第7話 冷たいシーツ
第7話 冷たいシーツ
三か月後、ようやく一件のアパートが見つかった。澄江の団地から歩いて十五分ほどの場所にある、築五十年近い木造二階建てだった。家賃は住宅扶助の上限内で、生活保護を利用していても、支援者が定期的に訪れることを条件に借りられるという。
二月の午後、澄江は毛玉のついた灰色のコートを着て、伸一と佐久間の後ろを歩いた。道路脇の家では、赤い椿が冷たい風に揺れている。伸一は黒い手袋をはめ、曲がり角に来るたび、覚えるように白い塀や自動販売機を見ていた。
「ここなら、お母さんの家から歩いて来られます」
佐久間が立ち止まった。目の前には、外壁の塗装が剥がれた二階建てのアパートがあった。鉄の階段には茶色い錆が浮き、風が吹くたび、二階の手すりが細く鳴った。
「歩いて十五分なら、毎日来られるわね」
澄江が言うと、伸一の足が止まった。佐久間は鍵を取り出しかけた手を下ろし、二人の顔を順番に見た。澄江は自分の言葉の何がいけなかったのか分からず、コートのポケットにある木製ボールを握った。
「母さんが毎日来るなら、別に暮らす意味がない」
「だって、具合が悪くなるかもしれないでしょう」
「そのときは、赤い電話を使う」
「でも、すぐに来られる距離なんだから」
「澄江さん。訪ねる回数も、伸一さんと相談して決めましょう」
佐久間が間へ入ると、澄江は口を閉じた。十秒数える間に、毎日行くという言葉が、伸一には見張られるという意味になるのかもしれないと考えた。木製ボールから手を離し、伸一の返事を待った。
「最初は、一週間に一回がいい」
「一回だけ?」
「お母さん。今は一回から始めましょう」
伸一は佐久間から鍵を受け取り、玄関を開けた。湿った畳と古い排水口の匂いが、冷たい空気と一緒に流れてきた。四畳半一間の部屋は、昼間でも照明をつけなければ、足元の段差が見えなかった。
窓を開けると、手を伸ばせば届きそうな場所に、隣の建物の灰色の壁があった。空は細い隙間から少し見えるだけで、日差しは入らない。澄江は窓辺へ立ち、右を見てから左を見た。
「庭もないのね」
「ありません。でも、一階なので階段は使わずに済みます」
「洗濯物は、どこへ干すんですか」
「室内物干しを置くことになります」
「こんな暗い所じゃ、乾かないでしょう」
ベランダも物干し場もなかった。風呂桶はなく、台所の隅に、黄ばんだ折り戸のついた古いシャワー室がある。蛇口をひねると最初に茶色い水が出て、しばらくしてから透明になった。
「お湯は出るんですか」
澄江が尋ねると、不動産店の男性は給湯器のスイッチを入れた。配管の中で低い音がして、少し遅れて湯気の出る水が流れた。伸一は大きな音に肩を上げたが、耳を塞がずに見ていた。
「設備は古いですが、使えます。故障した場合は管理会社へ連絡してください」
「その連絡を、この子が一人でできると思いますか」
「母さん」
伸一が低い声で呼んだ。澄江は言葉を止め、ポケットの中で十まで数えた。佐久間は、故障時の連絡も支援者が手伝えると説明した。
壁紙には、拭いても取れない黒い点が残っていた。畳は日に焼け、部屋の隅だけ色が濃い。前の住人が置いていったらしい小さな釘が一本、柱に刺さっていた。
「こんな所に、伸一を住ませるんですか」
澄江が尋ねると、佐久間はすぐには答えなかった。さらに条件のよい部屋が見つかるまで待つこともできるが、何か月かかるか分からない。その間に、同じ家の中で再び事故が起きる危険もあった。
「私は、よい部屋だとは言えません」
佐久間は鞄から巻き尺を出し、窓の寸法を測った。窓の幅と高さを手帳へ書き、シャワー室の換気扇も確認した。澄江はその背中を見ながら、家賃の安い者は暗い部屋で我慢しろと言われているように感じた。
