第9話 乾燥機の中の海
第9話 乾燥機の中の海
新しい部屋では、洗濯物がなかなか乾かなかった。窓の隅には朝になると水滴がたまり、雑巾で拭いても昼にはまた曇った。室内物干しに掛けたシャツからは生乾きの匂いが立ち、除湿機のタンクは半日でいっぱいになった。
引っ越して最初の一週間、伸一は毎日のように団地へ戻りたいと訴えた。夜になると隣の部屋のテレビの音が壁を伝い、二階を歩く足音で天井が軋んだ。灰色のスウェットを着た伸一は、机の前で青いコップを握り、訪問した日野に同じ言葉を繰り返した。
「ここでは眠れない。団地へ帰りたい」
「一番困っている音は何ですか」
「全部。テレビも、足音も、水の音も」
「一つだけ減らすなら、どれがいいですか」
「夜のテレビ」
日野は管理会社を通して、隣の住人へ夜間の音について伝えてもらった。ただし、すべての音をなくすことはできないため、伸一の了承を得て、柔らかい耳栓も用意した。伸一は耳栓をつける時間を夜十時から朝六時までと決め、絵カードの時計へ青い丸を描いた。
ヘルパーと作る夕食も、最初はうまくいかなかった。卵焼きはフライパンへくっつき、味噌汁には豆腐を一丁すべて入れてしまった。伸一は崩れた卵を見て箸を置いたが、ヘルパーの山本は、味は変わりませんと言って自分の分を食べた。
「四角くない」
「今日は、卵の炒め物という名前にしましょう」
「卵焼きを作ったんだ」
「では、崩れた卵焼きです。次は油をもう少し入れてみますか」
伸一は一口だけ食べた。甘くしなかった卵焼きには、塩が少し多く入っていた。澄江が作る味とは違ったが、自分で割った卵の殻は、一つも混じっていなかった。
夜尿も続いていた。朝、冷たい感触で目を覚ますと、伸一は濡れたシーツを蹴り、壁へ額を押しつけた。息が荒くなり、何度拭いても自分の身体から匂いが消えないように感じた。
「まただ。昨日も替えたのに」
日野も山本も、叱らず、驚かなかった。日野は最初に赤い電話のマグネットを外してよいか確認し、山本は決めた手順に沿って窓を少し開けた。濡れた寝間着と防水シーツを青い袋へ入れ、身体を拭く温かいタオルを用意した。
「今日は、どこまで自分でしますか」
「できない」
「では、パジャマだけ脱げますか」
「見ないで」
「後ろを向いています。脱いだら声をかけてください」
伸一は時間をかけて着替えた。山本は振り返らずに待ち、脱いだ物を受け取ると青い袋の口を縛った。日野は夜尿の回数と眠った時間を記録し、薬の影響や体調について主治医へ伝えることにした。
問題は、濡れた洗濯物をどこで乾かすかだった。除湿機を一日動かしても、防水シーツの端は冷たいままだった。部屋中に干すと歩く場所がなくなり、伸一はシャツへ肩が触れるたびに足を止めた。
「近くのコインランドリーを使ってみませんか」
移動支援のヘルパーである小川が提案した。伸一は知らない場所にある機械を使うと聞き、青いコップを強く握った。小川は一度に全部覚えなくてよいと説明し、最初の日は場所を見るだけでもよいと言った。
「音は大きい?」
「洗濯機が回る音はします。今日は外から見て、入れそうなら中へ入りましょう」
「人が多かったら?」
「外で待ちます。空いてから入りましょう」
「分からなくなったら?」
「私が隣にいます」
午前十時、伸一は黒いダウンジャケットを着て、青い袋を持って部屋を出た。道路脇の植え込みには、白い沈丁花の蕾がついていた。まだ花は開いていなかったが、日当たりのよい枝だけが少し膨らんでいる。
コインランドリーは、アパートから歩いて七分の場所にあった。自動扉が開くと、洗剤と温められた布の匂いが流れてきた。何台もの機械が低い音を立て、天井の換気扇も回っている。
伸一は入口で立ち止まった。奥の椅子では、赤い帽子をかぶった老人が新聞を読んでいた。小川は先へ進まず、伸一が自分で動くまで横に立った。
「帰る?」
「帰ってもいいです。でも、洗濯物は乾きません」
「今日、全部やるの?」
「今日は、洗濯機を回すところまでです。乾燥は私が手伝います」
伸一は店内へ入った。最初に空いている洗濯機の番号を確認し、紙へ大きく「三」と書いた。小川は硬貨を一枚ずつ手のひらへ載せ、洗剤の投入口を指で示した。
「青い袋を開けます。次に洗濯物を入れます。その次は?」
「扉を閉める」
「はい。その次に硬貨です」
「洗剤が先」
「そうでした。よく気づきました」
洗濯機が回り始めると、伸一は丸い窓の前から動かなかった。水に濡れたシーツが重たく持ち上がり、途中で落ちた。終了を知らせる音が鳴ると、伸一は両耳を塞いだが、店の外へは出なかった。
二回目は、洗濯機から乾燥機へ移すところまで練習した。濡れた防水シーツは予想より重く、床へ端を落としてしまった。伸一は最初から洗い直すと言ったが、小川が汚れていない部分だと確かめ、二人で乾燥機へ入れた。
三回目の利用では、小川は椅子へ座ったまま見守った。伸一は洗濯機の番号を確認し、硬貨を入れ、洗剤の量を線まで測った。洗い終わると、青い袋へ戻さず、そのまま隣の乾燥機へ移した。
「次は、このボタン?」
「絵カードを見て確認してください」
