3-1 近すぎる嘘
(1)日常の均衡
学院という場所は、不思議な均衡の上に成り立っている。
身分。家格。成績。才能。
本来であれば衝突するはずのものが、規律と慣習によって辛うじて同じ空間へ押し込められている。
だから一度騒ぎが起きても、時間が経てば何事もなかったように元へ戻る。
あるいは戻ったように見えるだけかもしれない。教師による不正もそうだった。
学院内部では調査が行われ、関係者は処分された。
噂は数日ほど食堂を賑わせたが、それも今では別の話題へ置き換わっている。
生徒たちは忙しい。
他人の不祥事を長く覚えているほど暇ではないらしかった。ミシェルにとっては、その方が都合が良かった。目立ちたくない。
本気でそう思っている、思っているのだが。
「マーガレット嬢」
朝一番、教室へ入った瞬間に聞き覚えのある声に呼び止められた。
なぜここにいる。三年はもう一つ上の階だろう。
振り返る前から嫌な予感がする。悪いものほど予感は大抵当たる。嫌な予感とはそういうものだ。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
アレンは爽やかに微笑んだ。
その笑顔だけで周囲の空気が少し変わる。
王族というものは存在そのものが目立つ。
本人が望んでいるかどうかは関係ない。
「放課後、少し時間を貰えるかな」
「嫌です」
即答だった。アレンが小さく笑う。
「まだ何も言ってないんだけど」
「大体予想がついてますので」
「そう?」
「生徒会ですね」
「正解」
当たってほしくない予想ほど当たる。
ミシェルは小さく息を吐いた。
事件解決後も、生徒会室への呼び出しは続いていた。
最初は帳簿の件に関する確認だった。
次は資料整理。その次は予算確認。
さらに次は行事計画書。
気付けば定期的に仕事を振られている。
意味が分からない。
「そういえばマーガレット嬢の転入手続きの書類に不備が見つかってね」
「いつの話をなさってますか?」
「…んー、では、これはどうだろう」
どうだろう、と言ってしまってますが、とは言えない。
「君を頼りにしてるんだ、これは本当だよ」
「本当だよって…やっぱりさっきのは嘘だったんですね」
指摘をすると殿下は面白かったのかいつもとは違う笑い方だった。
「うん、そう、ごめんね?」
アレンは楽しそうだ。
全然謝ってる感じはしないですけど。
ミシェルは楽しくない。全然楽しくない。
「じゃ、放課後待ってるよ」
アレンはミシェルの返事を待たずに満足そうに去っていく。
周囲の生徒たちの視線が集まる。
…最悪だ。
今日こそ部屋に引き篭もれると思って、机の上に未完成の術式を置いたままにしてきたのに。
こっちに来てからというものの、自分の研究が全然進んでいない。もう結界も戻ったし、平和になったし、最悪クロムを置いていけば、山奥に帰ってもいいのでは?
もう十分護衛任務を務めたと思う。一度牙を剥いた人間は二度はないと釘を刺しているし、うん、いいんじゃないかな?いいよね?!
『ダメだろ』
『もう限界…せめて演算式を解かせて…』
「仲良しね」
隣の席へ腰を下ろしたリリィが笑う。
一瞬ノアかと思ったが、ノアは誰にも見えていない。ミシェルは教科書を取り出しながら首を振った。
「違うよ」
「そうかなぁ」
「こき使われてるだけだから」
「こき使われてるって…」
リリィが笑う。
リリィと過ごす時間は少しずつ増えていた。昼食。授業。図書室。何気ない会話。
最初はただ隣の席だっただけのはずなのに、気付けば自然に隣へいる。
不思議なことだった。
リリィは気付けば話しかけてくるし、気付けば隣へいるし、なんならそれを自然だと思い始めている自分がいた。少しだけ困る。
「今日も生徒会?」
「まだ春休みの分が終わってないんだよね」
「大変だね」
「そう思うなら助けて」
「無理だよ。私にはちんぷんかんぷんだもん」
即答だった。
リリィがくすくす笑い、ミシェルも少しだけ笑った。
そのまま授業開始の鐘が鳴る。
教室が静かになり、窓から差し込む朝の光が机の上へ広がる。
平和だった。
少なくとも今は。
この穏やかな均衡が、少しずつ形を変え始めていることに。
そしてミシェル自身もまた、気付いていなかった。
メイ・マーガレットとして過ごす時間が、思っていた以上に心地良くなり始めていることに。




