第1話 散らかった部屋、揃えられた靴
第1話 散らかった部屋、揃えられた靴
田所澄江の家では、物がなくなるのではなく、いつの間にか別の場所へ移動していた。読みかけの新聞は炊飯器の横にあり、片方だけの靴下は座布団の下から出てきた。特売日に買い込んだ洗剤は流し台の下へ入りきらず、白い袋に入ったまま廊下へ積まれている。九月になっても蒸し暑く、開けた窓から入る風は、台所に残った朝の味噌汁の匂いを少し動かすだけだった。
澄江は薄紫色の七分袖に、細かな花柄のエプロンを重ねていた。庭の隅では、こぼれ種から育った秋桜が二輪だけ咲いている。日当たりの悪い庭で茎は細く曲がっていたが、澄江は洗濯物を干すたびに、指でそっと花の向きを直した。
「お日様の方を向きなさい。少しでも明るい方がいいからね」
家の中で、きれいに整っている場所は玄関だけだった。二足の靴が、つま先まで定規で測ったように揃えられている。茶色い運動靴が澄江のもので、その隣の黒い靴が、四十九歳になる息子の伸一のものだった。
伸一は毎朝、靴箱の線に踵を合わせてから外へ出た。帰宅すると上着を壁の同じ釘へ掛け、洗面所で手を二度洗い、青いコップで水を飲む。薬を飲む順番も決まっており、朝は白、昼は黄色、夜は白と青の袋だった。どれか一つでも順番が変わると、喉の奥が狭くなり、頭の中で警報が鳴り続けた。
「伸一、お昼は焼きそばでいい?」
台所から澄江が呼ぶと、伸一は六畳間の机に鉛筆を並べながら返事をした。
「昨日も麺だった」
「昨日はラーメン。今日は焼きそばよ」
「どっちも麺だよ」
澄江は冷蔵庫を開け、しなびたキャベツと半分残ったニンジンを取り出した。卵は一個しかなく、賞味期限は昨日までだった。捨てるのは惜しいので、殻を割って匂いを確かめると、フライパンへ落とした。
「文句を言う人には、卵を半分しかあげません」
「卵を半分にするのは難しいと思う」
「じゃあ、お母さんが黄身。伸一が白身ね」
「そういう意味じゃないよ」
油の跳ねる音に混じって、伸一の小さな笑い声が聞こえた。澄江は安心してキャベツを多めに入れ、二人分の焼きそばを作った。伸一は紅しょうがを皿の右上へ置き、麺を三口食べるごとに水を一口飲んだ。
午後、伸一が食パンを買いに出かけると、澄江は息子の部屋へ入った。机の上には削った鉛筆が五本、同じ方向を向いて並んでいた。薬の袋は壁際に積まれ、窓から離れた机の手元は、昼間なのに薄暗かった。
澄江は庭の秋桜を思い出した。あの花でさえ、細い茎を伸ばして明るい方を向こうとしている。伸一にも、少しくらい日の当たる場所へ座らせてやりたいと思った。
「この机、窓際の方がいいわよね。冬になったら暖かいし」
返事をする者はいなかった。澄江は一人で決め、床に積まれた古い雑誌を足で脇へ寄せた。机を持ち上げようとしたが腰が痛み、結局、畳の上を引きずって窓際まで動かした。
ギギッという音が部屋に響いた。机の脚が畳に細い傷をつけたが、澄江は気づかなかった。積まれていた薬の袋も、百円ショップで買った黄色い籠へまとめた。
「ほら、すっきりした。伸一も喜ぶわ」
澄江は額の汗をエプロンで拭いた。窓辺へ移った机には、庭から入る弱い光が落ちている。鉛筆を花瓶へ立て、仕上げに小さな卓上時計の向きを直した。
伸一が帰ってきたのは、それから二十分ほど後だった。玄関で靴を揃え、いつもの釘へ上着を掛けてから、自分の部屋へ向かった。買ってきた食パンの袋には、スーパーの赤い値引きシールが貼られていた。
部屋の入口で、伸一の足が止まった。右手から食パンが落ち、柔らかなパンが袋の中で潰れた。机がない。鉛筆がない。薬の袋も、決められた順番に並んでいない。
「お母さん」
台所で麦茶を飲んでいた澄江は、明るい声で答えた。
