1-6 孤立と転入
(6) 優しい人
「メイちゃん、って呼んでいい?」
不意に向けられた笑顔に、ミシェルは一瞬だけ反応が遅れた。距離が近い。いや、物理的な意味ではなく。
初対面の相手へ向けるにはあまりにも自然すぎる声色に、思考がわずかに止まる。
「…うん、もちろん、よろしくね」
数拍遅れて返事をすると、少女はぱっと表情を明るくした。
「 私リリィ・ヴェイン。よろしくね、メイちゃん」
ふわりと揺れるパステルピンクの髪。
感情がそのまま表情へ出るタイプなのだろう。嬉しそうに笑うたび、緑色の瞳が春の光みたいに柔らかく細まる。貴族のご令嬢のお手本のような品の良さが漂っている。
ミシェルは曖昧に頷いた。
「眩しっ」
ノアが足元で小声を漏らす。分かる。非常に分かる。
「転入って緊張するよね」
「…うん、でもリリィちゃんが話しかけてくれたから大丈夫そうだよ。ありがとう」
心にも思っていないことをペラペラと連ねていたからか、ノアが身震いしていた。
…失礼にも程がある。
「本当?よかったぁ、」
ミシェルは少しだけ視線を逸らした。
こういう人種は苦手だ。悪意がない人間。
打算なしで話しかけてくる人間。そしてあの真っ直ぐに見つめてくる瞳。
そういう相手ほど、どう接していいか分からなくなる。
こういう時どう返すのがいいんだろうか。
「メイちゃんって、地方から来たんだよね?」
「…うん」
「王都初めて?」
「小さい時に何度かだけ来たことがあるけど、ほとんど覚えてないんだよね」
会話が続いている。
その事実に、ミシェル自身が少し驚いていた。普段なら、もっと早く終わる。
必要以上に話さない空気を作って、相手側から距離を置かせる。それが一番楽だった。
リリィは、不思議なくらい会話の温度を変えない。踏み込みすぎない。それでいて、離れすぎもしない。
まるで“警戒されること”に慣れているみたいだった。
「……」
…あ、そうか。
ミシェルはそこで初めて気付く。
教室の中で、リリィへ向けられる視線が少しだけ特殊なことに。
嫌われているわけではない。
誰とでも話す。誰にでも笑う。
だからこそ逆に、“特別親しい誰か”がいない。そんな空気。
「あー……なるほど」
ノアも気付いたらしい。
リリィ本人だけは、それを気にした様子もなく笑っていた。
「メイちゃん、昼休みに学院内案内しよっか? 学院広いから迷うんだよね」
「別に――」
断ろうとして、止まる。緑色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。そこには探る色も、打算もなかった。
ただ純粋に、“困っていそうだから声を掛けた”というだけの視線。
そのまっすぐさが、少しだけ苦手だった。
「…そうだね、お願い、してもいい?」
言った瞬間、自分で少し驚いた。頼るつもりなんてなかったのに。
リリィは嬉しそうに笑う。
「うん!」
――この子は、多分。
人の孤独に敏感だ。そう直感が言っていた。
午前の授業は、驚くほど平穏に終わる。
星術理論基礎。高位演算構築。
黒板へ書き出される術式も、教師の解説も、既に理解しているものばかりだった。演算構築の途中式ですら、頭の中では数手先まで自然に補完できてしまう。
ミシェルは、それを表へ出さないよう慎重に調整していた。
普通、平均的に。正答率を下げる。わざと少し考える。答えを書く速度を周囲へ合わせる。
黒板の式をノートに書くのに、途中何度も書く速度を間違えそうになる。
山奥にこもっている間、術式にしか向き合っていなかった為、大体の術式はすでに習得済みで実践済みだった。
未知の術式に手をつけていたので、既存である術式、特に学校で習うような術式はミシェルにとっては簡単すぎるのだ。
簡単すぎる授業より、“普通の生徒を演じること”の方が遥かに難しい。
何が普通なのか定義付けがないからだ。こんなところで目立ってはいけない。
窓際の席へ頬杖をつきながら、ミシェルは静かに息を吐いた。
「器用なことしてんなぁ」
頭の奥へ、呑気な声が響く。視線だけを落とす。
透明化したノアが、机の下で椅子の脚へ身体を絡めながら欠伸をしていた。
「邪魔」
「バレてないからセーフ」
「そういう問題じゃない」
ノアは楽しそうに尾を揺らしている。
こんなことなら昨日のあの術式を解きたい。あの山奥に帰りたい。
いや、待てよ。いま授業で取り上げられている術式を応用して、別の術式とも融合したら、昨日まで沼っていたあの演算、解けないだろうか。
いや、あの術式ではないか、もっと別のーー
その時、不意に隣から視線を感じる。
「メイちゃん、どう?大丈夫?」
リリィが小声で声をかけてくれた。
危ない。任務を忘れるところだった。完全に手が止まっていた為、心配してくれたのかもしれない。
「うん、なんとか。やっぱレベル高いね」
「高いよね。私、演算構築ちょっと苦手なんだよねぇ」
困ったように笑う。その表情には、見栄も虚勢もなかった。出来ないことを出来ないと素直に言える人間。それだけで眩しい。
「いいぞー、"メイ・マーガレット"」
ノアが笑う。
ミシェルは無視した。
やがて昼休みの鐘が鳴る。途端に教室の空気が崩れた。
椅子を引く音。笑い声。購買へ走っていく足音。
静かだった教室が、一瞬で騒がしさへ塗り替わっていく。
ミシェルはその喧騒をぼんやり眺めながら、小さく肩の力を抜いた。
半日。まだ半日しか経っていない。
…あー、結局今日いまだに第二皇子見かけてすらないな。
星力感知で殿下の安否だけは確認している。星力感知だけでは殿下に何かあった時守れない。
このままでは何のためにこの学院に来たのか意味がわからない。
そもそもどうやって護衛するんだ、これ。
同じクラスでもない、ましてや同じ学年でもない。
護衛してないならただの学校生活でしかない。
「第二皇子のとこ行くか」
「うん」
心の中だけで即答する。
その瞬間。
「メイちゃん!」
ぱっと花が開くみたいな声が飛んできた。リリィだった。
「一緒にお昼食べよ!その後学院内も案内するよ」
反応が早い。
まるで断られる前に先回りして距離を縮めてくるみたいだ。ミシェルは一瞬だけ言葉に詰まった。
校内探検の話は完全に忘れていた。そういえばそんな話を朝にした気がする。
どう返すのが自然だろう。
普通の転入生なら。普通の女子生徒なら。"メイ・マーガレット"なら。
「あの皇子ならそつなく応えんだろうなぁ」
ノアが面白そうに呟く。少しだけ腹が立つ。
殿下探しよりも先にメイ・マーガレットがこの場に馴染む方が先か。
「…うん、もちろん!」
わずかに間が空いた。
けれどリリィは気付かなかったのか、嬉しそうに表情を明るくする。
「やった! 食堂行こっか」
断ればよかったかもしれない。
そう思うのに、不思議と嫌ではなかった。
リリィの後ろを歩きながら、ミシェルはぼんやりと周囲を見渡す。
談笑する生徒たち。その中に第二皇子の姿はない。
廊下へ溢れる昼の光。
穏やかな空気。
自分とは無縁だと思っていた“普通の学校生活”が、そこには当たり前みたいに存在していた。
その時だった。
廊下の向こう側が、不意にざわつく。
「生徒会長だ」
「今日も素敵だわぁ、アレン殿下」
空気が一瞬にして変わる。




