2-1 見えない手
(1)眠気と違和感
頬へ差し込む夕陽が温かかった。
ミシェルはゆっくり目を開く。
視界が滲む。
橙色の光。
長く伸びる影。
書庫の空気は昼より静かだった。
……寝た。仮眠どころか深く寝てしまった。まずい。殿下は…?
ミシェルは身体を起こす。
その瞬間。
「やあ、起きたかい?」
声がした。
心臓が止まりそうになった。隣。すぐ隣の席にいつの間にか誰かが座っている。
金色の髪。
澄んだ青い瞳。
穏やかな微笑。
アレン・アルシェリア。
「……」
…終わった。
「……」
数秒。沈黙。
内心では警鐘が鳴り響いていた。
いつからいる。なぜ気付かなかった。何を見られた。
感知式は、結界は、術式の紙は、正常に動いている。
いや、落ち着け、表情を動かすな。
「睡眠の邪魔をしたかな」
柔らかな声だった。探るような色はない。
本当にそう思っただけらしい。
「いえ」
した。かなりした。寿命にも悪い。
だが顔には出さない。アレンは少し笑った。
「よく眠っていたね」
…いつからここに?
「君を睡眠へと導いたのはどんな本かな?」
私が寝る前に読んでいた本をアレンは手に取る。
「ああ、過去の国内情勢か」
「殿下の前で、すみません」
「いや、いいんだ。確かにこれは眠くなる」
「地方から出てきたので疎くて…」
「ここに通う生徒はみな貴族だからね、話を合わせるのも大変だろう」
なんだろう、この人。なんでここにいるんだ、生徒会の仕事はどうしたのだろうか。
「マーガレット嬢さえ良ければ僕が教えるけど?」
「…え?」
ミシェルにはよく分からない。この王子が何を考えているのか。
どう断れば自然だろうか、
「そんな、悪いです!それに殿下のお時間を頂いてご教授いただいても、また眠気に負けてしまうかもしれませんし」
アレンは少し固まる。
「ハハハッ、いいね、面白い」
「?」
なぜ笑う?意味がわからない。
「さっそく教えてあげたいところだけど、そろそろ生徒会室に戻らないと…あ、生徒会室でよければ教えるけど、」
「だ、大丈夫です!」
「そう?」
「そこまで殿下のお手を煩わせる義理はないですし、」
…大いにあるが。
「あ、いいこと思いついた」
それは確実に私にとって悪いことだ。
「少し仕事を手伝ってもらえないかな?」
アレンはにこやかに笑っていた。先ほどまでの柔らかな笑みではない。
「…」
…終わった。
「さ、行こう」
半ば強制的なエスコートを受け、
護衛対象の近くにいれば確実に守れると自分に言い聞かせながら、ネガティブな気持ちをなんとか落ち着かせようと何度も試みる。
…帰りたい。
学院中央棟の最上階。重厚な扉。
「失礼するよ」
アレンが扉を開ける。
室内にいた数人の生徒が一斉に顔を上げた。
「殿下、お戻りに──」
アレンの後ろに見知らぬ女子生徒、最近転入してきたばかりのメイ・マーガレットではないか。
沈黙。
磨き上げられた床。
壁一面の本棚。
大きな窓から差し込む夕陽。
もはや生徒の部屋ではなく、小規模な執務室だった。
生徒会室は想像よりも広く、部屋に置かれている机や本棚まで全て豪華なものだった。
…これだから貴族は。
沈黙が続く生徒会室。
ミシェルはその空気を察した。やっぱり王子の独断だった。
「紹介するよ」
アレンは全く気にしていない。
「メイ・マーガレット嬢だ」
「今日から生徒会を手伝ってもらうことになった」
なってない。今日"から"ではない。強いて言うなら今日"だけ"だ。
ミシェルは内心で即座に否定した。
「殿下ーーー」
今日はやめておくと断りを入れようとすると一人の男子生徒が面白そうに声を上げた。2年のエリック・ブラウンだ。
「へぇ、殿下が人をお連れしてくるなんて珍しいですね」
「そうかな、今朝方一人辞めてしまって人手が足りないんだ。マーガレット嬢さえ手伝ってもらえたら非常に助かるんだけど、どうかな?」
「私にできることなら、」
「うん、ありがとう」
今朝、一人辞めた…?それは昨晩の件に関係ありますか?私が原因ですか?
ミシェルが考えている間にも、室内の人間はそれぞれ反応していた。
好奇心。警戒。値踏み。そして敵意。ほんの僅かだが確かにあった。
…誰だ。
その瞬間、アレンが何気なく言った。
「じゃあマーガレット嬢、この書類の仕分けをお願いできるかな」
机の上へ積み上がる書類。
山。
山。
山。
「……」
ミシェルは無言になる。護衛対象の近くへ来る。その目的は達成された。
「どうしたの?」
「いえ。できる限り頑張りますが、その、量が多いなと」
生徒会室の空気が少しだけ和む。アレンが笑う。
「僕もそう思う」
そう思うなら減らしてくれ。
これだけの量の仕事があるなら、なぜさっき学院書庫に殿下は居たんだ。
ミシェルは椅子へ座る。
護衛としてはいいが、いや、この距離で私が星術を使うと怪しまれないだろうか、怪しまれないようにやるしかないか、
ノアがついている教師が昨晩の事件との因果関係がもし黒だった場合、私が王子の近くにいることが一番安全だ。あれは殿下一人では勝てない。殿下が星力値を私のように隠蔽していない限り。
もしあれが黒で、あの教師を拘束すれば私は元の生活に戻れるのだろうか。
即座に拘束してやろう…
否、そんな単純な話な訳ないか。
まずいまずい。睡眠不足のせいで思考回路がぶっ飛んでしまった。