「それでも、ここなら大家さんが伸一さんの入居を受け入れてくれます。訪問看護や居宅介護も、予定どおり利用できます」
「布団を敷いたら、何も置けないじゃない」
「折り畳み式のベッドを使えば、少し動ける場所を作れます。除湿機や室内物干しも、福祉制度や寄付で用意できないか調べます」
「冷蔵庫は?」
「小さい物を探します。電子レンジも必要ですね」
佐久間は、必要な物を一つずつ手帳へ書いた。伸一は部屋の中央に立ち、壁から窓までを歩いて歩数を数えた。五歩進み、向きを変え、また五歩戻った。
「ここに机を置きたい」
伸一が窓際を指した。澄江は、以前勝手に机を動かしたことを思い出した。窓際は冷えると言いかけたが、伸一へ尋ねてから決めるべきだと考え直した。
「どうして、そこがいいの?」
「入口が見えるから。それに、青いコップを窓の右に置ける」
「暗くない?」
「電気をつければいい」
澄江は壁のスイッチを押した。古い蛍光灯が二度点滅してから、部屋を白く照らした。明るいとは言えなかったが、伸一の顔は見えた。
「ここでいい」
伸一が言った。澄江はすぐに賛成できず、黒い点の残る壁を見つめた。けれども、ここで暮らすのは自分ではなく伸一だった。
「分かった。でも、カーテンだけは新しい物にしましょう。灰色の壁ばかりじゃ息が詰まるもの」
「青がいい」
「また青なの?」
「青なら落ち着く」
「じゃあ、濃い青にしましょう。汚れも目立たないから」
帰り道、澄江は八百屋で大根と鶏ひき肉を買った。傷のついた大根は一本八十円で、店先には小さな水仙の鉢が並んでいた。買うつもりはなかったが、白い花を見ているうちに足が止まった。
「新しい部屋に、花を置いたらどう?」
「いらない」
「水仙なら小さいわよ」
「匂いが強いから、いらない」
澄江は鉢から手を離した。以前なら勝手に買い、窓辺へ置いていただろう。代わりに、伸一が選んだ青い洗濯ばさみを一袋買った。
引っ越しの日が近づくにつれ、伸一は夜中に何度も目を覚ました。段ボール箱へ鉛筆を入れては出し、机から何番目の箱へ入れるかを決め直した。薬の袋も一度荷造りしたが、見えない場所にあると落ち着かず、すべて元の位置へ戻した。
ある朝、澄江は伸一の部屋から短い叫び声を聞いた。ホワイトボードには赤い電話が貼られている。澄江は黄色い線の手前で立ち止まり、襖を開けてもよいか尋ねた。
「伸一、入るよ。返事ができなかったら、開けるからね」
「見るな」
襖の向こうで、布団を蹴る音がした。澄江はすぐに開けず、もう一度声をかけた。中から、息を詰まらせた声が返ってきた。
「母さん、見るな!」
「見ないと手伝えないよ。何があったの?」
「濡れた。全部、濡れた」
澄江は襖を少しだけ開けた。伸一は紺色のパジャマを着たまま、部屋の隅で髪をつかんでいた。敷布団の上には濡れたシーツが丸められ、冬の冷たい空気に、尿と洗剤の匂いが混じっていた。
「大人なのに」
その言葉が口元まで上がった。四十九歳にもなって、という言葉も続きそうになった。澄江は木製ボールを握り、目を閉じて十まで数えた。
「シーツを洗ってもいい?」
伸一は顔を上げなかった。肩を上下させながら、何度か息を吸った。やがて、丸めたシーツを足で押し出した。
「洗って」
「パジャマも?」
「それは自分で着替える」
「分かった。洗濯物だけ、ここに置いて」
澄江は伸一の身体を見ないように背を向けた。シーツと防水シーツだけを受け取り、黄色い線の外へ出た。襖を閉めると、内側から伸一が鍵を掛けた。