「見た? 机を窓際へ動かしたの。明るくなったでしょう」
「どうして動かした」
伸一の声が低くなった。鼻から息を吸うたびに肩が上がり、両手の爪が腕へ食い込んでいる。それでも澄江には、なぜ息子がそんな顔をするのか分からなかった。
「暗かったからよ。あんたのためにやったんじゃない」
「戻して」
「せっかく腰を痛くして動かしたのよ」
「今すぐ戻して。薬も元に戻して」
澄江の胸に、朝から片づけた洗濯物や、昼に作った焼きそばまで浮かんだ。伸一のためにしていることは、机の移動だけではない。食事を作り、薬を確認し、眠れない夜には隣の部屋で息子が起きている音を聞いていた。
「そんな言い方をするなら、自分でやりなさい!」
伸一は耳を塞いだ。冷蔵庫の低い音も、外を走る自転車のベルも、澄江の声も、すべてが一度に頭へ流れ込んできた。息を吐く場所が見つからず、伸一は柱へ額を打ちつけた。
一度目の音で、卓上時計が揺れた。二度目の音で、澄江の手から麦茶のコップが落ちた。畳へこぼれた麦茶から、焦げた大麦の匂いが立った。
「伸一、やめなさい!」
澄江が腕をつかむと、伸一は獣のような声を上げて振り払った。黄色い籠を引き寄せ、薬の袋を畳へ広げる。白、青、黄色の袋を何度も並べ直すが、指が震えて順番を作れなかった。
「違う。ここじゃない。これじゃ飲めない」
「同じ薬でしょう。袋が変わったわけじゃないのよ」
「違うんだよ!」
倒れたコップから麦茶が薬の袋へ近づいていった。澄江は慌てて古いタオルを押し当てたが、どの薬が今日の分なのか分からない。袋に書かれた文字は、澄江の目には黒い線の固まりにしか見えなかった。
救急車が到着したとき、玄関の靴は崩れたままだった。救急隊員の赤い靴が伸一の黒い靴へ当たり、片方が壁際まで飛んだ。澄江は直そうとしたが、担架の上で震える息子を見て、そのまま救急車へ乗り込んだ。
病院の待合室には、消毒薬と自動販売機のコーヒーの匂いが混じっていた。冷房が強く、薄紫色の服を着た澄江の腕に細かな鳥肌が立っている。受付で渡された問診票には、小さな文字が隙間なく並んでいた。
「こちらに、お名前と症状を書いてください」
若い受付の女性は、鉛筆を添えて問診票を差し出した。澄江は眼鏡を掛け、紙を近づけてから遠ざけた。文字は小さな虫のように動き、行と行が重なって見えた。
「ここに名前ですね」
「はい。その下に、生年月日と服用中のお薬をお願いします」
「薬は持ってきたんです。袋が濡れちゃったけど」
「お薬の名前を、分かる範囲で書いてください」
澄江は鉛筆を握った。名前だけなら書けるはずなのに、田という字の次が出てこない。手の甲には、机を動かしたときについた赤い擦り傷が残っていた。
診察室の方から、伸一のうなる声が聞こえた。澄江は鉛筆を強く握り、紙へ一本の線を引いた。その線は枠から外れ、隣の欄まで伸びた。
「お母さん、大丈夫ですよ。ゆっくりでいいですから」
看護師が隣の椅子へ腰を下ろした。澄江は問診票を胸へ抱え、廊下に落ちた薬の包装を見つめた。白い袋の端に、伸一が毎朝つけていた青い印が見えた。
「私、読めないんです」
看護師は急かさず、澄江の手から鉛筆を受け取った。澄江は唇を何度も舐め、冷えた指をエプロンの下で握った。玄関の靴を揃えることも、薬を順番に並べることもできないまま、ここまで来てしまった。
「すみません。これ、読んでもらえませんか」
その声は、救急車のサイレンよりも小さかった。けれど看護師は聞き返さず、問診票を澄江の方へ向けたまま、一番上の欄を指で示した。
「もちろんです。一つずつ、私がお聞きしますね」
澄江は、そこで初めて息を吐いた。廊下の窓の外では、病院の花壇に植えられた秋桜が、夜の風に揺れていた。




