第6話 閉ざされた扉
第6話 閉ざされた扉
相談支援専門員の佐久間浩平が家を訪れたのは、十一月に入ったばかりの曇った午後だった。佐久間は濃紺の背広の上に薄いコートを着て、角の擦れた書類鞄を提げていた。庭では黄色い小菊が冷たい風に揺れ、散った花びらが湿った土へ張りついていた。
「今日は、伸一さんが一人で暮らすために必要な支援を整理します」
佐久間は食卓へ何枚もの紙を並べた。訪問看護、居宅介護、移動支援、服薬管理という文字が書かれていたが、澄江には黒い線の固まりにしか見えない。佐久間が一つずつ声に出して説明すると、伸一は黄色い線の向こうで黙って聞いていた。
「訪問看護は、薬と体調の確認。居宅介護は、掃除や食事の支援です。買い物や通院には、移動支援を使えるようにします」
「毎日、誰かが来るの?」
澄江は、欠けた湯呑みへほうじ茶を注いだ。急須の中に茶葉を入れすぎたため、濃い茶色の湯から焦げたような匂いがする。佐久間は熱い湯呑みを両手で持ち、猫舌なので冷めてからいただきますと言った。
「毎日ではありません。伸一さんと相談して、必要な曜日と時間を決めます」
「来ない日に具合が悪くなったら、どうするの?」
「緊急連絡先を作ります。訪問看護ステーションと相談支援事業所、それから夜間に相談できる窓口も確認しておきます」
「夜中でも来てくれるの?」
「電話で状態を確認し、必要なら救急につなぎます。お母さん一人が駆けつけなくてもよい形を作ります」
澄江は、ほうじ茶の表面へ浮いた茶柱を箸で取った。自分が行かなくてもよいと言われると、胸の奥に空いた場所へ冷たい風が入るようだった。伸一が困ったとき、最初に呼ばれるのは母親でなければならないと思っていた。
「伸一さん。掃除や食事の支援について、希望はありますか」
佐久間が襖へ向かって尋ねると、しばらくして襖が少し開いた。伸一は黒いジャージを着て、黄色い線の内側へ座った。膝の上には、青いコップを載せている。
「知らない人が、一度に二人来るのは困る」
「分かりました。最初は一人ずつ来てもらいましょう」
「時間が変わるときは、前の日までに教えてほしい」
「急な変更もあるので、必ずとは約束できません。ただ、分かった時点ですぐお知らせするよう頼みます」
澄江は、伸一が佐久間へ自分の希望を話す姿を見つめた。息子は一人では何も決められないと思っていたが、具体的に尋ねられれば答えている。口を挟みたくなり、エプロンのポケットにある木製ボールを握った。
「食事は、毎日作ってもらえるの?」
十秒待ってから、澄江は尋ねた。佐久間は毎日とは限らないが、弁当の配達や簡単な調理の練習を組み合わせられると答えた。伸一は、卵焼きと味噌汁なら自分でも作ってみたいと言った。
「卵焼きなんて、あんたにできるの?」
言ってから、澄江は唇を噛んだ。伸一は青いコップを握り、視線を畳へ落とした。佐久間は二人の間に置かれた木製ボールを指で示した。
「今の言葉は、伸一さんがやってみる前に必要だったでしょうか」
「だって、火を使うのよ。やけどをしたら危ないでしょう」
「最初は支援者と一緒に作ればいいと思います。失敗しても、次に気をつける方法を考えられます」
伸一は青いコップから水を一口飲んだ。澄江は、息子が初めて卵を割ったとき、殻ごとボウルへ落としたことを思い出した。あれは三十年以上前のことで、今も同じように失敗すると決めつける理由にはならなかった。
「砂糖は、少し多い方がおいしいからね」
澄江が言うと、伸一は顔を上げた。
「僕は、甘くない方がいい」
「昔は甘いのが好きだったでしょう」
「今は、甘くない方がいい」
