第3話 話さない約束
第3話 話さない約束
主治医は、伸一の状態を自宅だけで支えるのは難しいと判断した。退院してからも伸一は食事の時間以外は部屋にこもり、夜中に何度も薬の袋を数えていた。澄江も襖の向こうで物音がするたびに目を覚まし、薄い掛け布団を握ったまま朝を迎えた。
特別訪問看護指示書が出され、しばらくの間、看護師が毎日家へ来ることになった。澄江は電話で説明を受けたが、「特別」と「指示書」という言葉だけが頭に残った。伸一がよほど悪いと思われたのかと考え、受話器を置いたあと、冷めた麦茶を一気に飲んだ。
数日後、精神科認定看護師の日野結以が訪ねてきた。紺色のズボンに淡い桃色の上着を着て、肩には大きな黒い鞄を掛けている。玄関脇の庭では秋桜が五輪に増え、細い花びらが風に揺れていた。
「田所さんのお宅ですね。訪問看護の日野です」
澄江は慌てて玄関の洗剤の袋を足で押した。廊下にはトイレットペーパーと古新聞が積まれ、スリッパを出す場所もない。日野は荷物をまたがず、置かれている場所を確かめながら、ゆっくり中へ入った。
「散らかっていて、ごめんなさいね。昨日、片づけようと思ったんだけど、洗濯をしていたら忘れちゃって」
澄江は来客用の湯呑みを探したが見つからず、透明なコップへ麦茶を注いだ。冷蔵庫から出したばかりなのに、話しているうちに氷はすべて溶けた。日野は急かさず、台所の椅子へ腰を下ろした。
「まず、お母さんのお話を聞かせてください」
その一言を聞くと、澄江の口から言葉があふれた。伸一が十三歳で学校へ行けなくなったこと、薬を飲ませるために毎朝起こしてきたこと、夜中に外へ出ようとした息子を玄関で止めたことを、休まず話した。途中で鍋を火にかけたままだったことを思い出し、台所へ走って戻った。
鍋の中では、昼に食べる予定のカボチャが煮崩れていた。甘い醤油の匂いが部屋へ広がり、鍋底は少し焦げている。澄江は焦げていない部分だけを小鉢へ移しながら、なおも話し続けた。
「私が見ていないと、薬を忘れるんです。お風呂にも入らないし、ご飯だって食べません。あの子の父親はずっと前に出ていったから、私一人で四十年近く見てきたんですよ」
日野は遮らず、ときどき短くうなずいた。伸一の部屋の襖は閉ざされたままで、中からは物音一つ聞こえない。澄江は聞いてもらえるうれしさで身を乗り出し、膝に載せたエプロンを何度も握った。
「お母さんが、長い間頑張ってこられたことは分かりました」
日野は冷めた麦茶へ口をつけた。澄江は褒められたと思い、背筋を伸ばした。ところが日野は空のコップを置くと、台所の水切り籠を見た。
「お母さん。伸一さんが青いコップを使う理由をご存じですか」
水切り籠には、青、白、赤の三つのコップが伏せてあった。青いコップだけは縁が欠け、表面に細かな傷がついている。澄江は長く使っているから捨てようと何度も言ったが、伸一は聞かなかった。
「さあ。昔から青が好きだからでしょう」
「伸一さんに聞いたことはありますか」
「聞かなくても分かりますよ。あの子は青いものばかり選ぶから」
「では、薬を飲む順番はどうでしょう」
澄江は机の上に置かれた薬の袋を見た。朝、昼、夜の袋は、新しく用意した透明なケースへ入れてある。今度は勝手に籠へ移さず、伸一が置いたままにしていた。
「薬は飲めば同じじゃないの。順番より、忘れないことの方が大事でしょう」
日野は薬へ手を伸ばさなかった。袋の文字を読もうともせず、襖の方へ顔を向けた。声を少し落とし、伸一にも聞こえる速さで話した。
「伸一さんにとっては、色にも順番にも意味があるのだと思います。いつもと同じ物を、同じ順番で使うことで、自分が今どこにいるのか確かめているのかもしれません」
「コップ一つで、そんな大げさな」
「私たちにはコップ一つでも、伸一さんには足元を支える物かもしれません。それを急に動かされると、床までなくなったように感じることがあります」
澄江は言い返そうとして口を開いた。机を明るい場所へ動かしたのは、息子の目を心配したからだ。薬を籠へ入れたのも、散らばっていたものを片づけただけだった。
けれど襖の下には、細長い影が見えていた。伸一が向こう側へ座っていると分かり、澄江は膝の上で両手を組み直した。指の関節が白くなるまで握ってから、声を小さくした。
「でも、親なんだから、悪くしようと思ってやったわけじゃありません」
「分かっています。お母さんが悪いと言っているのではありません」