伸一は透明な袋から、日野と作ったカードを出した。乾燥機の絵と同じ印を見つけ、硬貨を入れてからボタンを押した。低い音とともに、丸い窓の中でシャツとタオルが回り始めた。
白いシーツが持ち上がり、その下から青いタオルが現れた。次の瞬間には全部が落ち、また大きく持ち上がった。伸一は、丸い窓の向こうで布が大きな波のように動くのを見つめた。
「海みたい」
「海へ行ったことがありますか」
「小学生のとき。母さんと江の島へ行った」
「泳ぎましたか」
「波が怖くて、砂浜にいた。母さんは、おにぎりに砂をつけた」
伸一は回転する洗濯物から目を離さなかった。小川は、砂のついたおにぎりは食べたのかと尋ねた。伸一は、梅干しのところだけ食べたと答えた。
終了を知らせる音が鳴るまで、伸一は椅子を離れなかった。扉を開けると、乾いた空気と一緒に、熱を含んだ洗濯物が転がり出た。伸一は青いタオルを取り出し、両手で広げた。
タオルは驚くほど温かかった。伸一は顔へ押し当て、そのまましばらく動かなかった。湿気も、母親の声も、薬の袋が動く音もない場所で、温かな布だけが頬を包んでいた。
「自分で、できた」
「はい。最後までできました」
「次は、一人で押せる」
「次も私と来ます。でも、私は少し離れた椅子に座りますね」
伸一は畳んだタオルを青い袋へ入れた。店を出ると、沈丁花が一つだけ開いていた。白い花から甘い匂いがしたが、伸一は顔を背けずに通り過ぎた。
それからも、夜尿がすぐになくなったわけではなかった。濡れた朝には青い袋を使い、乾燥機まで運んだ。何もなかった朝には、防水シーツの端を触って確かめてから、ホワイトボードへ青い丸のマグネットを貼った。
最初の青い丸は、一晩だけだった。その二日後には、青い丸が二つ続いた。月が替わる頃には、白いボードの右側へ、青い丸が五つ並んでいた。
「五日、続きましたね」
日野が言うと、伸一は首を横へ振った。
「三日目は濡れた。だから、三つと二つ」
「では、三つと二つですね。それでも、自分で洗濯できました」
「次は、青い袋も自分で縛る」
日野は新しい目標の絵を作った。伸一は洗濯物を袋へ入れ、口を二度結ぶ絵を選んだ。できなかった夜ではなく、朝に何をするかを決めるようになった。
一人になった澄江も、自分の生活を立て直していた。訪問支援を受けながら床の衣類を色ごとに籠へ入れ、廊下に積んだ洗剤を一本ずつ流し台の下へ移した。特売の札を見ても、買い置きがある品物は一日に一品までと決めた。
「洗剤は安いときに買わないと損なのよ」
ヘルパーの女性に言うと、家にある本数を一緒に数えることになった。台所用、洗濯用、風呂用を合わせて十三本あり、澄江は途中で笑った。これだけあれば来年まで困らないと言われ、特売の洗剤を棚へ戻した。
夕食を作るときには、二つ並べていた茶碗の一つを棚へ戻した。伸一が使っていた緑色の茶碗だった。棚の奥へ置くと、空いた場所が妙に広く見え、澄江はもう一度取り出しかけた。
「今日は、一人分だけですよ」
ヘルパーに声をかけられ、澄江は茶碗から手を離した。鍋には一人分のうどんを入れたが、いつもの癖で油揚げを二枚切ってしまった。煮えたうどんを食卓へ運ぶと、向かいの椅子には誰も座っていなかった。
うどんは半分しか食べられなかった。汁を吸った麺が鍋の中で太くなり、冷えると表面に薄い膜が張った。澄江は残りを捨てず、翌朝に卵を入れて食べることにした。
伸一の部屋へ行きたくなる夜もあった。歩いて十五分なのだから、窓の外から明かりを見るだけならよいと思った。茶色い運動靴を玄関へ出し、片方へ足を入れたこともある。
けれども、その日は約束の日ではなかった。澄江は靴を脱ぎ、木製ボールを握った。十まで数えても会いたい気持ちは消えなかったが、消す必要はないのだと思った。
古いパソコンの電源を入れ、音声入力を開いた。伸一へ伝えたいことを話そうとしたが、機械は「元気ですか」を「電気ですか」と表示した。澄江は画面へ向かって、違うわよと文句を言った。
「伸一、ちゃんと食べていますか。夜は眠れていますか。洗濯物は乾きましたか」
機械は途中で言葉を取り違えた。澄江は直そうとしたが、文字を追ううちに頭が混乱した。送る相手もいない文章だったため、そのまま画面を閉じた。
「神様、今日も伸一を見ていてください。私が行かなくても、必要な人の手が届くようにしてください」
祈ったあと、澄江はパソコンの電源を切った。流しには朝の茶碗が一つ残り、窓辺の植木鉢では水仙の細い葉が伸びている。花はまだ咲いていなかったが、澄江は水をやりすぎないよう、土へ指を入れて湿り気を確かめた。
その夜、伸一から電話はなかった。赤い電話のマグネットも使われなかった。澄江は布団の中で何度か目を覚ましたが、運動靴を履くことはなかった。
翌朝、伸一は乾いた防水シーツを自分で畳んだ。角と角は少しずれていたが、やり直さずに押し入れへ入れた。ホワイトボードには、六つ目の青い丸が貼られた。
団地の窓辺では、水仙の蕾が一つ開いていた。澄江は一人分の卵うどんを温め、湯気で曇った眼鏡を外した。二人は別々の部屋で、それぞれの朝を始めていた。




