風車の回る丘
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風力発電の風車が回る岬の先端から出港した僕とバイクを乗せたフェリーは、一時間と少しの時間で九州の港に到着した。鹿児島まではまだ遠いけれど、僕はやっと九州まで辿りつくことができたという達成感のようなものを感じていた。
海の上を走るフェリーに乗っているあいだ、僕はデッキの上から周囲に広がる海や、今僕がいる九州を眺め、鹿児島までの道順を考えていた。昨夜までは、この港から海岸沿いの道をずっと南に下って鹿児島へ行こうと思っていた。うまくいけば昼過ぎには着くことができそうな感じだった。でも、フェリーのデッキから九州の姿を眺めていると、大学生だった時、一緒に四国を旅行した彼女が僕に教えてくれたことを思い出した。
僕と彼女がまだ付き合い始める前の、僕らが初めて話をした時だった。彼女は夏休みを利用して地元の自動車学校へ通い、車の免許を取ってちょうど鹿児島に帰って来たばかりだった。僕が彼女に、車を運転してどこかへ出かけたかと聞くと、彼女は、実家のある町から少し離れた山にドライブに行った時のことを話してくれた。そこはずっと昔、火山が大噴火をおこしてできた大きなカルデラがある場所だった。彼女はそこを黄みどりの壁に囲まれた丸い場所と言った。そこは、その丸く囲まれたような地形だけでなく、不思議な力がある場所だと彼女は言った。そして彼女は、「そこへ行けば、何か見つけることができるかもしれないよ」と僕に教えてくれた。それから彼女と僕は付き合うようになって、二人でいろんな所行ったけれど、その場所に二人で行くことはできなかった。
フェリーに置いてあった九州の地図を見ると、港から九州の真ん中にある国立公園を斜めに横切るように進むと、彼女が僕に教えてくれたその場所へ行くことができるようだった。そして、そこからそう遠くない場所に、鹿児島へ続く高速の入り口もあった。僕は少し遠回りになると思ったけれど、その場所へ行ってみることに決めた。昨日の、ハーレー男の家のある四国への寄り道に比べれば、そんなに遠回りになるようには思えなかった。どうせ、昨日のうちに鹿児島へ着いている予定だった僕の計画は、昨日のそれで一日遅れてしまっていた。今日のうちに鹿児島へ行き、そこでの滞在が一日少なくなるだけだった。
僕は、この旅で初めての九州を港から山の方へ向かって走り始めた。初めは緩やかな上り坂から始まって、そのうち、急な山道を何度も登ったり下ったりを繰り返さなければならなかった。それは、昨日のただ平坦な高速の道を走り続けた僕にとっては、バイクに乗る楽しさを十分に感じることができものだった。
木々が生い茂った山道を抜けると、二つの県をまたぐように広がる国立公園の中を走った。山と山の境目にある高原は木々が少なくなり、一本のアスファルトの道がずっと先までまっすぐに続いている。そこは、草原とその周囲の山と薄い水色をした空しか見えなかった。僕はこの世界にたった一人になって頭の中が空っぽになる、そんな気分だった。99.9パーセントの自然の中の、残りの0.1パーセントのほんの少しの部分に僕がいさせてもらっているような感じがした。昨日まで仕事のことやなんかを考えていたことが、小さいことのように思えた。この自然の中にいると、僕がどんなに考えて家や建物なんかを作っても、これにはどうしたってかなわないとあきらめるしかない。自然の美しさ、居心地の良さは、僕がどんなに工夫をして造った建物でもそれにはかないっこなかった。ここには、建物と自然の境をあまいにした建物なんて意味がないように思えた。自然と建物とは全く別の所にあり、自然はこのまま残すべきもので、ここに人工的なものを作ることはしてはいけないようだった。僕は人が住む場所に、自分なりに夢をかなえる建物を造れればいいと思った。
僕が乗ったバイクは広い国立公園の中を、彼女の教えてくれた場所へ向かってどんどん進んで行った。昨日とは違う、景色や風の温度や、匂いが次々に変化して気持ちよかった。水蒸気が上り硫黄の匂いのする岩のごつごつした峠を越え、急なカーブがいくつも続く山道を下りると、国立公園の中にある県境を越えた。このままもう少し進むと、彼女が僕に教えてくれた目指している場所があるはずだった。僕は、ちょうど山を下りたばかりの所にあった、三角形のかたちをした建物で少しのあいだ休憩をとった。駐車場にはすでに多くの車やバイクが止まっていて、ゴールデンウィークにここを通りどこかへ出かける人たちであふれかえっていた。この先には、もう越えなければならないような山は見えなかった。ずっと先まで、平地の緑の草原が広がっている。駐車場の地図の看板を見ると、この先に彼女の教えてくれた大きな丸い地形があることがすぐに分かった。道案内の地図に記されている線が、中央の山を丸く囲むように円になっていた。そして、僕が今まで走ってきた道を、そのまま南の方へ行けばそこへ行くことができるようだった。
