1-1 孤立と転入
(1)山奥の静寂
朝は、鳥の声よりも先に光が訪れる。
山の稜線から滲むように朝日が差し込み、森の上に薄い霧がゆっくり広がっていく。
湿った空気が窓硝子を淡く曇らせ、遠くでは川の流れる音だけが絶え間なく続いていた。
人の気配はない。
その静けさがミシェルには合っていた。
薄い毛布の中で目を閉じたまま、しばらく呼吸だけを繰り返す。急ぐ理由がない。誰かに合わせる必要もない。朝というより、世界そのものがまだ眠っているみたいだった。
「起きろー」
間延びした声が響く。
「腹減った」
「……あと5分…」
「それであと何時間寝るつもりだよ」
鋭い。
毛布を引き上げようとした瞬間、端を掴まれて勢いよく剥ぎ取られる。
フェンリルのくせに手が器用だこと。
冷たい空気が一気に入り込み、ミシェルは無言で顔をしかめた。
ベッドの横では、白い獣が尻尾を揺らしている。雪みたいな毛並み。
朝の光を溶かしたようなアクアマリンの瞳。
本来なら災厄として語られる存在も、この家では朝食を催促し、暖炉の前で昼寝をするだけだった。これじゃあまるで犬…おっと、言い過ぎた。また怒られるところだった。
「横暴」
「自立を促してる」
「フェンリルの教育論いらない」
ノアは楽しそうに喉を鳴らした。
山へ狩りに出れば星獣すら逃げ出すくせに、こういう時だけ妙に子供っぽい。
ミシェルは諦めたようにベッドから降り、窓へ歩み寄る。
結界は正常に稼働している。
窓枠へ触れると、透明な術式が一瞬だけ淡く浮かび上がった。家を中心に幾重にも重ねられた隠蔽結界。星力の流出を抑え、外部探知を歪め、山そのものへ認識阻害を掛けている。
普通の術師なら、一層構築するだけでも半日仕事だ。
ミシェルは寝起きのまま、その歪みを数ヶ所修正する。指先で星術式を書き換えるたび、空気が静かに震えた。
「相変わらず過剰で精密なこった」
「山ごと吹き飛ばされたくないから」
過去に一度だけ、結界の出力調整を誤ったことがある。翌日、山の麓まで偵察隊が来た。
あの時のことを思い出すだけで胃が重い。目立つのは嫌だ。
人は勝手に、それこそ過剰に期待する。理解できないものには理由を求め、理由がなければ恐れ始める。
この世界では出る杭になることはもはや禁忌そのものだ。
比べてこの山奥は都合が良かった。
星獣が多いと伝わり続けている為、誰も来ない。
ノアと移り住んでからは星獣を見かけたことは数えるぐらいしかない。もうその星獣もこの世には居ないが。
星術式の研究だけをしていても、誰にも何も言われない。
窓際の机には、昨夜のまま書き散らした術式紙が積み重なっている。
魔力循環補助式。
広域認識阻害。
星位干渉演算。
途中まで組み上げた式の続きを眺めていると、時間を忘れる。
人と話すより、ずっと楽だった。
「…また術式見始めた」
「あと少しで綺麗に繋がりそうなんだよね」
「三時間後にも同じこと言ってるやつ」
ノアが呆れたように欠伸をする。
仕方ないなあ、とミシェルは軽く笑い、そのまま台所へ向かった。
鍋へ水を注ぎ、火を点ける。その隣でノア用の肉を焼く。
包丁で野菜を刻む音が静かな部屋へ小さく響いた。
ノアはその隣へ座り込み、尻尾を足へ絡めてくる。
「今日の予定は?」
「結界の再調整と、昨日の演算式の計算の続き」
「最高だな」
「でしょ」
ノアは皮肉だっただろうが私は本気だった。
誰にも邪魔されず、誰にも期待されず、ただ静かに星術式だけを組み続ける。
そういう生活を、案外気に入っていたのかもしれない。
朝食を終えたあと、ミシェルは窓際の椅子へ腰を下ろした。
膝の上へ分厚い術式書を開く。
紙へ書き込まれた複雑な星式を目で追いながら、無意識に指先で空中へ補助式を描いていると、視界の端に封書が映った。
机の隅へ置かれたままの、一通の手紙。
昨日届いた王国直属魔術機関の紋章が刻まれた封蝋。見慣れているはずなのに、今日は妙に存在感がある。
ミシェルはしばらく無視を決め込んでいたが、やがて小さく息を吐き、本を閉じた。
ノアが顔を上げる。
「なんだ、討伐依頼?」
「だったらまだマシ」
「嫌な予感してきた」
封を切る。乾いた音が静かな部屋へ落ちた。
記されていた内容は簡潔だった。
王立アルシェリア星術学院への潜入任務。
偽名使用。
第二皇子護衛任務への参加。
そこまで読んだところで、ミシェルの手が止まる。部屋の空気だけが静かだった。ノアが覗き込み、数秒後、吹き出す。
「王道ラブコメキター」
「最悪」
「俺が人間の姿になって、練習相手に」
「ならなくていい」
真顔で返すと、ノアが腹を抱えて笑い始めた。ミシェルは無言のまま椅子へ深く沈み込み、窓の外を見る。霧はもう薄れていた。朝の光が森をゆっくり照らし始めている。秘密基地のような隠れ家のような場所だった。
その静けさが終わるのだと理解するまで、少し時間が掛かった。




