第4話 文字のないホワイトボード
第4話 文字のないホワイトボード
翌日の午後、日野結以は黒い鞄から、手のひらへ収まる木製のボールを取り出した。明るい茶色で、表面はすべすべに磨かれている。澄江は白地に赤い小花を散らしたブラウスを着て、台所の椅子から不思議そうに手を伸ばした。
「これ、肩でもたたくの?」
「違います。お母さんが何か言いたくなったときに握るものです」
「こんな物を握ったら、言いたいことを忘れちゃうわよ」
「忘れてしまう言葉なら、急いで伝えなくてもよい言葉かもしれません」
澄江は納得できず、木製ボールを鼻へ近づけた。新しい箪笥を開けたときのような、乾いた木の匂いがする。投げたら窓ガラスが割れそうだと言うと、日野は困ったように笑った。
「投げるための物ではありませんよ。何か言いたくなったら、これを十秒間握ってください」
「十秒も黙るの?」
「まずは十秒です。十秒たっても必要だと思った言葉だけを、私がいるときに伝えましょう」
澄江は口を尖らせた。十秒あれば、伸一が薬を飲み忘れるかもしれないし、鍋の火を消し忘れるかもしれない。けれど黄色い線を越えなかった夜、伸一が自分から風呂へ入ったことを思い出し、ボールをエプロンのポケットへ入れた。
日野が次に取り出したのは、小さなホワイトボードだった。冷蔵庫の横へ掛けられる大きさで、文字は一つも書かれていない。代わりに、緑色の茶碗、青い扉、赤い電話が描かれた丸いマグネットが並んでいた。
「字がないけど、これで何が分かるの?」
「緑の茶碗は食事です。青い扉は一人にしてほしい、赤い電話は助けが必要という意味です」
「この緑の絵、お風呂かと思った。湯気が出てるじゃない」
「では、湯気を消しましょうか」
日野が消えないペンで描かれた湯気を指でこすると、澄江は慌てて止めた。温かいご飯の方がおいしそうだから、このままでいいと言う。襖の向こうで、小さく息を漏らすような音が聞こえた。
「伸一さん、今のは笑いましたか」
日野が尋ねると、少し間を置いて返事があった。
「笑ってない」
「そうですか。では、この三つの絵で分かりますか」
「分かる。でも、赤い電話は助けを呼ぶときだけにして」
「分かりました。話したくないときは、青い扉ですね」
澄江はホワイトボードを冷蔵庫の横へ掛けた。そこには去年の水道料金の紙と、使いかけの輪ゴムが画びょうで留めてあった。料金の数字は読めなかったが、赤い棒が前の月より長かったことだけは覚えている。
日野は三つのマグネットを一度外し、澄江と伸一に使い方を練習させた。最初に緑の茶碗を貼ると、襖が少し開いた。伸一は紺色の長袖シャツを着て、黄色い線の向こうに立っていた。
「これは食事。食べたいときか、食べられそうなとき」
伸一が説明すると、澄江は何度もうなずいた。続いて青い扉を貼り、一人にしてほしいという意味だと確認した。赤い電話が貼られたときだけは、澄江がすぐに様子を見てもよいことになった。
「赤が出たら、襖を開けてもいいのね」
「最初に声をかけてください。返事ができない場合は入ってかまいません」
「救急車も呼ぶの?」
「必要かどうか、まず私たちへ連絡してください。ただし、意識がないときや命に関わるときは、すぐ救急車です」
澄江は分かったと言いながら、赤い電話を何度も指でなぞった。三つも約束があると、途中で混ざりそうだった。日野は澄江に同じ説明をさせ、間違えたところだけを短く直した。
「緑がご飯。青が入っちゃだめ。赤が助けて。これなら覚えられるわ」
「青は『入っちゃだめ』ではありません。『今は一人でいたい』です」
「同じじゃないの?」
「伸一さんを拒む言葉ではなく、伸一さんが自分を守るための言葉です」