僕は、缶コーヒーを一本飲んだだけで休憩を済まると、またバイクに乗って走り始めることにした。三角形の建物のある場所は人が多くて気が休まらなかったし、それなら自然に囲まれた道を走っているほうがいいと思った。それに、僕は早く地図で確認した丸く囲まれた場所に行きたかった。走り出した道は、さっきはただ平坦なように見えていたけれど、緩やかな丘がいくつも重なりあい、まるでゆっくりと波打つ緑の草原の海のような感じだった。まだ芽吹いたばかりの牧草の薄い緑色が見渡す限り続き、それ以外は僕が走っている一本のアスファルトの道と、淡い空の水色だけだった。まるで身震いをしてしまうような、ずっとこの場所を走り続けたとしても飽きることはない、そんな景色が広がっていた。遮るもののない太陽の光が、あたり一面の草原の若葉に反射して、すべての方向から光を浴びているような眩しさを感じる。排気ガスの匂いなどない、緑の澄んだ空気の匂いがした。
草原の中に人が作ったものはこの道のほかにもう一つ、道の両側に続く柵があった。丸太で作ったものや針金を張っただけの、簡単だけれど頑丈そうなものだ。そして、その柵に囲まれた広い見渡す限りの草原の緑の中に、ぽつぽつと黒や茶色の点が見える。ずっと遠くに見えた点が近くになると、それは草原の中にいる牛たちの姿だと分かった。牛たちは、牧草が広がっている草原の中で毎日飽きることなくのんびり過ごしているようだった。仲間の牛たちと居心地のいい場所を求めるようにゆっくりと歩いているのや、まだ柔らかい牧草をお腹いっぱい食べているもの、のんびりと昼寝をしている牛の姿を見ていると、草原の日常がすごくゆっくりと過ぎているように感じることができた。そんな風にのんびり過ごす牛たちの体には、黄色や水色なんかの目立つ色で文字が書かれていて、それはひらがなだったり数字だったりした。名前のような、暗号のようにも思えた。たぶん、この広い草原の中で飼い主が自分の牛を見分けることができるようにしてあるのだろう。牛たちの姿は時々しか見ることができなかったので、飼い主も、自分の牛を見つけるのに苦労するのかもしれない。うらやましいくらい美しい草原の続く広い場所を、自分たちのものにできているこの牛たちの姿を、もし日本中のほかの牛たちが見たら、彼らはすごくうらやましく思うか、それともみんなで群れをなしてここへ引っ越して来るかもしれない。もし、ほんとうに日本中の牛たちが全部集まってきても、ここをいっぱいにすることはできないだろう。僕がどこまで走ってもこの草原は、まるで海のように続いているのだから。
僕はそのあとも、よく牛たちの姿を見かけた。ここは牛たちにとって、やっぱり特別な場所であるらしかった。なぜなら僕がたくさんの牛の姿を見ながら走るこの道は、「ミルクロード」と呼ばれているのだから。
草原の続く道を走り続けていると、この地を見渡すことができる展望所に着いた。僕はたくさんのバイクの停まっている駐車場に同じようにバイクを停めて、駐車場からずっと先にある展望所まで歩いて行った。この地を見渡すことができる展望所は、すこし離れたとことにあって、緩い坂道をずっと歩かなければならなかったけれど、そんなの少しも気にならないほどすごい空間がそこには広がっていた。ずっとずっと遠くまで緑の緩やかな丘がいくつも重なる空間の中に、急にぽっかりと大きな穴が開いていた。そして僕は、この穴を囲っているこの草原の縁に立っていた。ここは、穴の出現にまるで削り取られたように直線の壁になり、その壁は中の空間を丸く囲むようにずっと向こうの方まで続いている。僕の足元に広がる空間には、四角く区切られた田んぼが整然と並んでいて、直線を引いたような道が何本も走っている。道のそばには小さな家が集まっているのが見えて、この中に人が暮らしていることが分かる。そして、そのちょうど中央には、僕がいるこの場所よりも高い山がいくつか寄り添うように連なっている。僕がいる草原の柔らかい印象とは反対の、荒々しさを感じさせる山だった。その山のずっと向こうに、僕が立っているのと反対側の中の空間を囲む壁が見えた。
ここが、彼女が僕に教えてくれた、黄みどりの壁に囲まれた丸い場所
それは、ほんとうに存在していた。そして、この場所に辿り着き、いま僕は、ほんとうに黄みどり色をした壁の上に立っている。中の空間は、丸というよりどちらかと言えば楕円に見え、途中がギザギザになっていて中の方に張り出しているのも見える。でも、彼女が言ったように、中の空間が壁に囲まれて、まるで外の世界から切り離されてしまっているようだった。だから、この中に住む人たちは、まるで隠れるようにひっそりと生活しているような感じがして、最初にここを見つけた人はなぜここに住もうと思ったのか不思議に感じた。ずっとこの場所を見ていると、胸がいっぱいと言うのはこんな風なことを言うのだろうか。全身が興奮し、胸が締め付けられるような苦しく、呼吸ができない。とんでもない所に来てしまったという困惑と、喜びがあった。
