第2話 機械の声
第2話 機械の声
伸一は一命を取り留め、五日後に退院した。病院から戻った伸一は、灰色のスウェットに着替えると、黒い靴を玄関の線へきちんと合わせた。澄江の茶色い運動靴も揃え直したが、母親の顔は見なかった。
澄江は退院祝いに、卵を二つ使った厚焼き卵を作った。砂糖を少し多めに入れ、焦げないように弱火で何度も巻いた。伸一が小学生だった頃、遠足の弁当に入れると、最後まで残してから大事そうに食べていた卵焼きだった。
「伸一、ご飯よ。今日は厚焼き卵にしたからね」
襖の向こうから返事はなかった。食卓には厚焼き卵のほかに、豆腐とワカメの味噌汁、昨日の残りのキュウリの浅漬けを並べてある。澄江は黄色い花柄のエプロンを外さないまま、伸一の席を見つめた。
「卵を二つも使ったのよ。物価が上がって、一パック二百八十円もしたんだから」
しばらく待っても、襖は開かなかった。味噌汁の表面に薄い膜が張り、厚焼き卵の甘い匂いも弱くなっていった。壁時計の秒針が、誰もいない席へ向かって音を刻んでいるように聞こえた。
澄江は伸一のためなら何でもしてきたつもりだった。薬を忘れそうなら声をかけ、昼まで眠っていれば布団を剥いで起こした。外へ出ない日はカーテンを開け、食欲がないと言われれば、好物のカレーを作った。
以前、伸一が三日続けて風呂へ入らなかったときには、着替えを枕元へ置いたこともある。髪が伸びれば床屋へ行くように言い、爪が長ければ爪切りを手渡した。母親なのだから当然だと思っていたし、伸一も本当は助かっていると思っていた。
「放っておいたら、何もしないじゃない。お母さんが言わなきゃ、薬だって忘れるでしょう」
澄江が襖へ向かって言うと、中から布団の擦れる音がした。それ以上の返事はなく、澄江は味噌汁の椀を持ち上げた。冷めた汁は塩辛く、豆腐は舌の上で崩れた。
それなのに、澄江が近づくほど、伸一は耳を塞ぐようになった。朝起こせば布団へ潜り、カーテンを開ければ顔へ枕を押しつけた。机を移した日には柱へ頭を打ちつけ、その夜、決められた量を超える薬を飲んだ。
澄江は空になった薬の袋を思い出し、味噌汁の椀を置いた。退院するとき、医師から薬の管理方法について説明されたが、半分も理解できなかった。長い説明を聞いているうちに、最初に言われたことが頭から抜けてしまった。
「私は、あの子を助けていたんじゃないの」
答える者はいなかった。流し台には朝に使った皿が二枚残り、その上へ小さなハエが一匹止まっていた。澄江は追い払おうとして手を上げたが、途中でやめた。
食後、澄江は居間の隅にある古いパソコンの電源を入れた。白い本体には茶色い染みがあり、キーボードの「あ」と「S」の文字が薄くなっている。電源を押してから起動するまでに時間がかかるため、澄江は庭から洗濯物を取り込んだ。
日当たりの悪い庭では、細い秋桜が三輪に増えていた。澄江は伸一の灰色の靴下と、自分の薄紫色の肌着を物干し竿から外した。靴下は左右を揃えて畳んだが、ほかの洗濯物は丸めて籠へ押し込んだ。
部屋へ戻ると、パソコンの画面が青白く光っていた。澄江は眼鏡を掛けたが、並んでいる文字は読めなかった。以前、訪問看護師に教えてもらった音声入力の印を探し、何度も違う場所を押した。
「発達障害、家族、話が通じない」
画面には「発達商品、家族、鼻が通じない」と表示された。機械の声が同じ言葉を読み上げたため、澄江は眉間へ皺を寄せた。鼻の話などしていないと、マウスを握り直した。
「違う。発達障害。家族。話が通じない」
今度は正しい言葉が表示された。検索結果を読み上げる機能を使うと、抑揚のない女の声が流れ始めた。発達障害のある本人と家族との間では、同じ出来事でも受け取り方が異なり、意思が通じないまま双方が疲れ果てることがあると、機械は淡々と読み上げた。
「双方って、二人ともってこと?」
澄江が尋ねても、機械は決められた文章を読み続けた。本人の意思を確かめないまま行う世話は、相手にとって強い負担になる場合があるという。予定や物の位置を急に変えることも、混乱を大きくすることがあると告げた。
澄江は電源を切ろうとした。マウスへ伸ばした指が、途中で止まった。机を動かした日の伸一の声が、耳の奥へ戻ってきた。
「戻して。今すぐ、元に戻して」
あのとき伸一は、何度も同じことを言っていた。それでも澄江は腰が痛かったことや、部屋を明るくしたかったことばかり考えていた。なぜ元の場所でなければならないのか、一度も尋ねなかった。
機械の声は、さらに文章を読み上げた。相手が困っているときには、すぐに触れたり大声で制止したりせず、刺激を減らして落ち着くまで待つ方法があるという。短い言葉で一つずつ確認し、選べるようにすることも大切だと続けた。
「待つだけでいいの? 何もしなかったら、母親じゃないでしょう」
機械は答えなかった。次の項目へ進み、相談できる医療機関や福祉窓口の説明を始めた。聞き慣れない言葉が続いたが、澄江は電源を切らなかった。
守っているつもりで、伸一が守ってきた順番を何度も壊していた。眠っている伸一を起こし、勝手にカーテンを開け、返事を待たずに部屋へ入った。世話をしている自分は正しいのだから、伸一も従うべきだと思っていた。
「私は、あの子に何をしてきたの」
機械の女は、気持ちを込めずに相談窓口の電話番号を読んでいた。澄江は数字を紙へ書こうとしたが、途中で順番が分からなくなった。レシートの裏に三つだけ数字を書き、赤い丸で囲んだ。
食卓へ戻ると、厚焼き卵はすっかり冷えていた。澄江は一切れを口へ入れ、ほとんど噛まずにのみ込んだ。甘いはずの卵が、古い油の味に感じられた。
「伸一、卵焼き、ここへ置いておくね」
返事はなかった。澄江は皿を持って襖の前まで行き、いつもの癖で手を掛けようとした。けれど指先が襖へ触れる前に、機械の声が読み上げた「本人の意思を確かめる」という言葉を思い出した。
「入ってもいい?」
しばらくして、襖の向こうから小さな声が返ってきた。
「今は、だめ」
澄江の手は、宙に浮いたまま止まった。いつもなら「ご飯くらい食べなさい」と襖を開けていた。皿を持つ手が震え、卵焼きの黄色い切り口が少し崩れた。
「分かった。台所に置いておくね。食べたくなったら食べて」
澄江は皿を食卓へ戻した。冷えた味噌汁には蓋をし、伸一の茶碗へラップを掛けた。何もしていないようで落ち着かなかったが、その夜、澄江は襖を開けなかった。
午後十一時を過ぎた頃、襖がわずかに動いた。伸一は足音を立てずに台所へ入り、食卓の皿を持ち上げた。澄江は布団の中で気づいていたが、目を閉じたまま声をかけなかった。
翌朝、食卓には空になった皿が置かれていた。厚焼き卵は一切れも残っておらず、皿の右側には箸がきちんと揃えてある。庭の秋桜には朝露がつき、細い茎の先で、三輪とも別々の方向を向いていた。




