2-3 見えない手
(3)召喚される
書類整理が終わった頃には、窓の外はすっかり藍色へ沈んでいた。
生徒会室の灯りだけが静かに机を照らしている。
積み上がっていた書類の山は大部分が消えたが、それでも机の端にはまだ紙束が残されていた。
学院という巨大な組織は、思っていた以上に紙を食う生き物らしい。
ミシェルは肩を回した。首筋が重い。眠気はもはや霞のように思考全体へ広がっていた。今すぐ横になれと言われたら、一秒で眠る自信がある。
「助かったよ、マーガレット嬢」
アレンが微笑む。
「そうですか」
副会長からの視線はまだ完全には柔らかくなっていない。
転入して間もない少女が、生徒会でも見抜けなかった違和感を拾ったことの方が警戒材料になる。
ミシェルもそれは理解していた。だから何も言わない。信用は求めていない。任務が終われば学院を去るのだから。
「それでは失礼します」
椅子から立ち上がる。
その瞬間、ノアの声が思念伝達で脳内に響く。
『ミシェル』
普段より低い声だった。
『当たりだ』
眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
『あの教師は黒だ』
心臓が一拍だけ強く鳴る。
『証拠も押さえた』
短い言葉だったが、十分だ。昨夜の襲撃。帳簿。教師。
全ての線が一本に繋がる。
『今どこ?』
『尾行中』
ミシェルは内心で小さく溜息をついた。
『場所はわかった。あとで合流するから無茶しないように』
学院北側。旧研究棟付近。人気の少ない区域だった。
『了解』
「マーガレット嬢?」
アレンの声で現実へ戻る。どうやら数秒ほど黙っていたらしい。
「すみません、少し疲れてしまって」
嘘ではない。一刻も早くベッドに横になりたい。
「今日はありがとうございました」
軽く礼をして、生徒会室を後にする。背後で副会長が何か言っていたが、もう耳に入らなかった。今はそれどころではない。
夜風は昼より冷たかった。寮へ戻る頃には学院の灯りもまばらになっている。
ミシェルは部屋へ入るなり鞄を机へ置いた。
鍵を掛ける。窓を閉め、空中へ星式を描く。
淡い光が円を描き、部屋全体を包み込む。
遮断結界、認識阻害、星力漏出防止。
三重。四重。五重。
普通の術師なら一層で十分だが、ミシェルは"十分"を信用していない。
光が消える。部屋は再び静寂へ沈んだ。
床へ術式陣を描き始める。
早く寝たい。できることなら今すぐに。
人手が足りない。ノアは尾行中。自分1人で対応してもいいが、楽をしたい。
補充したい。呼ぶなら高位精霊。
できれば知性があり、余計なことを言わず、優しくて、存在が癒しで、ある程度力があって、私が寝てても私の意思を汲み取って動いてくれるような…
おっと、危ない、完全に願望が増えている。
疲れている証拠だった。
「……まあ、高位精霊が来てくれればなんでもいいか」
できれば、癒しになるかわいいドライアドちゃん、来てくれ…。
術式が完成し、星力を流し込む。空気が震えた。床の紋様が淡く輝き始める。
召喚式は正常。座標も問題ない。出力も適正、計算も完璧のはずだった。
光が膨張する。部屋の温度が下がる。
次の瞬間。
術式陣の中央から現れた影を見て、ミシェルは数秒ほど思考を停止した。
「……」
現れたのは精霊ではなかった。光が一切ない。神聖さもない。
なんなら、漆黒の大きい翼が生えている。
人の形もしているが、もちろん人ではない。
整いすぎている顔立ちは、人間の美醜という尺度から半歩外れていた。
青年は片膝をつき、まるで最初からそこにいたかのような自然さで頭を垂れる。
部屋は静かだった。
底の見えない夜を、そのまま切り取って置いたような静かな闇。
…あれ。これ、間違えたな。
「……帰れたりする?」
沈黙が落ちた。
術式陣の中央で跪く青年は微動だにしない。
黒い翼だけが静かに揺れていた。
長い睫毛が伏せられている。
まるで神へ祈る信徒のような姿勢だった。
ミシェルは少し考える。
やはり高位精霊ではない。少なくとも見たことがない。
精霊特有の光の流れも感じない。代わりにあるのは濃密な闇だ。
悪魔か、たぶん高位悪魔。かなり上位だろう、たぶん。
「帰れるならもう帰ってもらって…」
青年はゆっくり顔を上げた。その瞬間だけ空気が震える。
世界そのものが一瞬だけ息を止めたような錯覚。
だがミシェルは気付かない。眠いからである。
「お望みとあらば、」
低く美しい声だった。
「私は消えます」
「あ、うん、ちゃんと帰ってね」
少し安心した。
帰せるなら帰したい。今日は寝たい。本当に寝たい。
ミシェルは窓の外を見る。
旧研究棟。黒教師。尾行中のノア。人手不足。寝不足。
現実は容赦がなかった。
「……」
青年は黙っている。視線だけがこちらへ向けられていた。異様なほど従順だった。
普通の悪魔はもっと面倒臭いはずだ。
契約を迫ったり、代償を求めたり、自尊心が高かったりする。
目の前のこれは違った。静かに判決を待つみたいに待っている。
「一つ聞いていい?」
「はい」
「強い?」
沈黙。青年は少しだけ首を傾げた。
「それなりには」
「フェンリルより?」
「はい」
即答だった。ミシェルは頷く。
ならもういいや。もう一度術式を練り直して高位精霊を呼ぶには疲れ切っているし、また違うモノが来てしまうと困る。
「じゃあ仕事、お願いしても?」
青年の瞳が僅かに揺れた。本当に僅かに。誰も気付かないほど。
だが彼にとっては天変地異だった。
何千年。何万年。待ち続けた願いが。今。
叶おうとしている。
「命令を」
青年は頭を垂れた。
ミシェルは指を一本立てる。
「人を殺さない」
「はい」
「大怪我を負わせない」
「はい」
「周囲に正体を悟られない。人の形に擬態して。翼はしまう」
「はい」
「星力も漏らさない」
「はい」
「あと学院壊さない」
「はい」
「私の知り合いも壊さない」
「はい」
「できる?」
青年は静かに微笑んだ。初めて見せる表情だった。
「容易です。お役に立ってみせます!」
その返答はあまりにも自然だった。ミシェルは満足そうに頷く。
よかった。使えそうだ。
ミシェルは術式紙を片付けながら続ける。
「働きを見て契約するか決める」
沈黙。
「名前もその時」
さらに沈黙。
「ちゃんと働けば考える」
青年は俯いた。肩が微かに震える。
怒ったのだろうか。
眠さで適当にあしらってしまった。悪魔とはいえど少し失礼だったかもしれない。
「光栄です」
声が掠れていた。まるで泣きそうな声だった。
ミシェルは首を傾げる。
「契約の可否を判断していただけるだけで十分です」
「そう?」
「はい」
青年は深く頭を垂れる。
変な悪魔だな。
高位悪魔はもっと偉そうなものだと思っていた。
そんなことを考えながら鞄を持つ。
「じゃあ行こう」
青年は即座に立ち上がると部屋の空気が一瞬だけ沈む。
そして次の瞬間には何事もなかったように消える。
存在感すら消した。
ミシェルは少し感心した。
「便利」
青年は何も言わない。言えなかった。
主になるかもしれない人間から命令してもらえた。頼りにしてもらえた。
その事実だけで幸福が限界を超えていたからだった。




