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ミルクロード  作者: 森野祐子
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木のコンビニと牛たち

私はさっきの渋滞から抜け出すことのできた喜びで、スピードをぐんぐん上げて、山を一気に下った。この瞬間はまるで、今までじっとこらえていたものを思いっきり噴き出すことができるような、そんな感じに似ていた。

「ママ、花ちゃんおしっこしたい。もう出ちゃいそうだよ」

花はさっき目が覚めてから、そればっかりだった。山に登る始める前に、トイレに行きたかったけれど、通りの多い所で寄り道するのは少しめんどうだったので、山の上まで我慢することにしていた。そうしたら、一時間以上も山道の渋滞で車の中に押し込まれてしまい、花と私の我慢はもう限界だった。

「ここを下りたらどこにでも、おしっこができる所があるよ。それにソフトクリームだってたくさん売っているよ」

山を下ってしまったら、お店やコンビニがきっとあるはずだった。そこまでもう少しの我慢だ。

「ねえ、あの山の上で何するつもりだったの」

花はさっきまでいたあの山の上の草原で遊びたかったのだろう。あの草原には花と同じくらいの子供がたくさん遊んでいた。花があの草原で子供たちに混じって楽しそうに遊ぶ姿を見てみたかった。でも私は、渋滞の中にとどまっているよりも、先に進みたいと思った。この先には、花が喜んでくれる場所がきっとあるはずだった。

「うーん、ソフトクリーム食べながら草に寝転んで、ボーっとするつもりだった。それと、火山を見に行ってもよかったな。あとは、お土産屋さんでいろいろ見て回って美味しいそうなお菓子とか買おうかなって思っていたけど、ごめんね、花ちゃん。あんなに車が多いと思ってなかったから、さすがゴールデンウィークは違うね、花ちゃんも分ったでしょう?ママがお休みの日に出掛けるのがあんまり好きでないこと」

山を降りる道のカーブに注意しながら、そう私は花の質問に答えた。

「火山って?」

また、花が私に質問した。今度は、さっきのより答えるのがずっと難しかった。

「うーん、山の中のずっと下の方で熱くなったマグマって言うのが、山の上に噴き出して来ているの…。お鍋の中のカレーが温まってブクブクしている感じかな?説明するのは難しいから、家に帰ってインターネットで調べてみようよ」

私は、花にうまく説明できない自分が悔しかった。花の母親として、私がしなければならないことは毎日の家事以外にもたくさんあった。学校を卒業しても、まだ勉強を続けなければいけないのだ。

山道からは、これまでこの山に遮られて見えなかった南側の壁の中の姿が見えた。そこにも田園の風景が広がっていて、そこを囲む壁は木々が生い茂った山のようだった。長い山道を下りやっと大きな通りに出たので、トイレがある場所を探していた花と私は、それを見つけてしまった。広い道沿いに、日本中のどんなところへ行っても見つけることのできるコンビニエンスストアの看板があった。テレビのCMでもよく見るコンビニだけど、花と私が見つけたのはあの小さな四角い箱のようなものではなくて、三角屋根の木で作られた可愛いコンビニだった。入口の上の三角屋根にちゃんとそのコンビニのロゴが入っている。コンビニに着いた時、花と私の我慢が限界を超えてしまいそうだったのでまずはお店の中に直行した。やっとトイレを済ませてホッとすると、ようやくこの木のコンビニの内側をちゃんと見まわすことができた。コンビニの中の陳列棚や冷蔵庫以外はすべて木でつくられていた。吹き抜けの高い天井には三角の屋根を支える大きな柱が組み合わせてある。そこに置いてある品物は、他のどのコンビニにあるものと同じはずなのに、ここに置いてある物は魅力的なものに見えてしまう。花と私は冷たいジュースを買うことにしてそれを持ってレジに向かった。レジのカウンターも厚みのある木の天板だった。レジを打つ女の人に向かって、私はジュースの支払いをしながらこのコンビニの感想を言った。

「私、初めてですよ、木でつくられたコンビニって。とっても素敵ですね」

レジに立っている女の人はこれまで何回もそう言われ続けてきたのだろう、当たり前のことのようにちょっとだけ笑顔を返してくれた。私は買い物のお礼を言って花と一緒に木のコンビニの外に出た。

