第2話:甘い蜜の在処
「……よし、これで心臓は戻った」
窓から差し込む朝陽が、セルヴィスの作業机を白く照らしていた。
彼の手元には、数日前まで煤けた金属塊だったものが、見違えるような輝きを放って鎮座している。
それは、ハイネルン王国の失われた技術で作られた『星霜の香炉』。熱を加えずとも、中の香木を精神感応で薫らせる、今や再現不能な魔道具だ。
セルヴィスは、徹夜の疲れも見せず、完成した品を愛おしそうに眺めた。……いや、彼が愛おしんでいるのは、品物そのものではなく、これを持ち込んだ主の喜ぶ顔だった。
「セルヴィス様! 約束の三日目よ!」
案の定、開店のベルが鳴る前にイザベラが飛び込んできた。
今日の彼女は、使い古されているが手入れの行き届いた淡いブルーのドレスを纏っている。
「……鍵は開けておけと言ったはずだ、イザベラ。壊す気か」
「だって、楽しみで我慢できなかったんですもの!」
セルヴィスは溜息をつき、布をそっと払った。
現れた優美な銀細工の香炉に、イザベラは「わあぁ……!」と歓声を上げ、身を乗り出した。
「綺麗……! 煤の下に、こんなに素敵な彫刻が隠れていたなんて」
「……ただ磨いただけじゃない。魔力回路の断線を繋ぎ直した。試しに、これに触れて、何か香りをイメージしてみろ」
イザベラが恐る恐る指先で香炉に触れる。彼女が目を閉じ、大好きな「林檎の蜜」を思い浮かべた瞬間。
ふわりと、春の果樹園のような甘い香りが工房を満たした。
「すごい! セルヴィス様、あなたはやっぱり魔法使いだわ!」
興奮したイザベラが、勢いよくセルヴィスの首に抱きついた。
ガタ、と椅子が鳴る。
普段の彼なら、不躾だと突き放すところだろう。だが、セルヴィスの大きな手は、宙で一瞬迷った後、そっと彼女の背に添えられた。
「……イザベラ、近い」
「あ……ごめんなさい、つい嬉しくて」
慌てて離れようとする彼女の腕を、今度はセルヴィスが離さなかった。
彼は無表情のまま、だがその瞳には溶けるような熱を孕ませて、彼女の耳元で囁く。
「……報酬は、金ではいらないと言ったはずだ」
「え、ええ。でも、うちにはもう価値のあるものなんて……」
「……三日間、俺の食事を作れ。ここで、俺の隣でだ」
その声は、客に見せる事務的なトーンとは似ても似つきぬ、粘り気のある甘い響きだった。
イザベラは顔を真っ赤にする。
「えっ、あ、私、料理はそんなに得意じゃ……」
「構わない。君が選んだ食材なら、毒でも食う」
独占欲が、静かな言葉の端々から漏れ出していた。
セルヴィスにとって、この工房は聖域だ。そこに自分以外の人間を、それも三食共にするほど長く留めるなど、異常なまでの執着の表れだった。
「……分かったわ。不味くても文句は無しよ?」
「……ああ。楽しみだ」
セルヴィスは、満足げに口角を微かに上げた。
だが、その幸せな空気は、店の外から響く不躾な馬蹄の音によって遮られた。
黒塗りの豪華な馬車から降り立ったのは、白銀の髪をなびかせた男――ドレイク・ハルバードだ。
彼は店に入るなり、鼻をクンと鳴らして不敵に笑った。
「ほう……いい香りだ。没落貴族の娘が持つには、少々過ぎた玩具のようだな」
ドレイクの視線は、香炉を通り越し、それを抱えるイザベラを舐めるように動く。
「……何の用だ、ドレイク」
セルヴィスが瞬時にイザベラを背後に隠し、氷のような視線を向けた。
工房の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚を覚える。
「挨拶に来たのさ。ハイネルン王国に眠る『美しい真実』は、全て私のコレクションに加えねば気が済まなくてね。……特に、その娘が持つ『目』と、君が隠している『甘い素顔』には、興味をそそられる」
ドレイクの言葉は、宣戦布告だった。
美しきものを奪う略奪者の手が、ついに二人の静かな聖域へと伸びようとしていた。




