2-6 見えない手
(6)観測者の誤算
アレン・アルシェリアが旧研究棟へ到着したとき、残されていたのは処理された結果だけだった。
意識を失い拘束されている教師たち。その教師は今日見た資料の筆跡の持ち主だった。
それを“整理した者がいる”という明確な秩序。現場に残るのは混乱ではなく、過剰なまでに整えられた静寂だった。
アレンは一瞬だけ足を止める。
「…遅かったか。」
そうではない。
正確には“間に合っていない”のではなく、“最初から観測対象の時間にいない”。
そこへ空気がわずかに揺れた。
上空から、何かが降りる。思わず身構える。
光ではない。召喚でもない。
“処理系統としての上位存在”。
それは教師たちへ接触することなく、意識だけを切り分けるように情報を回収していく。
抵抗は一切ない。引渡しは一瞬で終わり、同じように、一瞬で去った。
残るのは、何もなかったかのように整えられた空間だけ。
アレンはそこで初めて、この場の構造を理解する。
誰かがここにいた…が、戦闘の痕跡がない。
術式の残滓もほとんどない。
それなのに、教師たちは全員拘束されている。
これは……戦ったんじゃない。
処理したんだ。誰かが学院の異常を、日常業務として処理している。
その認識は、静かに常識を歪めた。
彼が旧研究棟の影に視線を移したとき、そこにいた。
最高位星術師。キース・マーフィー。結界術の実質的支配者。
王国でも限られた数しか存在しない“管理者側の人間”。
キースは軽い調子で、しかし正確に術式を読んでいた。
「……やっぱり全部組み直しだな」
「いや、これは俺の設計が悪いな…これはいつからだ…?」
独り言のようでいて、すべてが結論に向かっている。
そしてその口から、当然のように名前が落ちる。
「ミシェルの指摘は正しかった」
アレンの視線がわずかに変わる。
「ミシェル…ミシェルってあの、ミシェル・レイフィール嬢?彼女がここに?」
キースは空中へ星式を展開する。
それは派手でも美しくもあるが、本質は修正だ。
結界が、書き換えられていく。
アレンの胸の奥に、わずかな違和感が刺さる。
結界が再び揺れる。
修正が進むたびに、世界が静かに正されていく。
アレンは目を細める。そして小さく呟いた。
「彼女の星術をもう一度、間近で見たい…」
彼女の術式には隙がない。綺麗で正確で精密。まるでそこに神が舞い降りたかのような美しさ。
あの術式を見た日から、彼女に関する書物は全て目を通した。
「……レディレイフィール」
僕が初めて興味をもったもの。
夜はまだ、終わっていない。
朝の光は、昨夜よりも無遠慮だった。
学院の結界は静かに機能し、外界との境界を保っている。
その内部にあるはずの一室だけが、妙に“生活”の匂いを持っていた。
ミシェルは目を開ける。
眠い。
次に、視界に入ったものをそのまま認識する。テーブルの上に、食事が並んでいる。そして、その向こう側に悪魔がいた。
当然のように立っている。
ミシェルは数秒だけ沈黙する。
「……あれ。まだいたの?」
その一言で、空気が動いた。
悪魔の手が僅かに止まり、皿の位置がわずかにずれる。
落としかけて、それでも落ちない。
一瞬だけ、完璧に制御されていた均衡が崩れかけた。
「……っ」
声にならない息が悪魔から漏れる。
彼はすぐに動き、食器を置くことをやめ、そのまま床へ膝をつく。
音は静かだった。
しかし意味だけは過剰だった。
「ミシェル様のお目覚めをお待ちしておりました」
ミシェルは瞬きをする。
「待ってたの?」
「はい」
即答。
何を当然のように。
「…あ、そういえば、なんか言ってた気がする」
「はい」
「契約とか」
悪魔の肩がわずかに揺れた。
それは肯定でも否定でもなく、“待機状態が解除された”ような反応だった。
「契約の許可を」
跪いたまま、悪魔は頭を下げる。
「願わくば名をいただきたく存じます、」
ミシェルはしばらく黙る。
眠い。
あくびが思わず溢れる。
昨夜の記憶は曖昧だった。
使える、と判断した気はする。便利だった気もする。
「名前……ね」
視線が悪魔に向く。
黒い。髪も、翼も、気配も。
「黒いから…クロムウェル、略してクロムで」
言葉はそれだけだった。悪魔の身体が、ほんのわずかに揺れた。反応としては過剰だったが、声にはならない。
「……クロム」
繰り返す声は、確認ではなく受諾だった。
ミシェルはそれ以上興味を示さない。
「じゃあそれで」
クロムは深く頭を下げる。
「……ありがたき幸せ」
声が少しだけ掠れていた。
一々大袈裟だな…。
ミシェルはテーブルを見る。
「これ、食べていい?」
「はい」
椅子に座ろうとするとクロムが椅子を引く。
スープを一口飲む。
沈黙。
もう一口。
沈黙。
もう一口。
そして、少しだけ表情が動く。
「……」
塩の配分も曖昧で、火の通りも均一ではない。
ミシェルは小さく息を吐く。
「……不味い、」
「!!すぐに作り直します」
「味見した?」
「何度も…」
「悪魔の舌ってどうなってんの…」
「ご覧になりますか」
「そういう話じゃない」
「どんなことでもやります!」
「……契約、早まったかな…」
ミシェルがそう溢すとクロムはまた心臓を抑えながら笑みをこぼしていた。
なんだ、こいつ…。
「まあ、いいや。夕食までの間、料理についてちゃんと研究して」
「完璧に対処致します!」
即答だった。
テーブルの端でノアが欠伸をするように現れる。
「……なんだこれ」
ミシェルはパンを噛みながら答える。
「クロムが作ってくれた」
ノアはクロムを見て固まる。
一拍。
二拍。
「お前……昨日の」
クロムは即座に頭を下げる。
「ノア様」
ノアはふにゃっと笑う。
「様って……悪くねぇな」
なんて単純なんだ。
「……まあ、敵じゃねえならいい」
クロムは静かに頷く。
「ミシェル様の敵であれば、排除対象です」
ノアの耳がぴくりと動く。
「俺もか?」
クロムは少しだけ視線を上げる。
「いいえ。ノア様は、主様の“相棒”と認識しております」
沈黙。
ノアがミシェルを見る。ミシェルはオレンジジュースを飲んでいる。
特に何も考えていない顔だった。
「……お前、まじどこで拾ったんだよ」
「部屋」
「そこから説明しろ」
ミシェルはパンを食べながら言う。パンはロイドが以前購入してきてくれたものだから美味しく食べられた。
「便利だったから?」
クロムは、その言葉を聞いてわずかに目を伏せる。
その反応は、安堵に近かった。
ミシェルは椅子に寄りかかる。
「昨日みたいな仕事、発生したらまたできる?」
「即時処理可能です」
「採用」
また即断だった。ノアはため息をつく。
「ほんと雑だなお前」
ミシェルの口にはパンが入っている。
「眠いし、研究したい」
それで全てが説明された。
クロムは静かに立ち上がる。背筋は揺らがない。
ただ一つだけ変わっている。
“名を持つもの”としての輪郭が定まり、その名は、契約よりも重く彼を縛っていた。
窓の外では朝が完全に始まっている。
まだ、誰もこの部屋の出来事を知らないまま。