広い駐車場からこのコンビニを眺めた。他のコンビニよりすこし大きな建物で、壁はすべて茶色の木の板で覆われているので、入り口の白いコンビニのロゴがなければレストランのように見えなくもない。駐車場にある背の低い看板の上には、さっきまで花と私がいた山の上が、すごく高いところにあるように見える。山頂の火口へ行く車の列を置き去りにして、火口を見る代わりに見つけた可愛いコンビニ。私達の住んでいる町にだってあるのに、こんな素敵なのはどこにもなかった。坂道と長い渋滞を頑張った私、つまらない車の中の時間を過ごした花、パワー不足の私の古い車。まるで日本昔話しのようにテクテクと山を登って、そのまま下りてきたら見つけてしまった、どこにもない特別なもの。ここまで頑張ったごほうびのように思えた。私はこのコンビニを、昨日私に出掛けることを勧めてくれたくみちゃんに教えてあげようと思った。でもくみちゃんはもう知っているかもしれない、そんなことを考えながら眺めていると、花が私を呼ぶ声がした。

「ママ、うし!」

もうここに来るまでにたくさん見たのに、何を今さらと思った。それでも、花はしつこく私を呼んでいた。花は駐車場の端っこで両手を上にあげて私に手を振っていた。

「ねえママ、これ絶対に朝のうしだよ!」

花の後ろには、荷台に大きな黒い牛を乗せた青いトラックが停まっていた。同じ青色のトラックだけど、荷台の柵に牛が落っこちたりしないように緑色の網のようなものが巻いてある。それに牛は二頭しか乗っていない。

「朝見たのとは違うよ。こんな山の反対側まで来ているはずないよ。それに、朝見た時より牛の数が一頭少ないし。朝に見た牛たちは、今頃あの草原の中でのんびり過ごしているはずだよ」

花はすごく残念そうな顔をして、トラックの荷台にのっている牛たちを見上げていた。大きな二頭の牛は、そばでじっと見ている花のことは気にしていない様子で前を向いたままじっとそこに立っていた。でも、私はなんだかうれしい偶然だと思った。今日の始まりのうしトラックと、山を登って反対側に来て見つけてしまったうしトラック。この黄みどりの壁に囲まれた場所が、花と私にまた牛たちに出逢う偶然をつくり出してくれたのかもしれない。

花と私は牛たちにさよならを言い、また車に乗り込むと今度はこの先にあるはずの山のふもとの草原に向けて出発した。偶然に見つけたコンビニや牛の乗ったトラックで気分がウキウキしていた。神社で引いたおみくじは大吉で、「何事も願って積極的に進めれば順調にいく」と書いてあった。今日は渋滞に巻き込まれたりもしたけれど、花と二人で楽しくドライブをして、予定していなかったこんな山の向こうまで来ることができた。花を連れて出かけることがこんなに楽しいことだと今まで気づかなかった。朝から感じているワクワクする感じがまだ止まらない。やっぱりこの場所のせいなのか、それとも私が昨日までずっと、どこか暗い所に留まったまま過ごしてきたことにやっと気づくことができたからなのか。ちょっと勇気を出して遠くまでドライブに出掛けただけで、こんな楽しい偶然がいくつもあるなんて、昨日までの私が、なんだかもったいないことをしてきてしまったようなそんな感じがした。

平地の中の道を花と私は車の窓を全開にして、ずっと昔に聞いていた曲を大きな音で聞きながら進んで行った。二人とも、ちっとも分からない英語の歌詞を適当に大きな声で歌った。もう少しで、この壁の中の世界から壁を通り抜けて外の世界に出なければならない。私の住む場所はここじゃなくて、また花と私の暮らす町に戻っていつもの生活が待っているはずだった。ここから出てしまったら、今のワクワクする気分も何かを始めようと思った私の気持ちも、すべてなくなってしまうのではないかと怖くなった。

視線の先にある不思議なこの地を囲む山の緑の壁に、ぽっかりと黒い穴が開いていた。その壁に開いた穴を抜けてしまえば、もうこの丸く囲まれた場所の壁の外側の世界だ。

「ママ、トンネル!」

花もここから出る道を見つけたみたいだ。花は小さな頃から、なぜかトンネルが大好きだった。中の世界から外に出るトンネルは、短いのと長いのと二つあった。長い方は二㎞くらいあって、花はそのトンネルの中で「あー」と声を出し続けていた。

