プロローグ
ーーーあの日のことを、忘れたことは一度もない。
夜はいつも静かだった。
空一面に星が広がり、それぞれが微かな光を落としている。
幼い頃の私は、あの光が好きだった。
庭の大きな木にぶら下がるように設けられたブランコに座り、私は夜空を見上げていた。
その隣で、父は木の幹に寄りかかりながら星術の本を開いている。ページをめくる音だけが、静かな時間の中でかすかに存在していた。
頭上では無数の星が規則正しく瞬いている。線を引く。繋がる。また別の形へ変わる。
父は時々、「星は世界そのものだ」と言っていた。
空に浮かぶあの光は、ただの天体じゃない。
潮の流れも、星力の循環も、人の運命さえ、すべて星の運行と結び付いているのだと。
難しい話はよく分からなかった。
ただ父の語る星の話は好きだった。
あの頃は、こんな夜がずっと続くのだと思っていたーー
静けさは、壊れる直前ほど美しい。
あの夜を思い返すたび、そんなことを考える。
やがて遠くに、馬の蹄の音が混じり始めた。
夜の静寂に割り込むように、それは少しずつ近づいてくる。
視線を向けると、暗闇の中に数人の影が見えた。
王宮騎士だ。
父はその姿を認めた瞬間、ほんのわずかに表情を変えた。
その変化は小さなものだったが、記憶の中では妙に鮮明に残っている。
父は何も説明せず、ただ本を閉じ、静かに立ち上がる。
そのあと、私の前にしゃがみ込む。視線の高さが揃うほど近くで、しばらく私を見ていたが、次の瞬間、強く抱き寄せられた。
その腕はいつも通り確かで、それでもどこか、いつもとは違う重さを含んでいた。
髪を撫でる手つきだけが、やけに静かだった。
「どうか、人を嫌いにならないでくれ」
言葉は、説明というよりも、残すように落とされた。
その意味を、その時の私は完全には理解していない。
ただ、耳の奥に引っかかるように残っていた。
父はそのまま抵抗も、別れの続きもなく、まるで最初から決まっていた流れのように連れていかれた。
夜空は、変わらなかった。
星はただそこにあり続けている。
その事実だけが、かえって現実から浮いていた。
私は小さく立ち上がり、短い脚で行くには遠い街へ向かい、そのまま歩き出していた。
広場には人が集まっていた。ざわめきはあるのに、どこか遠い。
人の間を縫うように進んだ先で、空気の質が変わる。そこにあったものが何なのか、最初は理解できなかった。理解するより先に、視界と呼吸がそれを拒んでいた。
音が遠のく。
世界だけがやけに明瞭になる。
頭の奥で、父の声だけが繰り返されていた。
ーーー「どうか、人を嫌いにならないでくれ」
それはまるで、この瞬間のために残された言葉のようだった。
私はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
――なんで。
その問いだけが、声にならないまま胸の奥へ沈んでいく。
夜空の星は、何も知らないまま瞬いていた。




