第10話 痛くない距離
第10話 痛くない距離
別々に暮らし始めて半年以上が過ぎ、二人は初めての冬を迎えていた。伸一は新しい部屋で暮らし続け、澄江も団地で一人分の食事を作ることに慣れてきた。会うのは月に一度、団地の近くにある公園だけと決めていた。
最初は澄江が伸一の部屋を訪ねていた。しかし、壁の染みを見ると拭きたくなり、机の上に空の菓子袋があれば捨てたくなった。伸一も母親の眉が動くたびに何かを注意されると思い、薬や食事の順番を何度も確かめた。
「部屋では会わない方がいいと思う」
三度目の訪問のあと、伸一が日野の前で言った。澄江は、自分が行かなければ掃除をしないのではないかと尋ねた。伸一は膝へ置いた青いコップを握り、居宅介護の山本と一緒に掃除していると答えた。
「お母さんが行かなくても、暮らせているんですよ」
日野に言われ、澄江は木製ボールを十秒間握った。息子の部屋へ入れないことより、自分がいなくても暮らせると言われたことの方が、胸の内側へ強く残った。それでも公園なら会えるという伸一の提案を受け入れた。
冬晴れの午後、澄江は約束より二十分早く公園へ着いた。赤茶色のコートに毛糸の帽子をかぶり、ベンチの端へ座った。膝の上には小さな布袋があり、中には木製ボールが入っている。
公園の花壇には、葉牡丹と黄色いパンジーが植えられていた。風が吹くたびに、枯れ葉が地面を擦りながら転がっていく。近くの砂場では、赤い長靴を履いた子どもが、母親と一緒に小さな山を作っていた。
澄江は何度も時計を見た。伸一は約束の時刻を一分でも過ぎると落ち着かなくなるため、いつも早く来るはずだった。何かあったのではないかと思い、鞄から連絡先の絵カードを取り出しかけた。
「まだ一分前よ」
澄江は自分へ言い聞かせた。木製ボールを布袋の上から握り、十まで数えた。十秒後には、遠くの入口に黒い上着を着た伸一の姿が見えた。
伸一は約束の時刻より三分遅れて現れた。以前なら遅れた理由を何度も説明していたが、今日は黙って歩いてきた。青いシャツは乾燥機で少し縮み、袖口から手首が出ていた。
「三分、遅かったね」
澄江は責めるつもりではなかったが、口から先に出た。伸一の足が止まり、上着のポケットへ入れた手が動かなくなった。澄江は木製ボールを握り直し、言葉を足した。
「待っている間に、パンジーを見ていたの。転ばないで来られてよかった」
「信号を二回待った」
「赤だったの?」
「一回目は青だった。でも、車が来たから渡らなかった」
「それでいいのよ。三分くらい、お母さんは待てるから」
伸一は澄江から腕一本分ほど空け、ベンチへ座った。二人の間を冷たい風が通り抜けたが、澄江は距離を詰めなかった。コートの裾が風でめくれたため、膝の下へ挟んだ。
伸一の服からは、洗剤の匂いがした。生乾きの酸っぱい匂いではなく、乾燥機から出したばかりのタオルに似た、温かな布の匂いだった。澄江は袖が短くなったことを指摘したくなったが、着ている本人が困っていないなら言う必要はないと考えた。
「寒くない?」
「上着があるから、大丈夫」
「袖が短いけど」
「シャツだから、いい」
「そうね。上着の袖は長いものね」
伸一は上着のポケットへ手を入れ、温かい缶のお茶を取り出した。作業所へ通い始めてから受け取った工賃で買った物だった。缶を右手から左手へ何度か持ち替えたあと、澄江の方へ差し出した。
「作業所のお金で買った」
「伸一が働いたお金?」
「うん。紙を十枚ずつ数えて、袋に入れた」
「何袋、作ったの?」
「百二十七袋」
「そんなに作ったの。すごいじゃない」