花と私が乗った車が二つの外の世界に抜けるトンネルを抜けると、そこには、また一面に広がる山裾の草原があった。そして、そこにあったものは、白い大きな三本の翼がゆっくりと回転する、風力発電の風車だった。そして、その風車の翼は、一つではなく、いくつもいくつもカーブを曲がるたびに翼がゆっくりと風を受けて回っている。

「ママ、風車だよ!」

花の車から落っこちてしまわないかと心配になるほどの勢いで、窓から風車を見ていた。

「ほんとね、花ちゃん!すごいよ。写真とって、写真!」

私も、風車をこんなに近くで見るのは初めてだった。でも、どこかで見たことがあるような感じもした。それでも、ずっと昔のことのようで、今日のこれがやっぱり初めてなのかも知れなかった。私は、驚きと感動で、大きな声で花の向こうにある風車の方を指差した。花は私のバックの中からでデジカメを取り出して、もうすっかり使い方を覚え慣れた様子で写真を撮り始めた。

「これ、花ちゃんの住んでいる町からも見えるよ。遠くの山に白い風車ぽつぽつと見える、あれだよ」

よく晴れた日に、ずっと遠くの山肌にまるで星座のようにこの白い風車が並んでいるのを見ることができた。花もそれを知っていた。

「花ちゃんね、すっと前からこれを近くで見てみたかったの。今日ここに来れてよかった」

「ママね、今日、頑張って車運転して、渋滞の中おしっこ我慢した甲斐がありました」

多分さっきの渋滞を我慢して草原や山頂の火口へ行っていたら、そのまま朝通った道をまた戻っていたかもしれない。そうしたら壁の外側に並ぶこの風車を見ることはできなかったはずだった。今日の私の選択はやっぱり良かったのかもしれない、そう思った。

星座のように風車が立つ山裾に広がる一面の草原に目指していた場所があった。その場所もさっきと同じように車も人もたくさんだったけれど、今度は車をちゃんと駐車場に停めることができた。そこには、大きな丸い屋根の付いた建物と、その横には一面の山の上の方までずっと続く広い斜面の草原があった。

私と花は建物の中に入り、中に置いてあるものを一つ一つ見て回った。ゴールデンウィークのぎゅうぎゅう詰めの建物の中は、いいなと思った物をその場で手に取ってないと、またそこへ戻って来ることはできそうになかった。地元でとれた新鮮な野菜や、おばちゃんたちが作った美味しそうなお弁当やパン、お土産物を売っていた。私は真っ赤なトマトときゅうり、サツマイモで作ったおまんじゅうを買うことにした。花はソフトクリームがいいと言った。

人であふれかえった建物から外に出ると、そこにあった小さなお店で、花に約束をしていたソフトクリームを買ってあげた。花はミルクではなく、きれいな紫色のソフトクリームを選んだ。

花と私は山の斜面に広がる草原を上の方を目指して、辺りに人がいなくなるまで頑張って登って行った。花はソフトクリームをしっかりと握ったまま駆け上がって行く。ずっと車の中だったから、思いっきり体を動かすことがうれしいようだった。そして、花の後ろをやっと登って行く私を振り返って、

「もう遅いな。ママはデブッチョだから登れないんだよ」

自分のコロンとした体形を気にもせず、私にだけそう言ってまた斜面を駆け上がっている。私達は周りに人がいなくなるまで登った。

「やった、着いた」

私は両足を投げ出して草原に座り込んだ。もうそれより先へ登る元気はなかった。

「あっ、ズルイ」

私が座り込んでしまったのに気がついた花は、行きすぎた斜面を私の横まで戻って来た。そして手に持ったソフトクリームを私に見せながら、「たべていい?」と聞いた。きれいな紫色のソフトクリームが溶けかかっている。

「溶けちゃってるよ、早く食べないと」

花は大事そうにきれいな紫色のソフトクリームをちょっとだけ舐めてみた。

「あ、おいしい。なんか、お芋の味がするよ」

そうして、今度は溶けかかっている下の方をぐるりと美味しそうに舐めている。

「そうだよ。だってムラサキ芋って言うサツマイモのソフトクリームだもん。ねえ、ママにもちょっとだけちょうだいよ」

花は端の方をもう一回なめてから私の方に差し出した。私は遠慮なくソフトクリームの先端を一口かじる。甘くて冷たくて、ほんとうにサツマイモの味がした。

「うん、おいしいね」

花は私の返事に「ねっ!」と言う顔をしている。私は、買ったばかりのトマトをビニールの袋から取り出して、バックの中にあった、まだ使っていないハンカチできれいにトマトの表面をふいた。そんな私のしていることを見ていた花が不思議そうに聞いた。