日野が帰ったあと、澄江は夕食の支度を始めた。献立は油揚げと大根の味噌汁、サバの塩焼き、それに昨日煮崩れたカボチャだった。窓を開けると、庭の隅から金木犀の甘い匂いが入り、魚を焼く煙と混じった。
夕方六時になると、ホワイトボードへ青い扉が貼られた。伸一がいつ部屋から出てきたのか、澄江には分からなかった。青い扉を見た途端、せっかく味噌汁を温めているのに、と口から出そうになった。
「食べないと身体に悪いでしょう。せっかく……」
そこまで言って、澄江はエプロンのポケットへ手を入れた。木製ボールを握ると、丸い面が汗ばんだ手のひらへ食い込んだ。一、二、三と声に出さずに数えたが、五を過ぎたところで今が六なのか七なのか分からなくなった。
「日野さん、十秒は長すぎるわよ」
誰もいない台所で文句を言い、最初から数え直した。今度は壁時計の秒針に合わせて、十まで数えた。冷蔵庫のモーターが止まり、味噌汁の鍋が小さく沸いた。
十秒後にも、温かいうちに食べてほしいという思いは残っていた。けれど、それを今すぐ伸一へ伝える必要があるかと考えると、澄江の指から少しずつ力が抜けた。鍋の火を止め、味噌汁へ蓋をした。
「青は、お母さんが嫌いという意味ではありません」
日野の言葉を口に出してみた。今までの澄江なら、襖を開けて布団を剥ぎ、サバが冷めると何度も言っていただろう。今日は自分の分だけ皿へ取り、先に食べることにした。
サバの皮は少し焦げていた。箸を入れると白い身から湯気が上がり、大根の味噌汁には油揚げの甘みが出ていた。カボチャは形が崩れていたが、醤油が染みて、昨日より味がなじんでいた。
「焦げた皮がおいしいのにね」
澄江は以前なら伸一へ話していたことを、一人でつぶやいた。テレビでは天気予報が始まり、明日の朝は冷え込むと言っている。庭の洗濯物を取り込み忘れたことに気づいたが、食べ終わるまではそのままにした。
一時間ほどたった頃、冷蔵庫の横で小さな音がした。青い扉が外され、代わりに緑の茶碗が貼られている。伸一は無言で台所へ入り、鍋の蓋を開けた。
味噌汁は冷めかけていた。伸一は自分で小鍋へ一杯分を移し、弱火にかけた。澄江は「火を強くした方が早い」と言いそうになり、木製ボールへ手を伸ばした。
十秒数える前に、言う必要がないと分かった。澄江は七味唐辛子の瓶を手の届く場所へ置いた。賞味期限の切れた海苔の瓶が邪魔だったため、それだけを脇へ動かした。
「七味、ここね」
伸一は小さくうなずいた。味噌汁を椀へ注ぎ、緑色の茶碗へご飯をよそった。サバを温め直さず、冷たいまま箸で少しずつ食べ始めた。
澄江は黙っていると落ち着かなかった。今日の日野の話や、金木犀が咲いたことや、明日は寒くなることを伝えたかった。両手で木製ボールを転がしながら、食卓の向かい側へ座った。
「母さん」
伸一は味噌汁から目を上げなかった。澄江はすぐに返事をせず、息子が次の言葉を出すまで待った。壁時計の秒針が三回鳴った。
「さっき、入ってこなかったね」
「青い扉だったから」
「うん」
「味噌汁、冷めちゃったけど」
「自分で温められた」
伸一は七味を二度振り、瓶を元の場所へ戻した。それだけ言うと、また味噌汁を飲み始めた。澄江はもっと何か返したくなったが、今度は木製ボールを握らなくても待つことができた。
食事を終えた伸一は、緑の茶碗のマグネットを外した。少し考えてから、何も貼られていないホワイトボードの隅へ戻した。澄江はその手元を見ながら、空になった味噌汁の椀を重ねた。
庭へ洗濯物を取りに出ると、タオルは夜露を含んで冷たくなっていた。金木犀の小さな橙色の花が、澄江の肩へ一つ落ちた。部屋へ戻った澄江は、その花を木製ボールの隣へ置いた。
ホワイトボードには、もう何の絵も貼られていなかった。それは拒まれている印でも、助けを求める印でもなかった。澄江は何もない白い板を確かめ、伸一の襖を開けずに自分の布団へ入った。




