2-5 見えない手
(5)キース・マーフィー
ミシェルは空中へ星式を描く。青白い光が夜空へ走った。
次の瞬間、学院結界の外縁部が小さく弾ける。結界担当者には十分すぎるほどの衝撃。
遠く離れた王都。
その異変を感知した誰かが盛大に悲鳴を上げたことを、この場の誰もまだ知らない。
ミシェルは満足そうに頷く。さっさと結界を完璧なものに張りなおしてもらわないと明日以降の私の睡眠時間に影響してしまう。
「これで来る」
ノアは深く顔を覆った。嫌な予感しかしなかった。
ミシェルがそう言って夜空を見上げてから、しばらくして学院を覆う結界が微かに震えた。
それは一般の術師ならまず気付かない程度の揺らぎだった。
だが結界というものは巨大になればなるほど、一箇所の異常が全体へ伝播する。
まして今揺れたのは外縁部だ。
管理者からすれば、誰かが自宅の壁を叩くような生易しいものではない。玄関ごと吹き飛ばされたと言った方が近い。
夜空に走った光が急速に近付いてくる。
流星のようにも見えたが、よく見れば違った。
光そのものが移動しているのではない。
人が飛んでいる。
「来た」
ミシェルが呟く。
ノアが露骨に嫌そうな顔をした。
「あー……」
その反応の意味を理解する前に、上空の人影が学院の中庭へ降り立つ。
着地と同時に幾何学的な星式が花のように広がり、光の粒が夜風へ溶けた。
無駄に美しく、無駄に派手である。
そして本人は間違いなく格好いいと思ってやっている。
「やあ!」
男は両腕を広げた。キース・マーフィー。こう見えて最高位星術師。
「会いたかったよ、ミ…おっと失礼、メイ!」
ミシェルは一拍置いて答える。
「遅い」
男の笑顔が固まった。
「再会の挨拶としては最低評価なんだけど?」
「結界の接続点がずれてる」
「うん」
「六ヶ所」
「会話が成立してないなあ」
キースは肩を落とした。だが本気で傷付いている様子はない。その仕草だけで昔と何も変わっていないことが分かる。
彼は学院全体へ張り巡らされた結界を見上げた。
先ほどまでの軽薄そうな空気が少しだけ薄れる。
それだけで雰囲気が変わる。王国最高峰の星術師の一人。
結界術においては、ミシェルですら素直に認める相手だった。
夜空へ視線を向けたまま、キースは何も言わない。
術式を見ている。正確には読んでいる。
張り巡らされた構造を逆算し、位相を追い、干渉点を洗い出している。
やがて長く息を吐いた。
「なるほど」
短い言葉だったが、ミシェルはキースが問題を理解したのだと知る。
「接続点の位相ずれか」
「六ヶ所ね」
「四ヶ所だと思ったんだけどな」
キースは苦笑した。否定しなかった時点で認めたも同然だった。
「よく見つけたね」
キースは笑う。その笑みには呆れと感心が半分ずつ混ざっていた。
昔からそうだ。
ミシェルは術式を見る時だけ異常だった。
誰も気にしない誤差を拾い上げる。誰も見ない綻びを見つける。
そのせいで何人もの術師が胃痛になったことを、本人だけが知らない。
「どう?」
ミシェルが尋ねる。キースは再び結界を見上げた。
数秒ほど考えた後、諦めたように肩を竦めた。
「全面修正だな」
「どれぐらいかかるの?」
「数日」
夜風が吹いた。沈黙が落ちる。ミシェルは何も言わない。
ただ結界を見上げている。長年の付き合いからキースは知っていた。ミシェルのこういう時の沈黙は危険だ。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるなあ」
「結界をはやく直してほしいだけ」
キースは苦笑した。
今回の件でミシェルの睡眠時間が削られていることくらい知っている。
本人は言わない。昔から、睡眠不足の時ほど声の温度が下がる。
今がまさにそうだった。
「できるだけ早くお願い」
静かな声だった。だからこそ圧があった。
キースは天を仰ぐ。
「君の基準で結界を作ると、王国の術師が全員失業するんだよ」
「じゃあ失業しない程度に頑張って」
「励ましになってる?」
「なってる」
真顔だった。キースは笑うしかなかった。
不意に彼の視線がミシェルへ向く。
そこで初めて気付いたように目を細めた。
転入以来ずっと暗く染められていた髪。
今は本来の色へ戻っている。
月明かりを受けた金色は柔らかく輝き、夜の中で不思議な存在感を放っていた。キースは少しだけ笑う。
「やっぱりその色のほうがしっくり来るよ、レディ?」
自然な動作だった。指先が一房の髪を掬う。
ミシェルは避けない。避ける理由がない。
昔から何度も繰り返されたやり取りだった。
キースが空いている手の指を鳴らすと星力が散り、次の瞬間には一輪の白薔薇がその手に現れている。
無駄だった。恐ろしく無駄だった。
「レディには花が必要だろう?」
「いらない」
「即答しないでくれる?」
「いいから早く直してくれない?」
「毎日会えるようになるっていうのに嬉しくないの?」
「ならない」
「なるよ」
キースはにやりと笑う。
「数日泊まり込みだから」
ミシェルの表情が僅かに曇った。本当に僅かだったがキースは見逃さない。
「今嫌そうな顔したよね?」
「してない」
「ひどいなあ」
ノアが横で吹き出した。
「残念だったな」
「ノアも相変わらずだな」
「お前もな」
二人がそんなやり取りをしている間も、悪魔だけは静かに立っていた。
主へ向けられる自然な視線。主が警戒を解いている距離感。主の髪へ触れる指先。
その全てを見つめながら、胸の奥に生まれた感覚の正体を理解できずにいる。
ただ一つ分かることがあった。
この男は近い。
自分が知らない時間を共有している事実は、面白くない。
そんな悪魔の内心など知る由もなく、キースはようやくその存在へ視線を向けた。
ほんの一瞬、初めて笑顔が止まる。
最高位星術師の本能は確かに何かを捉えていた。
キースは再び笑う。今度は少しだけ慎重に。
「それで、メイ?」
「なに」
「その危険そうなお友達について、説明してもらっても?」
ノアが即座に頷いた。
「俺も聞きたい」
ミシェルは少し考える。
「高位悪魔」
キースは額を押さえ、ノアは顔を覆った。
悪魔だけが静かに微笑んでいた。
「じゃあ私眠いから、もういい?」
「「ダメ!」」
夜はまだ終わらない。