「じゃあ、どうすればいいんですか。何か言えば怒るし、黙っていたら何もしないし、私に死ぬまで見張っていろっていうんですか」
日野はすぐには答えなかった。冷蔵庫のモーター音が部屋を満たし、庭から物干し竿の揺れる音が聞こえた。干したままの白いタオルが窓の外で裏返り、洗濯ばさみが二つ落ちた。
「これからしばらく、緊急のとき以外は、お二人だけで話し合わないようにしましょう」
澄江は椅子から立ち上がりかけた。親子なのに話すなと言われたことが、家から追い出されたように聞こえた。テーブルへ手をつくと、食べかけの煎餅の袋が肘に当たり、乾いた音を立てた。
「親子なのに、話すなっていうんですか」
「言葉をなくすのではありません。届く形へ変えるんです」
「届く形って、何ですか」
「声をかける前に許可を取ります。一度に一つだけ伝えます。返事がないときは追いかけず、私が来たときに一緒に確認します」
日野は鞄から黄色い養生テープを取り出した。澄江に見せてから、伸一の部屋の襖へ向かって声をかけた。襖を開けず、線を貼ってよいか尋ねた。
「伸一さん。お部屋の前に、入ってよい場所と、止まる場所が分かる線を貼ってもいいですか」
長い時間が過ぎた。澄江は待ちきれず、「返事くらいしなさい」と言いかけたが、日野が唇の前へ人さし指を立てた。やがて襖の向こうから、かすれた声が聞こえた。
「黄色なら、いい」
日野は襖から靴一足分離れた廊下へ、黄色いテープを一本貼った。曲がらないように端からゆっくり押さえ、澄江にも踏まないよう頼んだ。線の向こうへ入るときは、伸一の許可を得ることが新しい約束になった。
「こんな線一本で、変わるんですか」
「すぐには変わりません。でも、ここでお母さんが止まると、伸一さんは自分の言葉が守られたと確認できます」
「私の言葉は、誰が守ってくれるんですか」
「私が聞きます。伸一さんに伝える必要があることは、私と一緒に整理しましょう」
その日の夕方、澄江は一人でアジの開きを焼いた。魚焼き網から白い煙が上がり、狭い台所に焦げた皮の匂いがこもった。大根おろしを作るつもりだったが、大根が冷蔵庫の奥で柔らかくなっていたため、代わりに庭の青じそを二枚刻んだ。
「伸一、ご飯……」
呼びかけたところで、澄江は口を閉じた。食事を知らせることまで禁止されたわけではないが、何度も呼ぶのはやめると決めていた。襖から離れた場所で、一度だけ声をかけた。
「アジが焼けました。食べるなら、台所にあります」
返事はなかった。澄江は自分の分だけ先に食べ、残ったアジへラップを掛けた。骨の間に残った身を箸でほじりながら、伸一が幼い頃、魚の皮だけを欲しがったことを思い出した。
夜九時を過ぎると、澄江は伸一に風呂の順番を伝えたくなった。給湯器の調子が悪く、時間がたつと湯がぬるくなる。いつもなら襖を開け、「先に入りなさい」と布団まで揺すっていた。
澄江は襖の前まで行った。黄色い線を見ても、足は止まりきらず、爪先が少しだけテープへ重なった。胸の内側が焼けるように熱くなり、言葉をのみ込むと喉まで痛くなった。
「何も言わなかったら、お湯が冷めちゃうじゃない」
独り言を漏らしながら、澄江は足を引いた。襖の向こうで伸一が寝返りを打つ音がしたが、柱へ頭を打つ音はしなかった。澄江は台所へ戻り、小さな紙へ風呂の絵を描いた。
湯気の出ている四角い浴槽と、九時半を示すつもりの時計を描いた。数字は曲がり、長い針と短い針も同じ長さになった。それでも紙を黄色い線の手前へ置き、襖には触れなかった。
しばらくすると、襖が五センチほど開いた。灰色のスウェットを着た伸一の手が伸び、紙を拾った。澄江は台所から見ていたが、声をかけずに麦茶を一口飲んだ。
「九時半?」
襖の向こうから、伸一が尋ねた。澄江はコップを両手で持ち、すぐに長い説明をしそうになる口を閉じた。一度に一つだけ伝えるという日野の言葉を思い出した。
「そう。九時半に入れるよ」
「分かった」
伸一の返事は、それだけだった。十分後、襖が開き、着替えを抱えた伸一が黄色い線をまたいだ。青いコップを持つ手は震えておらず、澄江の横を通って風呂場へ向かった。
澄江は背中を追いかけなかった。風呂場の戸が閉まり、やがてシャワーの音が聞こえた。食卓には食べ終えたアジの骨と、二人分の冷めた麦茶が残っていた。
庭の秋桜は暗くて見えなかった。それでも開いた窓から、湿った土と青じその匂いが入ってきた。澄江は黄色い線の手前に立ち、自分の足がきちんとこちら側へ収まっていることを確かめた。