澄江は言ってから、頑張ったねという言葉が続きそうになった。伸一は評価されると、次も同じ数を作らなければならないと思い込むことがある。澄江は口を閉じ、差し出された缶を見た。
「母さん、これ。飲む?」
「伸一が飲むために買ったんじゃないの?」
「母さんの分。僕のは、もう飲んだ」
澄江は両手で缶を受け取った。冷えていた指先へ、じわりと熱が伝わった。喉の奥が狭くなったが、「ありがとう」以外の言葉を足さなかった。
「ありがとう。いただくね」
缶の蓋を開けると、温かい緑茶の匂いがした。一口飲むと少し渋く、舌の奥に味が残った。伸一は澄江が飲むのを確認してから、ベンチの前に転がってきた枯れ葉を靴先で脇へよけた。
「洗濯は、できてる?」
「うん。乾燥機、三十分」
「防水シーツも?」
「濡れた日は、四十分。タオルだけなら二十分」
「自分で時間を変えられるようになったのね」
「絵カードに書いてある」
「青い丸は?」
「今月は、八つ続いた」
澄江は、夜尿がなくなったのかと聞きそうになった。八つ続いたあとに濡れた日があったかもしれない。できなかった日の数まで聞かなくても、伸一が話したいのは八つの青い丸だと分かった。
「八つ、並んだのね」
「真っすぐ並べた」
「伸一らしいね」
「一個だけ、少し曲がった」
「それは直したの?」
「直さなかった。日野さんが、そのままでいいって言ったから」
伸一は手首まで下がってきた袖を引っ張った。けれども、すぐに元へ戻るため、途中で諦めて上着のポケットへ手を入れた。澄江は新しいシャツを買ってやろうと考えたが、先に本人へ尋ねることにした。
「そのシャツ、買い替える?」
「まだ着られる」
「袖が短くても?」
「手を洗うとき、濡れないから便利」
「そういう考えもあるのね」
近くの砂場から、子どもの笑い声が聞こえた。作っていた山が崩れ、母親がもう一度作ろうと言っている。伸一は音のする方へ顔を向けたが、耳を塞がなかった。
「ご飯は?」
「昨日は卵を焼いた。少し焦げた」
「油は入れた?」
「入れた。でも、日課のカードを見ていたら焦げた」
「食べられた?」
「黒いところだけ取った」
「味噌汁は?」
「豆腐を半分にした。前は一丁入れたから」
澄江は、味噌汁へ入れる豆腐の量や、卵焼きの火加減を細かく教えたくなった。しかし伸一は、失敗したあとで自分なりに直していた。澄江は缶のお茶をもう一口飲み、言葉の代わりにうなずいた。
「母さんは、何を食べた?」
伸一が尋ねた。澄江は思わず息子の顔を見た。伸一から自分の食事について聞かれたのは、いつ以来か思い出せなかった。
「昨日は、サバを焼いたの。小さいのが二枚入りだったから、一枚は冷凍したわ」
「味噌汁は?」
「作らなかった。インスタントにした」
「野菜がない」
「お母さんだって、たまにはさぼるのよ」
「今日、野菜を食べて」
「分かりました。帰りに大根を買います」
「大根だけ?」
「油揚げも買って、煮物にする。これでいい?」
「いい」
伸一はそれだけ言うと、冬の空を見上げた。澄江も同じ方向へ顔を向けた。雲の少ない青空を、一羽の鳥がゆっくり横切っていった。
抱きしめなくても、手を握らなくても、二人は同じベンチで風の音を聞いていた。以前の澄江なら、伸一の肩へ触れ、寒いからもっと近くへ座れと言っていた。今日は二人の間にある腕一本分の隙間を、そのまま残した。
日野が話したヤマアラシのことを思い出した。寒さを避けようと近づきすぎれば、互いの針が刺さる。痛くなって離れすぎれば、今度は身体が冷えてしまう。