「ママ、もしかしてここでトマト食べるの?」

「そう、トマト食べるの。ママの大好物、すごく美味しそう」

私は赤い大きなトマトを花に見せ、そうして一口かじった。ソフトクリームにはない、自然の優しい甘さで、種のところをちゅうと吸うと、ちょっと酸っぱかった。

「ママ、こんなところでトマトなんか食べている人いないよ、はずかしいよ」

花は手に持っているソフトクリームを美味しそうに舐めていて、そんな私のトマトには興味がなさそうに言った。

「全然恥ずかしくなんかないよ。こんな緑の中で食べるなんて、お家で食べるよりずっと美味しいよ。ママはキュウリも食べるからね」

私はちょっとだけムキになって、花に言った。でも、外で食べるトマトは本当に美味しかった。そんな私の様子を見ていた花は、

「じゃあトマト食べてみる。花もトマト大好きだもん」

「うん、食べてみなよ。それに、おまんじゅうもあるからね。でも、先にトマト食べたほうがいいよ、おまんじゅうのあとに食べたらきっと酸っぱいよ」

私はトマトを一つひとつハンカチできれいにふいて、花の前に一列に並べた。草原の黄みどりの草の上に並んだ真っ赤なトマトは、より一層鮮やかさを増したように太陽の日差しにピカピカと光り輝いていた。

「ねえ、明日は何するの?」

花は残り少なくなったソフトクリームをやっぱり大事そうに舐めながら聞いた。

「うーん、明日はお掃除してお布団干して、お家でゴロゴロする。たぶん明日は今日のドライブで疲れちゃっていて、何にもする気なんて起きないと思うよ。花ちゃんには宿題の残りもあるしね」

花ががっかりするかなと思いながら、私はいつもと変わらない休みの日の予定を言った。

「あと絵日記だけだから、今日お家に帰ったらすぐにやるもん」

花はすぐに宿題が終わってしまうことを私にアピールしているようだった。

「今日のお出かけのこと、絵日記に書くの?」

「うん、書くよ。今日は書くことがいっぱいあるから簡単だよ。ママとドライブして神社に行ったこととか、牛を見たこと。あと風車も」

花は、今日一日にあったことを思い出しているようだった。

「それに渋滞でずっと車に乗っていたこととか、あの木のコンビニもよかったよね」

私も今日のことを思い出しながら言った。今日一日でいろんなところへ行って、いろんなことがあった。花と一緒にここに来た今日の事を、ずっと忘れないでいたいようなそんな一日だった。だから私も、

「ママも日記書いてみようかな。今日すごく楽しかったから。花ちゃんとドライブに出掛けてすごく楽しかったです。すごく眺めがよくて、美味しいものも食べて、渋滞で大変でした。でもおみくじが大吉だったからうれしかったです、って日記に書くのはどう?」

今日私が感じた胸がキュッとなるような気持を忘れないために、何か形にして残しておきたかった。本当は心の中に残しておくことが一番だけれど、忘れっぽい私にそれは無理そうなので文章に残すことがいいと思った。

「ママ、日記書くの?」

花は、すごくびっくりしていた。私だって今まで学校の宿題でしか書いたことのない日記を書いてみようなんて思うことはこれまで一度もなかったので、そう思ったことを自分が驚いているくらいだ。もし始めたとしても三日坊主で続かないかもしれない。でもそうしたら、これから先も日記を書くために、花といろんなことをしようと思うかもしれない。

「ママも花ちゃんみたいに宿題にしようと思って。毎日は書かないけど今日みたいに楽しいことがあったら日記に書くとか、いいと思わない?」

「ママはそんな言っているけど、お家に帰ったら面倒だって言って、しないと思うよ」

そうだよ、花ちゃん。昨日までのママはそうだった。でも、今日からのママはきっと違っているはずだよ。

「それなら明日、日記を書くノートを買いに行こうよ」

花はそれに賛成した。日記は今日書かずに明日、私と一緒に書くと言った。そうしたら、ママも絶対に日記を書かないといけなくなるからと。


いつもだったら、服が汚れることを気にしたりするけれど、今日はあまりに気持ちがよくて、草原に寝転んでみたくなった。太陽の日差しは強く痛いくらいだった。もう夏が来てしまったような感じで、草原の若葉の緑色の匂いがする。私の隣に、花も手足を広げて寝転んでいる。