洗濯機には入りきらなかったため、澄江は大きな洗面器へ水を張った。濡れたシーツを押し洗いすると、冷たい水が袖口から入り、腕を伝った。指先は赤くなり、爪の間へ洗剤の白い泡が残った。
「昔は、こんなの毎日のように洗ったわね」
伸一が小学生だった頃にも、夜尿が続いた時期があった。冬の朝、石油ストーブの前へ何枚ものシーツを掛け、乾くまで親子でトーストを食べた。あの頃の伸一は、パンの耳を残して澄江の皿へ載せていた。
洗い終えたシーツを絞ったが、庭の物干し竿は前夜の雨で濡れていた。部屋の中にも干す場所が足りない。澄江はカーテンレールへシーツを掛け、椅子の背にも防水シーツを広げた。
濡れた布が重たく垂れ下がり、窓から入るわずかな光まで遮った。床へ水滴が落ち、下に敷いた古新聞の文字が滲んだ。乾かすために暖房を強くすると、部屋に湿った洗剤の匂いがこもった。
昼前に日野が来ると、伸一は青い扉を出していた。日野は部屋へ入らず、襖の外から体調を尋ねた。伸一は返事をしなかったが、赤い電話が外されていることを確認し、しばらく待つことにした。
「引っ越しが近づいて、身体も緊張しているのかもしれません」
日野はシーツの下で腰をかがめながら言った。澄江は、夜尿について誰にも話さないでほしいと声を落とした。日野は必要な支援者以外へ勝手に伝えることはないと約束した。
「新しい部屋にも、防水シーツを用意しましょう。洗い替えがあれば、夜に濡れても朝までそのままにせずに済みます」
「でも、あの部屋には干す場所がないのよ」
「室内物干しと除湿機を優先して探します。コインランドリーの使い方も、支援者と練習できます」
「伸一が一人で洗えるかしら」
「最初から一人で全部できなくてもいいんです。助けてほしい部分を、伸一さんに選んでもらいましょう」
夕方になっても、シーツは乾かなかった。表面は冷たく、端から水滴が一つずつ落ちている。澄江が乾燥機のあるコインランドリーへ持っていこうとすると、襖が少し開いた。
「母さん」
伸一は着替えた灰色のスウェットを着て、黄色い線の内側に立っていた。目は澄江ではなく、カーテンレールから垂れたシーツへ向いている。両手の指を何度も組み直していた。
「怒らないの」
「怒っても、乾かないもの」
「汚いって言わないの」
「洗えばいいのよ。私だって、昔、熱を出して布団を汚したことがあるわ」
「いつ?」
「お父さんと結婚する前。十九歳のとき」
澄江は本当のことを言った。高熱で寝込み、母親にシーツを洗ってもらったことがある。翌朝、何も尋ねずに乾いた布団を敷いてくれた母親の手を、今まで忘れていた。
「新しい部屋でも、また濡らすかもしれない」
「防水シーツを二枚用意するって。洗濯は、手伝ってもらえばいい」
「母さんが来るの?」
「伸一が来てほしいと言ったときは行く。でも、毎回は行かない」
伸一はしばらく黙った。澄江も答えを急がず、木製ボールを両手の間で転がした。やがて伸一は、カーテンレールのシーツを指した。
「端を持って」
「外すの?」
「もう一回、絞る。二人ならできる」
澄江は片方の端を持ち、伸一は黄色い線を越えて反対側を持った。二人でゆっくり布をねじると、洗面器へ濁った水が落ちた。伸一の指が澄江の手に近づいたが、触れる前に止まった。
絞り終えたシーツを、二人でもう一度カーテンレールへ掛けた。部屋はさらに暗くなったが、伸一は自分で窓を少し開けた。外から冷たい風が入り、湿った匂いをゆっくり運び出した。
庭では、朝に見た赤い椿の花びらが一枚、土へ落ちていた。澄江は濡れた袖口を折り返し、伸一は洗面器を風呂場へ運んだ。冷たいシーツの向こうで、二人は別々の場所に立っていた。




