第5話 ヤマアラシの血
第5話 ヤマアラシの血
家の中から怒鳴り声が消え、一か月が過ぎた。伸一は決めた時間に食卓へ来るようになり、薬も訪問看護師と一緒に袋を確認して飲んでいた。澄江は木製ボールを握る回数が減り、冷蔵庫の横にあるホワイトボードを見るだけで、息子の望んでいることが分かるようになった。
朝七時には緑の茶碗が貼られた。昼過ぎに青い扉が出ても、夕方になると外されることが多かった。赤い電話は一度も使われず、澄江は、このまま二人で暮らし続けられると思い始めた。
庭の秋桜は半分ほど散り、代わりに黄色い小菊が咲いていた。澄江は厚手の靴下を履き、薄茶色のカーディガンを羽織って洗濯物を干した。伸一の灰色のスウェットを広げると、袖口に小さな醤油の染みが残っていた。
「今度、染み抜きしなくちゃね」
誰に聞かせるでもなく言い、洗濯ばさみを二つ留めた。以前ならすぐに洗い直していたが、今日は日野が来る日ではなかった。自分で決めて勝手に触らない方がよいと考え、そのまま竿へ掛けた。
午前十時、訪問看護師と一緒に、伸一は薬を飲んだ。白い袋を開け、次に青い袋を開け、青いコップの水を三口に分けて飲む。飲み終わると、空の袋を四つ折りにして、小さな缶へ入れた。
「今日も順番どおりでしたね」
若い看護師が言うと、伸一はうなずいた。台所で聞いていた澄江は、以前なら「私が毎日教えたからよ」と口を挟んでいた。木製ボールには触れず、大根の皮を剥きながら黙っていた。
その日の夕方、澄江は鶏もも肉を冷蔵庫から出した。伸一が子どもの頃から好んでいた、鶏肉の照り焼きを作るためだった。肉の厚い部分へ包丁を入れ、醤油、砂糖、みりんを目分量で合わせた。
「今日は特別だから、砂糖を少し多くしよう」
特別な日ではなかった。ただ、一か月間、大きな騒ぎを起こさずに暮らせたことを、澄江は祝いたかった。伸一にそう言えば嫌がると思い、心の中だけで退院一か月のお祝いと決めた。
付け合わせには、千切りにしたキャベツと、庭で最後に採れた青じそを使った。味噌汁にはジャガイモと玉ネギを入れたが、煮ている途中でワカメもあったことを思い出し、ひとつかみ加えた。鍋の中は具でいっぱいになり、汁よりも煮物に近くなった。
「まあ、食べる味噌汁だと思えばいいわよね」
フライパンへ鶏肉を入れると、皮の焼ける音が台所へ広がった。甘い醤油だれを回しかけると、湯気と一緒に香ばしい匂いが立った。澄江は肉の表面についた艶のある焦げ目を見て、伸一が喜ぶ顔を思い浮かべた。
六時になっても、伸一は台所へ来なかった。冷蔵庫の横を見ると、ホワイトボードには青い扉が貼られている。澄江は鶏肉を皿へ盛りながら、眉を寄せた。
「今日くらい、すぐ食べればいいのに」
木製ボールは、エプロンではなく居間の棚に置いてあった。最近はなくても我慢できると思い、持ち歩かなくなっていた。鶏肉から立つ湯気を見ているうちに、冷めたら皮が固くなるという考えが頭から離れなくなった。
澄江は皿を持って、黄色い線の前まで行った。青い扉が出ているのだから、入ってはいけないことは分かっていた。それでも、食事を届けるだけなら世話であり、邪魔ではないと思った。
「伸一、できたてよ。今日は鶏肉の照り焼き」
返事はなかった。澄江は一度だけ待ったが、皿から落ちそうになったたれを親指で拭った。温かいうちに食べさせたいという考えが勝ち、黄色い線をまたいだ。
「置くだけだからね」
返事を待たずに襖を開けた。伸一は布団の上で膝を抱え、両耳を塞いでいた。机の上には鉛筆が五本並び、青いコップの隣に薬の袋が順番どおり置かれている。
「母さん、青を出した」
「分かってるわよ。でも、せっかく温かいんだから」
「入らないで」
「すぐ出るから。ここに置くだけ」
澄江が机へ近づくと、伸一は身体を後ろへ引いた。皿を置く場所には薬の袋があり、澄江はそれを端へ寄せようとした。伸一の腕が伸び、澄江の手首へぶつかった。
皿は畳へ落ちた。乾いた音を立てて二つに割れ、鶏肉と千切りキャベツが飛び散った。甘い醤油だれが畳へ染み込み、艶のある皮の上に白い破片が載った。
「何するのよ!」
澄江が一歩下がると、足の甲へ鋭い痛みが走った。割れた破片を踏み、薄い靴下が赤く染まっている。膝をつくと、醤油と血の匂いが混じって鼻へ入った。
「母さん、血」
伸一は耳から手を離した。しかし立ち上がることはできず、布団の隅へ身体を寄せた。澄江は傷口を押さえながら、息子をにらんだ。
「だから置くだけって言ったでしょう。どうして、こんなことになるのよ」
「出ていって」
「お母さんがけがをしたのよ!」
「出ていって!」
伸一は両手で頭を抱えた。喉から高い声が漏れ、肩が細かく震えている。澄江は言い返そうとしたが、畳へ落ちた青い扉のマグネットが目に入った。
