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第8話 神様、あなたがおぶってください

第8話 神様、あなたがおぶってください


引っ越し当日の朝、澄江は五時に目を覚ました。庭には薄い霜が降り、黄色い小菊の枯れた茎が白く縁取られている。まだ暗い台所で湯を沸かし、梅干しを入れたおにぎりを六個作った。


炊きたての米は熱く、塩をつけた手のひらが赤くなった。形は三角にならず、一つは丸く、一つは細長くなった。澄江は伸一の分だけ海苔を別の袋へ入れ、食べる直前に巻けるようにした。


「先に巻くと、しんなりしちゃうからね」


返事はなかった。伸一の部屋からは、段ボール箱を動かす音がしている。澄江は声をかけようとして、冷蔵庫の横に貼られた青い扉を見た。


荷物は多くなかった。衣類が入った段ボール箱が二つ、小さな炊飯器、青いコップ、薬箱、折り畳み式のベッドだった。日野と作った日課の絵カードは、透明な袋へ入れ、伸一が自分で胸元に抱えていた。


「それ、荷物と一緒に運んでもらえば?」


澄江が尋ねると、伸一は袋を抱える腕へ力を入れた。薄い青色のセーターに、黒いジャージを履いている。新品のセーターは首元が気になるらしく、何度も襟を引っ張っていた。


「これは自分で持つ」


「落とさないようにね」


「薬箱も自分で持つ」


「両方は危ないでしょう」


言いかけて、澄江は木製ボールを握った。伸一は絵カードの袋を手提げ鞄へ入れ、薬箱を両手で持った。自分で持てる形を考えたのだから、もう口を挟む必要はなかった。


午前九時、佐久間と日野、それに居宅介護事業所のヘルパーが二人やってきた。廊下へ積まれていた洗剤や古新聞を端へ寄せ、荷物を玄関まで運んだ。大きな家具は机だけで、冷蔵庫と電子レンジは寄付された物が新居へ届くことになっていた。


「この机は、窓際に置けばいいんですよね」


ヘルパーが尋ねると、澄江は反射的に答えそうになった。以前、自分の考えで机を動かし、伸一が柱へ頭を打ちつけた日の音が戻ってきた。澄江は口を閉じ、息子へ顔を向けた。


「伸一、どこに置くの?」


「新しい部屋を見てから決める」


「では、到着してから指示してください」


日野がそう言うと、伸一は一度だけうなずいた。机の引き出しには何も入っていなかったが、伸一は運び出されるまでそばを離れなかった。玄関を出る前には、黒い靴と澄江の茶色い運動靴を並べ直した。


荷物を積んだ小さな車が先に出発し、澄江たちは歩いて新居へ向かった。吐く息は白く、道端の梅の木には丸い蕾がついていた。総菜店の前を通ると、揚げたてのコロッケの匂いがした。


「帰りに買っていこうか。引っ越しそばの代わりに、引っ越しコロッケ」


澄江が言うと、伸一は前を向いたまま答えた。


「そばとコロッケは別の物だよ」


「そんなの分かってるわよ。新しい家で食べれば、何でも引っ越し料理になるの」


「じゃあ、おにぎりも引っ越しおにぎり?」


「そうよ。朝から握ったんだから、ありがたく食べなさい」


伸一の口元が少し動いた。笑ったのかと尋ねようとしたが、澄江は聞かなかった。二人の後ろを歩いていた日野が、白い息を吐きながら小さく笑った。


新しいアパートの玄関には、佐久間が用意した青いスリッパが一足置かれていた。部屋の中央には寄付された小型冷蔵庫と電子レンジがあり、壁際には除湿機が箱に入ったまま置かれている。室内物干しには、伸一が前日に洗ったシャツが二枚掛かっていた。


窓から日差しは入らなかった。青いカーテンを開けても、見えるのは隣の建物の灰色の壁だけだった。蛍光灯をつけると、壁紙に残った黒い点がいっそうはっきり見えた。


「やっぱり、暗いわね」


澄江は窓辺へ行き、カーテンを何度も開け閉めした。どれだけ開けても光は増えず、シャツを掛けた室内物干しが四畳半の一部を塞いでいる。胸の奥へ冷たい水を流し込まれたようで、窓の留め金から手を離せなかった。


「除湿機は、ここに置きましょう」


佐久間が箱を開けた。日野は薬箱を置く棚へ、朝、昼、夜の絵を貼った。ヘルパーは台所の棚へ、米、味噌、缶詰、レトルト食品を並べていった。


「お母さん。味噌は冷蔵庫へ入れますか」


ヘルパーに尋ねられ、澄江は伸一が使いやすい場所へ置けばよいと答えた。伸一は味噌を冷蔵庫の上段へ入れ、卵を扉側へ並べた。青いコップだけは、自分で洗ってから流し台の右側へ置いた。


机を運び込む番になると、伸一は床へ貼る細い青色のテープを取り出した。窓から少し離れた部屋の隅を測り、机の脚を置く場所へ四つの印をつけた。ヘルパーたちは、その印に合わせて机を下ろした。


「ここでいい?」


「右を、もう三センチ」


「このくらいですか」


「もう少し。そこ」


机が決まると、伸一は鉛筆を五本並べた。薬箱と青いコップも、決めた場所へ置いた。それでも荷物をほどく手は止まり、部屋の中央へ座り込んだ。


佐久間たちは、午後の訪問予定と緊急連絡先をもう一度確認した。最初の一週間は毎日誰かが訪れ、夜も電話で状態を確かめることになっている。夕方にはヘルパーが来て、味噌汁と卵焼きを一緒に作る予定だった。


