのおかげです!」
麗奈の言葉に、雅は少しだけ照れたように笑った。
「またちゃんとお礼させてくださいね」
「いや、いいよ。そんなの」
「ダメですよ。こっちがよくありません」
「……あ、じゃあさ」
雅が何かを思いついたように人差し指を顔の前で掲げた。
「俺のお願い、1つ聞いて」
「お願い、ですか…。私が叶えられる範疇なら」
「じゃあさ、俺のこと、今度から『雅』って呼んで、あと敬語なしね」
「……はいっ!?」
突然たる突飛な話。一体どこからその方向が出てきたのやら。
「いやいやいや!何言ってるんですか!?」
「はい敬語使ったー。敬語無しだぜー」
「ちょっと!?雅さん!?」
「さん付け禁止ー。俺その場合返答しないからー」
何だその露骨な変わりようは。まじか。まじなのか。
麗奈は小さな声で「う~…っ」っと唸ってから、ぼそっとつぶやいた。
「……わかった」
「ん。よろしい」
「でも、何でそれ今言ったんで…言ったの?」
「ん?敬語って堅苦しいだろ?歌い手とプロデューサーの仲だし。隔てはいらないだろうと思ってさ」
雅はそう言って、晴れやかに笑顔を浮かべる。
何でそんなに嬉しそうなのかは、よくわからないが。
(……まぁ、いいけどさ…)
いまだ微妙ななぞは残るし、多分この分なら慣れるまでに時間はかかる。だが、決して悪い気はしなかった。
(……雅)
心の中で呼ぶと、なぜかほわっとした気持ちになる。
(……)
よくわからない気持ちが芽生えてしまったものの、麗奈はもやもやを吹っ切った。
「……改めて、よろしく、雅」
「あぁ、よろしくな、麗奈」
2人は互いに拳を突き出し、2つの拳を夕日の前で、付き合わせたのだった。