澄江と伸一は、同じ家で暮らすことをやめた。月に一度だけ公園で会い、電話は決めた曜日に短くかける。困ったときには母親だけを呼ばず、日野や佐久間やヘルパーへつながる赤い電話を使う。
遠くから見れば、離れてしまった親子に見えるかもしれない。けれども、伸一は自分で買った温かいお茶を澄江へ渡し、澄江は息子が話し終えるまで待てるようになった。二人の間にある隙間は、相手を追い出すためではなく、互いの針を刺さないための場所だった。
「母さん」
「何?」
「来月も、ここ?」
「寒くなければね。雨なら、佐久間さんに相談して場所を決めましょう」
「勝手に部屋へ来ない?」
「行かない。約束したでしょう」
「うん」
伸一はベンチから立ち上がった。澄江も腰へ手を当て、少し遅れて立った。布袋の中にある木製ボールは、今日は一度も取り出さなかった。
公園の出口までは並んで歩いた。歩幅の広い伸一が先へ出ると、以前の澄江なら腕をつかんで待たせていた。今日は追いかけず、自分の速さで歩いた。
出口の手前で、伸一が立ち止まった。澄江が隣へ来るまで待ち、右と左の道を順番に見た。右へ進めば伸一のアパート、左へ進めば澄江の団地だった。
「じゃあ、来月」
「風邪をひかないでね」
「母さんも、野菜を食べて」
「はいはい。大根を買うんでしょう」
「忘れないで」
「忘れたら、明日買うわ」
伸一は右の道へ歩き出した。澄江は背中へ声をかけたくなったが、息子が一度も振り返らずに歩いているのを見て、呼び止めなかった。赤茶色のコートのポケットへ両手を入れ、左の道へ足を向けた。
八百屋では、傷のついた大根が一本百円で売られていた。澄江は大根と油揚げだけを籠へ入れ、特売の洗剤には手を伸ばさなかった。店先の鉢では、赤い椿が一輪開いていた。
団地へ帰ると、玄関には澄江の茶色い運動靴だけがあった。以前はその隣に、伸一の黒い靴が並んでいた。澄江は自分の靴を脱ぎ、つま先を玄関の線へ合わせた。
居間の棚には、伸一が使っていた青いコップが一つ残っていた。澄江は捨てることも、新しい部屋へ届けることもせず、そこへ置いていた。今日も埃だけを拭き、元の場所へ戻した。
夕食には、大根と油揚げを煮た。醤油を入れすぎそうになり、小皿へ少し取って味を確かめた。一人分の茶碗へご飯をよそい、食卓の端に温かいお茶の缶を置いた。
伸一も自分の部屋へ帰っていた。玄関で黒い靴を脱ぎ、つま先を壁の線へ合わせた。机の右側には青いコップがあり、ホワイトボードには八つの青い丸が並んでいた。
伸一は夕食の準備をする前に、縮んだシャツを脱いだ。洗濯籠へ入れ、明日のコインランドリーで乾燥させる物を確認した。冷蔵庫から卵を一つ出すと、今度は絵カードを見終えてからフライパンへ火をつけた。
団地の食卓で、澄江は缶のお茶を一口飲んだ。少し渋く、まだ温かかった。窓の外は暗くなり、ガラスには一人分の姿が映っていた。
「神様、今日もこの子をおぶってくださって、ありがとうございます」
澄江は、伸一が何もかも一人でできるようになったとは思っていなかった。自分も、息子を心配せずに暮らせるようになったわけではない。明日になれば、また連れて帰りたくなるかもしれなかった。
それでも、できることは自分で行い、できないことは人の手を借りる。その手でも抱えきれないものは、神へ委ねる。澄江は祈りを終えると、冷める前に大根を一つ口へ入れた。
二つの玄関には、一足ずつの靴が揃っていた。二人はもう同じ家へは帰らない。それでも互いを傷つけない距離から、相手の小さな声を聞くことができた。