「花ちゃん、すごく気持ちがいいね。最高だよ。こんなにゴールデンウィークが楽しいものだって、ママ知らなかったよ」

眩しすぎる日差しを手で遮りながらそうつぶやくと

「うん、サイコーサイコー」

花は急な斜面を寝転んだまま転がって行った。

 

目の前には、壁の外側にある世界が広がっていた。黄砂で景色の全体が霞んでいてよく見えない。でもそこには広い平野が広がっていて、ずっと遠くに何もないように見える場所は、たぶん海だ。黄みどりの壁の外側の世界に、とうとう出て来てしまっていた。もう、さっきまで中の世界にいた花と私を守る黄みどり壁も、高い所から見守っている山もない、あの神様もいない。私は、この外側の何も守ってくれるものがない世界で、ちゃんと生きて行くことができるだろうか?できるはずだ。私は、もう前に進んでいるのだから。

今日、ここへドライブに来たことは正解だった。いつの家の中に一人過ごしてばかりいる花のためにドライブに出かけることを決めて、いざ家を出ようとした時、ちょっとだけ、なんだか家を出るのは気が進まないようなそんな気がした。それでも今日は何かが違っていて、どうしても花と一緒にこの黄みどりの壁の中の世界に来なくてはいけない気がした。今感じるのは、何かに導かれるように花と二人でここまで来てしまったこと。途中で予想していた通りに渋滞にはまり、目的の場所を素通りして山を下ってだけだったけど、花と二人で大冒険をしたような満足感があった。私が小さい花のためにしてあげられることは少ししかないけれど、今日一日で少しだけ新しい体験をした花はずっと笑っていた。私も本当はこの壁に囲まれたこの地のことを忘れてしまっていたのに、ここから力を体いっぱいに吸収することができた。そうして、今まで忘れてしまっていた自分の生きる道について考えることもできた。私も花のように、自分の未来についてちゃんと考えて、自分の進むべき道を見つけてそれとちゃんと向き合わなければならないと。いつか、昔の私のようにまたキラキラと輝く私がいるかもしれない。そうしたら、いつか彼に出会うことがあっても、花と私の姿をちゃんと彼に見せることができる。

本当のパワースポットは、あの神社だけでなくて、この黄みどりに囲まれた丸い場所そのものだったのかもしれないと思った。

 

「ねえ、そろそろ帰ろうか?まだ帰りたくはないけど、もう花とママの素敵な冒険はおしまい、また車に乗って家まで帰ろう。帰りは、朝とは違う道だから楽しいかもよ。それに、ママ疲れちゃったから、途中で夜ごはん食べようよ」

私は、まだまだこの地から離れたくない気持ちを振り払うように思い切って立ちあがった。おろしたての水玉のワンピースに付いた草原の草を払いながら、草原に転がったままじっとしている花に向かって声をかけた。

「えっ?夜ごはんもいいの?」

花が喜んで私の所まで駆け上がって来た。

「花ちゃんの食べたいもの何でもいいよ、今日は特別だからね」

普段はやらない、花の喜ぶことをしてあげたかった。

「う~ん、何がいいかな?じゃあ、ハンバーグにしようかなぁ」

花の大好物だった。私はハンバーグを美味しく作るのが苦手だ。

「それでは、牛さんの美味しいハンバーグを食べに行きましょう」

私は、今日出会ったたくさんの牛たちになんだか申し訳ないように言った。


緩やかな下り坂の道を走り出した。夕方が近づいて、西日が眩しくなった。

「花ちゃん太陽が眩しくて、前があんまりよく見えないよ」

「ねえ、ママがこの前買ったサングラス使えばいいのに。花、ママまだ使ってないでしょ?」

この前の休みに花と久しぶりに買い物に行った時、ポスターに映るきれいな海外のモデルさんが掛けていた大きなサングラスがあまりにかっこよかったので私も欲しくなってしまった。でも、私にはあまりやっぱり似合わなかったし、それをかけてどこかへ行く予定も、その時はなかった。それでもどうしても欲しかったので買ってしまった。だけど、私はそのサングラスをまだ一度も使っていなかった。さっそく花にバックの中を探してもらうと、買った時のままお店の袋に入っていた。私がそれを使うより先に、花が「花もしてみたい」って言うので「いいよ」と言うと、花は大喜びでその大きなサングラスを花の小さな顔に掛けている。