澄江はもう一度言い返しかけ、木製ボールを握った。十秒後、伸一の好みが変わっただけだと思い直した。息子のことなら何でも知っているつもりだったが、自分が知っているのは、小学生の伸一のままだった。
支援の計画は二週間ほどで整った。訪問看護は週三回、居宅介護は週二回から始めることになった。服薬は一包ずつ確認できる箱を使い、夜間の連絡先は赤い電話の絵の裏へ貼った。
けれども、住む部屋が見つからなかった。最初に訪ねた不動産店は、駅前の新しいビルの一階にあった。ガラスの扉には日当たり良好や即入居可能と書かれた紙が、隙間なく貼られていた。
澄江は毛玉のついた灰色のコートを着て、伸一の隣を歩いた。佐久間が一緒にいたため、伸一は店の中へ入ることができた。暖房の風には芳香剤の甘い匂いが混じり、壁の時計は秒針の音がしないものだった。
「家賃は生活保護の住宅扶助の範囲で探しています」
佐久間が伝えると、若い店員の笑顔が少し固くなった。店員はパソコンの画面を何度か動かし、先ほどまで空いていると言っていた部屋の資料を裏返した。机には、飴の入った小さな籠が置かれていた。
「申し訳ありません。こちらのお部屋は、先ほど申し込みが入ったようです」
「では、別の部屋をお願いします」
「この条件ですと、現在ご紹介できる物件はありません」
「表には、空室の紙がたくさん貼ってあるじゃない」
澄江が立ち上がると、椅子の脚が床を擦った。伸一は両耳を押さえ、肩を上げた。佐久間が澄江へ座るよう合図し、店員に確認を続けた。
「生活保護の利用が理由ですか」
「いえ、そういうわけではありません。あくまで大家さんの判断です」
「本人には精神障害がありますが、訪問看護と居宅介護が入ります。相談支援事業所も緊急時に対応します」
店員は資料から目を上げなかった。緊急連絡先が高齢の母親であることも難しいと言われ、申込書さえ渡されなかった。帰り際、澄江は籠の飴を一つ取ろうとして、伸ばした手を引っ込めた。
二軒目では、古い木造アパートを紹介された。駅から二十分以上歩き、風呂はなく、窓を開けると隣の家の壁が見えた。流し台の下から湿った木の匂いがし、畳の隅には黒い染みが広がっていた。
「ここなら、生活保護の方でも相談できます」
店員はそう言ったが、二階へ続く階段は急だった。伸一は階段の上から道路を見下ろし、手すりを強く握った。大きな道路を走るトラックの音が、薄い窓ガラスを震わせている。
「ここでは、眠れない」
「でも、ほかにないって言うのよ」
「母さん、音が大きい」
「夜になれば静かになるわよ。住んでみないと分からないでしょう」
伸一は青い扉のマグネットをポケットから取り出し、手の中へ隠した。それを見た佐久間が、今日は決めずに帰りましょうと言った。澄江は畳の染みをもう一度見てから、何も言わずに階段を下りた。
三軒目では、申込書を受け取ることができた。澄江は自分で書こうとしたが、緊急連絡先と連帯保証人の欄を間違えた。佐久間に読んでもらいながら書き直し、伸一は自分の名前だけをゆっくり記入した。
一週間後、白い封筒が届いた。澄江は台所の蛍光灯の下で封を切ったが、紙のどこに結果が書かれているのか分からない。大切そうな文字へ赤い線が引かれているだけで、その線まで黒い虫の列に見えた。
「伸一、これ、読める?」
青い扉は出ていなかったが、伸一は紙を見ただけで顔を背けた。澄江は文字の固まりを追い、頭の中が白くなった。翌日の訪問まで、書類を炊飯器の横へ伏せて置いた。
「保証会社の審査が通らなかったそうです」
佐久間が読み上げると、澄江は炊飯器の蓋を布巾で何度も拭いた。朝のご飯粒が一つこびりつき、拭いてもなかなか取れない。不承認という言葉が、冷えた台所へ落ちた。
