1-3 孤立と転入
(3) 森の外へ
出発準備に、長い時間はかからなかった。
術式書を数冊。予備の演算紙。筆記用具。星盤。最低限の着替え。
机の上へ並べられた荷物は、それだけだった。
ミシェルは鞄の口を閉じ、小さく息を吐く。
生活を丸ごと持ち運ぶ量ではない。一体何が必要になるか、あの学院での暮らしは想像がつかない。それ以上に、この森へ長く不在にするつもりはなかった。
背後で、ロイドが静かに視線を向けている。
「荷物はそれだけですか」
「多いですか?」
「いえ」
ロイドはそれ以上何も言わない。問い掛けというより、事実確認に近かった。
窓辺では、ノアが長椅子の背へ顎を乗せたまま尾を揺らしている。
「俺は?」
「透明化維持で」
「えー」
「無害そうなリスならまだしも、学院にフェンリルって…」
「差別だ」
ミシェルは視線だけ向ける。ノアは不満げに耳を伏せている。
暖炉の火が小さく鳴った。
その音を最後に、ミシェルは部屋を振り返る。
静かな家だった。
積み上がった術式書。
書きかけの丸められた演算紙。
窓から差し込む森の光。
ずっと変わらなかった場所。
ほんの数週間空けるだけだというのに、妙に遠く感じた。
机の上には書きかけの失敗した演算式が大量に残ったままだ。
暖炉脇には読み終えていない術式書が積まれている。
「……行きますか、」
ロイドは静かに頷く。
玄関の扉が開く。森の空気がゆっくり流れ込んできた。
外へ出た瞬間、結界が淡く明滅する。
ミシェルを中心として、幾重もの術式が静かに開いていく。
認識阻害。
空間偏位。
侵入抑制。
絡み合っていた星脈演算が、主を送り出すみたいに道を作った。留守の間に荒らされたら困る。外から家が見えない認識阻害結界を足しておこう。
風が枝葉を揺らす音だけが遠くで続いている。
ミシェルは無意識に足を止める。
振り返った先には、結界越しの景色が少し歪んでいる。外側から見れば、ただの深い森にしか見えないだろう。
歩き出す。
森の奥へいる間は気にならなかったが、ロイドの存在は近くにいるほど異質だった。
足音が不自然なほど軽い。落ち葉を踏む音が浅い。
質量だけが現実へ馴染み切っていないみたいだった。
精霊種特有の位相偏位か。
あるいは人間化そのものが仮初の肉体なのか。それとも何かを依代にしているのか。
高位精霊を観察対象として至近距離へ置ける機会など、本来なら存在しない。
ミシェルは前を歩く背中を見つめる。
「それって少し浮いてるんですか?それとも実体が軽すぎるとか?人間化するには依代が必要なんですか?それとも姿を変化させているだけ?その姿を維持する星術式はどんな術式ですか?浮くのはやっぱり星術で?」
ロイドは振り返らなかった。
フェンリルの人化した時と高位精霊が人化した時とでは術式はどう違うのだろう。それともほとんど変わらずに似た術式なのだろうか。実物体はどんな姿形をしているのだろう。髪色や瞳の色は変えているのだろうか。
「…やはり気づいていましたか」
それだけだった。
質問に答えてくれよ。気になるだろ。高位精霊について記述が書かれた書物は学院にあるだろうか。
「研究対象にしようとしてない?」
「バレたか」
森の出口が近づく。
張り巡らせていた最後の結界層が、淡い光を帯びながら開いていく。
森の空気が、そこで途切れた気がした。
外の光が見えた。
森の外。
世界の側だった。
森の外には馬車が用意されていて、透明化しているノアと乗り込む。
ロイドが扉を閉めると馬車が動き始める。ノアとの会話が漏れないように念のため、馬車内に防音結界を張る。
流れていく景色。畑で働く人。星羊を飼っている人。元気に走り回っている子供。
「…はぁ」
「ま、逃げたくなったらそん時は手伝ってやるよ」
「どうやって?」
「学院ごと燃やせばいいんじゃん?」
「道徳心はどこに置いてきた?」
「ハハハハハハ、腹痛ぇ。フェンリルに道徳心求める奴初めてだわ」
ノアが笑い転げている。そこまで笑うことだろうか。
馬車が揺れる。再び外を見ると遠くに王都が見えてくる。