黄色い線の内側まで、自分が入っていた。澄江は壁へ手をつき、血のついた足を引きずって廊下へ出た。襖を閉めると、中から鍵を掛けるような音がした。
翌朝、日野が訪ねてきた。澄江は紺色のジャージの裾を膝まで上げ、座布団の上へ足を載せていた。昨夜、自分で巻いた包帯は緩み、端が床まで垂れている。
「病院へ行った方がいい傷です」
「このくらい、つばをつけておけば治ります」
「つばはつけないでください。まず洗って、傷の中を確認します」
日野は古い包帯を外し、傷口を生理食塩水で洗った。冷たい液が触れるたび、澄江の足が動いた。新しいガーゼを当てながら、日野は昨夜のことを一つずつ尋ねた。
伸一は自室から出てこなかった。壁へ向かって座り、膝に青いコップを抱えている。醤油の染みが残った畳には、拾いきれなかった細かな破片が朝の光を反していた。
「私は、ご飯を持っていっただけです。伸一の好きな照り焼きだったのよ」
「青い扉は出ていましたか」
「出ていたけど、冷めたらおいしくないでしょう」
「お母さんは、青い扉より、温かい照り焼きを優先したんですね」
澄江は包帯を巻く日野の手を見つめた。責められているように聞こえ、膝の上へ置いた木製ボールを強く握った。十秒数えても、言いたいことは消えなかった。
「親が子どもに温かい物を食べさせて、何が悪いんですか」
「悪いことをしたかったのではないと分かっています。でも、伸一さんは一人にしてほしいと伝えていました」
「じゃあ、私は冷たい母親になればいいの?」
日野はガーゼを留め、救急箱の蓋を閉じた。窓の外では、黄色い小菊の上に一匹の蜂が止まっている。澄江は蜂が怖かったが、立って追い払うこともできなかった。
「ヤマアラシは、寒いと互いに近づくそうです。でも近づきすぎると、相手の針が刺さります。痛くて離れすぎれば、今度は寒さに耐えられません」
「それじゃ、どうすればいいの」
「針の刺さらない距離を見つけるんです」
澄江は包帯の巻かれた足を引いた。家族なのだから、同じ家にいて、同じ食卓で温かい物を食べるのが普通だと思っていた。離れて暮らすことなど、息子を捨てる人がすることだと考えていた。
「別々に暮らす方法もあります」
日野が静かに言うと、澄江は首を振った。エプロンのポケットを探したが、昨日は木製ボールを入れていなかったことを思い出した。代わりに膝の上のボールを両手で包んだ。
「そんなこと、できません。この子は一人じゃ何もできないんです」
「全部を一人でする必要はありません。訪問看護や生活支援を使いながら、伸一さんが安心して暮らせる場所を探せます」
「家族をばらばらにするのが支援なの?」
「同じ家で傷つけ合わないために、家を分けることも支援です」
澄江は何度も首を振った。包帯の下で傷が脈打ち、昨夜の醤油の匂いが畳からまだ上がっている。襖の向こうで、衣擦れの音がした。
「母さんが嫌いなんじゃない」
伸一のかすれた声が聞こえた。澄江は返事をせず、木製ボールを握った。襖は閉じたままだったが、伸一は一言ずつ、間を空けて話した。
「母さんが入ってくると、音も匂いも言葉も、一度に来るんだ。頭の中が壊れるんだ」
「お母さんは、ご飯を持っていっただけよ」
言い終わった瞬間、木製ボールが手の中で軋んだ。澄江は十まで数えなかった。今の言葉は必要ではなかったと、口に出してから分かった。
「母さんが悪いって言いたいんじゃない。近くにいると、止めてって言っても止まらないから、怖い」
澄江は畳に残った血を見た。息子と自分には同じ血が流れていると、何度も考えてきた。同じ血が流れているから離れてはいけないと思っていたが、近づけば、その血を床へ落とすこともある。
「伸一さんは、別の場所で暮らすことを考えられますか」
日野が尋ねると、襖の向こうは静かになった。冷蔵庫のモーターが動き始め、外ではごみ収集車の音楽が流れている。しばらくして、伸一が短く答えた。
「考えたい」
澄江の指から、木製ボールが落ちた。床を転がり、黄色い線の手前で止まった。拾おうと身を乗り出したが、足の傷が痛み、手は届かなかった。
襖が少し開いた。伸一の手だけが伸び、木製ボールを拾った。黄色い線は越えず、線のこちら側へそっと置いた。
「母さん、これ」
「ありがとう」
伸一の手はすぐに引っ込んだ。澄江も襖を開けず、線の手前から木製ボールを拾った。近づけなくても、受け取れる物があることを知った。
日野は次に来るとき、住まいの支援をする人を連れてくると約束した。澄江は、まだ別々に暮らすとは答えられなかった。それでも、話を聞くだけならよいと、小さくうなずいた。
庭では、黄色い小菊が風に押され、隣の花へ触れては離れていた。澄江は包帯の巻かれた足を床へ下ろし、襖から一歩離れた椅子へ座った。離れることも世話の一つなのだと、初めて考えた。




