2-4 見えない手
(4)名のない者
夜の学院は静かだった。
昼間は絶えず誰かの声が響いているというのに、日付が変わる頃になると別の場所のように沈黙する。
月光が石畳を淡く照らし、並木の影を長く引き伸ばしていた。
ミシェルは旧研究棟へ向かって歩いていた。
隣には黒髪の青年。
誰が見ても美青年だろうが誰も見なければもっと都合がいい。
存在感を消しているからか、歩いているはずなのに足音はしない。
「そういえば」
青年が顔を向ける。
「なんて呼べばいいんだろ、」
その瞬間、青年の歩みが僅かに止まった。
「……」
「でも契約してないし」
ミシェルは考える。眠い頭で数秒考えた結果。
「まあいいや、呼ぶことにならないと思うし」
沈黙。
呼ぶ前に事が片付くだろう。
悪魔はただ伏せられた睫毛が微かに震える。
まるで今、心臓を刺されたみたいに。
変な悪魔。
旧研究棟が見えてきた。
古い石造りの建物。今は使われておらず、人の気配も少ない。
その裏手で待っていた白い獣が尻尾を揺らした。
「遅い」
「ごめん」
「眠そうだな」
「眠い」
ノアがそこで初めて青年を見た途端に固まった。
数秒。
本当に数秒。
「……ミシェル」
「ん?」
「それ」
「うん、召喚するって話したでしょ」
「うん、高位"精霊"の召喚って聞いた」
ノアの耳が僅かに伏せられている。
珍しい。警戒している時の癖だ。
完全に姿を消している悪魔にも警戒できるのか、ちゃんと見えてるんだな、さすがノア。
「どこで拾った」
「ん?部屋」
「聞き方間違えたわ」
ミシェルは首を傾げる。何が問題なのか分からない。
悪魔は静かに頭を下げている。害意はない。
少なくとも今のところは。
ノアの本能は警鐘を鳴らしている。
強い。高位悪魔。それもかなり上位。自分より遥かに上だ。
それなのに、なぜこんなものが平然とミシェルの隣を歩いているのか。理解したくなかった。
「後で説明しろよ」
「うん」
適当な返事だった。ノアの視線が旧研究棟へ向く。
「動いた」
三人の気配が建物の裏から現れた。
教師に見覚えのない男が二人。
何かの書類を受け渡している。
「証拠は押さえてある」
「横流しされた資金の帳簿もな」
教師が何かを察したのか、こちらを見る。
顔色が変わった。逃げる。判断は早かったが遅い。
青年の瞳だけが静かにこちらを見ていた。それは夜より深い色をした瞳でその奥には、隠し切れない期待が宿っている。
「お願いできる?」
「はい、もちろんです」
その一言だった。
次の瞬間、何かに縫い付けられたように教師たちの身体が止まる。
誰も触れていないし、術式ももちろん見えない。
星力の流れすらない。
ただ動けない。
教師の顔が恐怖に歪んだ。
男の一人が拘束解除術式を発動する。発動しない。もう一人が転移札を砕く。何も起きない。
教師が叫ぶ。
「な、何を――」
言葉が途中で止まる。全員がその場へ崩れ落ちた。意識だけを刈り取られたように。
静寂。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。悪魔が一歩下がった。
「終わりました」
「ありがとう」
「光栄です」
ミシェルは頷く。
想像よりも遥かに早い。便利。これなら次も使えるかもしれない。
ノアは固まっていた。
何が起きた。何をした。どうやった。何も分からない。
数秒後。
ようやく口が動いた。
「……なあ」
「ん?」
「ミシェル、お前…」
ミシェルが振り返り、ノアは悪魔を見る。
そして再びミシェルを見る。
「……何、連れてきた?」
本気だった。ミシェルは首を傾げる。
「高位悪魔」
「高位悪魔で済むか」
「違うの?」
「違うだろ絶対」
「本当はドライアドちゃんがよかったんだけどなぁ」
悪魔は心臓を抑えながらなぜか少し嬉しそうだった。
帰ってもらった方がやっぱりよかったかな…。
目線を逸らすと拘束された教師たちが目に入る。本来であれば任務は終わった。
ミシェルは異変に気づく。学院を覆う巨大な結界。夜空へ張り巡らされた術式網。
数秒。観察。
「……あ」
嫌なものを見つけた時の声だった。
「なんだ」
「穴空いてる」
「は?」
「そこ」
ミシェルは夜空を指差す。
「見えねえよ」
「結界の接続点ずれてる」
ノアが沈黙する。
「だから外部と繋がってたのか」
「学院だぞ」
ミシェルは小さく溜息を吐く。学院の結界を張っているのはミシェルの同僚だ。
そもそもなんで来ないの。眠い。教師も捕まえた。これ以上働きたくない。
「呼ぶしかないか、」
ノアが嫌な顔をした。
「えー…」
ミシェルは片手を空へ翳した。