「ママ、かっこいい?」

花が私の方を向くと、やっぱり大きすぎて、大きな黒目の宇宙人みたいだった。

「うん、似合うよ。なんかETとかに出てきそう」

花は窓から顔を出してサイドミラーで自分のサングラスをかけた姿を確かめながら、「変だよ、おかしい」と大笑いしている。

「ねえ、ママにもかけさせてよ」

花が返してくれたサングララスをかけてみる。うん、太陽が眩しくない。

「ねえ、ママに似合っている?かっこいい?」

私はちょっと気取った感じで花の方を向いた。

「うん、ママ、かわいいよ。今日ずっと、それしていたらよかったのにね」

本当にそうだね。これから暗くなるまで、ずっとこれをかけて運転しよう。

「ママ!飛行機!」

大きな飛行機がゆっくりとカーブを描きながら空から地面に向かって下りて来ている。この先にある飛行場に着陸するために、空の上で旋回して待っているのだろう。いつもよりずっと大きく見える飛行機は、すごくゆっくり飛んでいるように見えた。

「花ちゃんも、飛行機に乗ってみたい」

これからできる限り花のやりたいことをしてあげたいと思っていたけど、飛行機は高いかなぁ?なんて考えながら、

「花ちゃんは、花ちゃんの好きなことなんでも自由にしていいよ。いっぱい勉強して、自分でお金貯めて、行きたいところに行けばいい。そして、いつかママをどこか遠い国に連れて行ってね」

花が好きなことするおまけに着いて行きたいなんて、これまでと何にも変わっていないか…、でも花は喜んでうなずいてくれた。

「うん、お仕事してお金もらったら、ママを外国に連れて行ってあげる。どこがいい?」

花は私の夢をかなえてくれるらしい。私は外国と聞かれて真剣に考えてしまった。

「じゃあ、パリに連れてって。パリってどこか知っている?」

「フランスでしょう?」

県や国など地理に興味のある花は、ちゃんとフランスのことを知っていた。花はいつも地図を見ているから、大きくなったら外国へ行くのかもしれない。それでもいいと思った。私ができなかったことを花にはして欲しかった。私は昔からずっとフランスに憧れていた。いつか行ってみたいと思っていたし、生まれ変わったらフランス人になると勝手に決めていた。そんなフランスに花と一緒に行けたらきっと楽しいだろう。

飛行場の横を抜けて、最後の長い坂を下ると広い平地に出た。東側にさっきの風車の並ぶ黄みどり色の壁が続いていた。私は、やっぱりあの白い風車を近くに見たことがあった。ずっと昔に彼と行った四国で、今日のように風車の並ぶ道沿いを車で走った。あの時は夕方だったから、こんな明るい日差しの中ではなかったけれど、いくつもの大きな翼が私達の頭の上をゆっくりと回転していた。すごく静かに、夕暮れの海沿いで回転する風車が少し悲しい感じがした。

ずっとずっと続く壁は、外側からは山が連なっているようにしか見えなかった。まるで中の世界をカモフラージュして隠しているみたいだ。その壁の奥には私と花が車で登った山頂が見えて、今も白い煙が空に向かってゆっくりと動いている。煙は空の白い雲と溶け合って煙なのか雲なのか分からなくなってしまっている。さっきまで花と私はあの中にいた。ずっと壁に守られて、そこにいたいような居心地の良い不思議な世界だった。でも今は壁のこっち側の世界に戻って来ている。それでも私の気持ちは、あの壁の中にいた時と同じままだった。もう大丈夫、慎な感じだった。