「何が悪かったの?」
「理由は書かれていません」
「理由も言わないで、だめって決めるの?」
「保証会社は、詳しい審査内容を明らかにしないことが多いんです」
「直すところが分からなかったら、次も同じじゃない」
澄江は椅子の下に置かれた書類の袋を蹴った。これまで断られた物件の紙が床へ広がり、同じような黒い文字が重なった。佐久間は一枚ずつ拾い、折れた角を伸ばした。
「私がお金持ちなら、もっといい部屋を借りてやれるのに」
澄江は毛玉のついたカーディガンの袖で鼻を拭った。老齢基礎年金と生活保護を合わせても、家賃へ使える額は決まっている。伸一も障害基礎年金と生活保護で暮らしており、貯金はほとんどなかった。
「澄江さんが悪いから見つからないわけではありません」
「でも、母親でしょう。何とかするのが母親でしょう」
「できないことまで一人で背負うと、また二人とも倒れます」
佐久間は書類を鞄へ戻し、澄江の顔をまっすぐ見た。生活保護を利用していることも、伸一に障害があることも、澄江が文字を読むのが難しいことも、隠さずに受け入れる住まいを探すと告げた。今度は住まい探しを支援する団体にも相談すると言った。
「伸一さんを支えるのは、母親一人の仕事ではありません」
「でも、みんな帰っていくじゃない。夜になれば、ここには私と伸一しかいないのよ」
「帰っても、支援が消えるわけではありません。連絡すれば戻ってこられる仕組みを作るんです」
「電話番号だって、私は読めないのよ」
「だから赤い電話の絵を使います。押せばつながるように、一緒に設定しましょう」
その晩、夕食は白菜と豚肉を煮た鍋だった。澄江は味付けを濃くしすぎ、伸一は湯を足して食べた。以前なら文句を言われたと腹を立てていたが、澄江も伸一の真似をして湯を足した。
「薄くした方が、おいしいね」
「うん。今日はしょっぱかった」
「砂糖と塩を間違えなくてよかったわ」
「容器の色を変えた方がいい」
「今度、日野さんに頼んで、絵を貼ってもらおうか」
二人はそれ以上話さず、鍋に残った白菜を分けて食べた。食後、伸一は自分の茶碗だけを洗い、決められた場所へ伏せた。澄江は洗っていない自分の茶碗と鍋を流しへ残した。
夜十時を過ぎても、澄江は台所に立っていた。蛇口から一滴ずつ水が落ち、重なった茶碗へ小さな音を響かせる。冷たい流し台へ両手をつき、何とかしてやりたいという思いと、何ともできない現実の間で動けなくなった。
冷蔵庫の横には、赤い電話のマグネットがあった。その裏には佐久間と訪問看護ステーションの連絡先が貼られている。文字は読めなくても、赤い受話器の絵なら見つけられた。
「母さん」
振り返ると、伸一が黄色い線の向こうに立っていた。灰色の寝間着を着て、青いコップを両手で持っている。澄江は流し台から手を離した。
「まだ寝ないの?」
「洗い物が残ってるから」
「明日でもいい」
「そうね。明日、日野さんと一緒に洗うわ」
澄江は蛇口を強く閉めた。水滴の音が止まり、狭い台所が静かになった。伸一は自分の部屋へ戻る前に、赤い電話のマグネットを指で一度押した。
翌朝、佐久間へ電話をかけたのは澄江だった。赤い電話の絵を見ながら、登録してもらったボタンを押した。三度目の呼び出し音のあと、佐久間の声が聞こえた。
「昨日言っていた、住まいを探してくれるところへ連れていってください」
澄江は木製ボールを握らずに言った。庭の小菊には白い朝露がつき、閉ざされた玄関の扉の下から細い光が入っていた。外へ出るため、澄江は茶色い運動靴を履いた。