「では、私たちは一度戻ります。午後三時に、訪問看護師が来ます」


佐久間が玄関へ向かうと、伸一は膝を抱えたまま動かなかった。日野は赤い電話のマグネットをホワイトボードへ貼り、連絡するときは、その下の大きなボタンを押せばよいと説明した。伸一は聞いていたが、返事をしなかった。


部屋に澄江と伸一だけが残った。冷蔵庫のモーターが動き出し、壁の向こうから水を流す音が聞こえた。古い建物の匂いに、洗ったばかりのシャツの洗剤の匂いが混じっている。


「母さん、ここ、暗いよ」


伸一が膝へ顔を伏せた。澄江は返事ができなかった。自分でも分かっていたことを息子の声で聞くと、壁紙の黒い点が急に増えたように見えた。


今ならまだ間に合うと思った。荷物をもう一度車へ載せ、二人で団地へ帰ればいい。伸一の食事も洗濯も薬も、これまでどおり自分が見ればよい。


「やっぱり帰ろう」と言えば、伸一も安心するかもしれない。暗い四畳半へ息子を残す母親にならずに済む。澄江の身体の中を、いくつもの言葉が一度に駆け上がった。


そのとき、伸一が両耳を塞いだ。澄江はまだ何も口にしていなかった。自分の息が荒くなり、コートの袖が擦れ、床を踏む足が何度も動いていた。


「母さん、音が多い」


「私、何も言ってないわよ」


「言おうとしてるのが分かる」


澄江はコートのポケットから木製ボールを取り出した。爪が白くなるまで握り、壁の染みがにじむほど目を開いたまま、十まで数えた。十秒たっても、連れて帰りたいという言葉は消えなかった。


けれど、その言葉は伸一のためなのか、自分のためなのか分からなくなった。伸一を一人にするのが怖いのか、自分が一人になるのが怖いのかも分からなかった。澄江は木製ボールを胸へ押し当て、薄暗い天井を見上げた。


「できる限りのことはします。できないことは、神様、あなたがおぶってください」


四十年以上、何度も苦しい夜を越えるたびに、澄江は神へ祈ってきた。けれども、これまでは祈ったあとも、すべてを自分の腕へ抱え直していた。誰かへ任せれば母親ではなくなると思い、助けの手まで払いのけてきた。


伸一が顔を上げた。澄江は息子を置き去りにするのではない。日野や佐久間、訪問看護師やヘルパーへつなぎ、自分の腕では抱えきれないところを神の手に委ねようとしている。


「今、神様に頼んだの?」


「そうよ。お母さん一人じゃ、もう無理だから」


「神様は、ここにもいる?」


「いるわよ。日当たりが悪くても、四畳半でも、ちゃんと見ていてくださるわ」


「母さんが帰ったあとも?」


「もちろん。お母さんより、ずっと上手に見ていてくださる」


伸一は耳から手を離した。青いコップを取り、水道の水を入れた。三口に分けて飲むと、流し台の右側へ戻した。


澄江は持ってきたおにぎりを二つ、冷蔵庫へ入れた。残りは昼に食べられるよう、低いテーブルの上へ置いた。伸一が海苔の袋を開け、自分で丸いおにぎりへ巻いた。


「塩、多い」


「朝は急いでいたからね」


「梅干しも、端に寄ってる」


「文句を言いながら食べるなら、返しなさい」


「もう食べた」


伸一は二口目をかじった。澄江も細長いおにぎりを手に取り、冷めた米を噛んだ。海苔の香りと梅干しの酸っぱさが、古い部屋の匂いを少しだけ薄くした。


食べ終わると、澄江はコートを着直した。襟元のボタンが穴へ入らず、二度やり直した。伸一は立ち上がらず、部屋の中央から母親を見ていた。


「明日は来る?」


「来ない。明日はヘルパーさんが来るでしょう」


「次はいつ?」


「三日後。日野さんと一緒に来る」


「一人では来ない?」


「来ない。伸一が来てほしいと言ったとき以外はね」


「約束?」


「約束よ」


玄関までの数歩は、濡れた砂の中を歩くように重かった。澄江は一度だけ机の位置を確かめ、青いコップを見た。伸一が自分で決めた物は、すべて自分で決めた場所にあった。


「じゃあ、帰るね」


「うん」


「困ったら、赤い電話よ」


「分かってる」


「夜は冷えるから、暖房を……」


澄江は木製ボールを握った。十まで数える前に、壁へ貼られた暖房の絵カードが見えた。伸一はもう、分かっている。


「また三日後ね」


澄江は振り返らず、玄関の扉を閉めた。古い廊下には冷たい風が入り、錆びた手すりの向こうで、赤い梅が一輪だけ開いていた。背後で、内側から鍵のかかる音がした。


澄江の足が止まった。以前なら、その音を自分が締め出された音だと思っただろう。今日は、伸一が初めて自分の部屋を自分で守った音だと分かった。


階段を下りると、佐久間と日野が道路の脇で待っていた。二人は何も尋ねず、澄江が歩き出すまで立っていた。澄江は木製ボールをコートのポケットへ戻し、団地へ続く道へ足を向けた。


空は曇っていたが、道路脇の梅はもう一輪咲いていた。澄江は振り返らずに歩いた。自分の背中にも、見えない大きな手が添えられているような気がした。


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