花はまた疲れて眠ってしまったのか、目を閉じでシートにうずくまっている。田園の中のまっすぐの道は、両側に大きな街路樹が植えられていて、それはネズミのキャラクターの丸い大きな耳のように見えた。そして、その両側の丸い耳は道の中央で重なり合い緑のトンネルになっている。現実の世界に戻るトンネルがここにもまたあった。新しい私を始めるための出発点、そんな気にさせてくれる。そのトンネルの出口にある信号が、赤にかわった。緑のトンネルの中は日差しが遮られて、信号を待つのも嫌な感じがしない。少し薄暗い涼しいトンネルの中で、気分よく信号が青に変わる時を待つ私の耳に、低いエンジン音が聞こえて来た。それは、私の車の脇を通り抜けて車の列の先頭で停まった。東京のナンバーをつけたバイクだった。黒とグレーのシンプルなバックパックと黒いアウトドアジャケット、細身の黒いパンツの長身の男の人が乗っている。さっき、あの壁の中にある山の上で見たあのバイクの人だと思った。花と私が車から降りることができなかったあの草原でひと時を過ごして、そうしてここまで走って来たのだろう。私は草原で見た時に感じがいいと思ったバイクの人を、またここで目にすることができた偶然がなんだか嬉しかった。たぶん、あの壁の中に行く道はいくつもはないので、同じルートを通るのも当然なのだろう。このバイクはこの交差点を左へ曲がって、その先にある高速の入口に向かうのかもしれない。左のウィンカーが点滅している。私は、ずっとそのバイクに乗った人の後ろ姿をじっと見ていた。長い脚を伸ばしてアスファルトの道を感じのいいブーツの足が踏みしめている。バックパックもジャケットもアウトドアのもので、山登りをする人なのだろうか。バイクに乗っている後姿も感じがすごく良かった。

「やっぱり、今日はいい日だねぇ」

私は小さなラッキーな出来事を喜んで、独り言を呟いた。

「なに?」

花の声がした。ビックリして、ちょっと恥ずかしくなって花の方を見ると、花は眠っていなかったようで、こっそり私の様子をのぞき見ていて面白いものを見つけた時のような目だった。

「あのバイクの人、かっこよくない?」

花に見つかったのならしょうがないと、私がその時思っていた通りに花に言った。

「ああ、あれ?あれ東京から来たんだよ。東京の名前が書いてあるもん。ねえ、何で顔が見えないのにかっこいいって分かるの?」

「なんかバイクに乗っている雰囲気がすごくかっこいい。ママ、あのバイクのひと山の上で見たよ。花ちゃんがナンバー見ていたでしょ・・・また会えるなんてすごくない?」

私はまるで運命の出会いをしてしまったみたいに、はしゃいでそう言った。

「ああ、花ちゃんも見たよ、車の中からでしょう?あの人ね、ママが見ているDVDの人みたいだったよ」

「えっ?まさかゴロウ君?」

私はびっくりして大きな声で花に聞き返した。

「うん、そうそう、ゴロウ君に似ていたよ、本物じゃないけどね、たぶん」

私には後ろ姿しか見えないバイクの人の顔を、花は見て知っていた。そして、私が今すごくはまっているドラマに出ているゴロウ君に似ているなんて、私はものすごく悔しくなった。

「ちょっと、花ちゃんズルイよ。なんであの時、バイクの人がママの好きなゴロウ君に似ているって教えてくれなかったの?ママも見たかったのに」

ムキになって言う私を見て花はおもしろそうにしている。

「ママごめんね。その時は思い出さなかったの。今、ちょっとだけゴロウ君に似てたかなって思ったの」

「あーあ、ママ今日はいい日だったって思ったのに、そんながっかりな事が最後に待ってるなんて…、ショックだよ」

ゴロウ君に似ていると花が言った、バイクにまたがっているその人の背中を見つめながら、私はちょっと大げさに言った。

「いいもん、明日、日記に『花ちゃんがDVDのゴロウ君に似ている人を見つけたのに、ママには教えてくれませんでした』って書いておくから」

私は日記をつけると決めたことが、ちょっと楽しみになっていた。

信号が青に変わった。花はゴロウ君に似た人に向かって手を振っている。きっとバイクの彼は気づかないだろうけれど、花と私の東京から来た彼へのささやかな応援だった。無事に目的にたどりつけるようにと。バイクはゆっくりと左へ曲がり、そのままスピードを上げて遠ざかっていく。私は後ろの方からバイクの後ろ姿を見送り、ゆっくりと交差点をまっすぐ進んで行った。これから東京へ帰って行くのか、それともまだ先にある旅の目的地へ向かっているのか分からないけれど。

「ゴロウ君に似ている人、バイバイ」

私の心の中には、バイクで走って行くその人の後ろ姿が残像のように残っていた。その残像を追いかけるように、私もスピードを上げて花と私の住む町の方へ向かって行った。


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