彼女がこの場所を僕に教えてくれたとき、ほんとうは彼女が僕と一緒に来たかったのではないのだろうか。この場所のすごさを知っていた彼女は、僕にうまく伝えることができなくて、だから、僕にここへ来ることを勧めた、ここには不思議な力があると言って。僕にはその力がどんなものかは分からないけれど、僕らの想像できない自然の偶然が造り上げた世界では、何かが起きるような、起きても不思議はないようなそんな気がする。もしずっと前に、彼女と僕が一緒にこの地を訪れることができていたら、僕らはもっと違う時間を過ごしていて、僕は彼女のことを理解することができたかもしれない。
僕はバイト先で彼女と知り合ってから、一年くらいまともに口もきいたことなかった。彼女はあまり話をする方ではなかったし、僕も仲のよい友達以外とはあまり話しをしなかった。たとえ、僕が話しかけても、簡単な返事くらいしか彼女からは帰って来なかった。僕は、彼女の一番仲の良い友達によく声をかけられ、そんな時にはよく話をしていた。そして、その子の隣にはいつも彼女がいた。大学の学食で偶然一緒になった時には一緒に食事をしたりもしたけど、話すのはいつも彼女の友達の方だった。、だから、もし僕が、あの時彼女に声を掛けなければ、それから先だって仲良くなることはなかったかもしれない。
それは、大学の夏休みも残り少なくなった8月の終わりに、バイト先の仲間が集まって海岸で花火大会をすることになった時だった。久しぶりに会った彼女は、それまでは男の子と間違えるくらい短かった髪がちょっとだけ長くなり、いつもと違う感じのスカートを履いていた。僕は、夏休みに大学のある街にいなかった彼女が、実家に帰って恋でもしたのかなと思った。彼女はいつもと同じように、大勢のバイト仲間から少し離れた堤防に座って、みんなの花火をする様子を眺めていた。僕も少しだけ花火をしたけれど、すぐに飽きてしまったので堤防に上がると、彼女の隣に座り彼女に初めて話しかけた。僕が彼女にどんなふうに声をかけたのかはうまく思い出せないけれど、それまでよく話したことなかったことが嘘のように、僕らはたくさん話をした。いつもはあまり話をしない彼女は、その時夏休みに実家のある町に戻って車の運転免許を取った時のことを話してくれた。彼女は車の免許をとることがどんなに大変だったかを、これまで見たことないくらいによくしゃべった。そして、無事に免許が取れた彼女が、初めて自分で車を運転して出掛けた場所がここだった。彼女は、ここを不思議な丸い地形をしていると言い、そして不思議な力があると言った。そして、僕に一度ここへ行くべきだと言った。僕は、彼女の話すこの場所をどんな所か彼女に尋ねたけれど、
「あの場所を言葉にするなんてできないよ。そこにいるときだって、自分がどんな気持ちでいるのかもわからなくなるの、それくらいすごい場所だから」
彼女はそう説明した。そして、
「あなたがそこでどんなふうに感じるかは分からないけれど、きっと何かを見つけることができるから。私そこへ行くたびに自分が少しずつ変わっているような気がするの」
もしかして、彼女は夏休みに実家に帰ってここを訪れたから、だから夏の終わりに僕は彼女の事をなんだか違ったように感じたのかもしれない。
それから僕らは仲良くなり、彼女が大学で僕を見かけた時には声をかけてくれて、二人で大学の学食で一緒に昼食を食べることもあった。僕らはお互いに思っていることや好きなことが同じだったりした。これまでどうして話をしなかったのだろうと不思議に思うくらい、いろんな話をするようになった。
秋になって、大学が休みになって何もすることがなかった僕は、部屋で映画でも観て時間を潰そうと近くのレンタルビデオ屋にビデオを借りに行った。そして、偶然その店に来ていた彼女に声を掛けられ、彼女と一緒に借りたばかりのビデオを観て過ごした。そうしてたくさんのビデオを観てしまった僕は、彼女と一緒に過ごした今日一日が終わってしまったことを残念に思いながら彼女の部屋を出た。その時、彼女のアパートから自分の部屋に帰ろうとしている僕に向かって、彼女は僕のことが好きだと言った。僕は彼女がそんな風に僕のことを思っていてくれたことがうれしかった。なぜなら僕は、初めて彼女と話をしたあの夏の終わりの日に彼女のことを好きになってしまっていたのだから。だから、僕も彼女に向かって、きみのことが好きだと言った。
それから僕は、時間のある限り彼女と一緒に過ごすようになった。彼女はあまり友達の多い方ではなかったので、いつもひとりで自分の部屋に過ごしていた。だから、僕の時間が空いている時はいつでも会うことができた。僕らはいろんな場所に出かけ、自分の夢や将来について話をした。僕は建築家になりたかった。そう話す僕に向かって彼女は言った。「あなたは、絶対に建築家になれるよ、だってそれだけの何かをあなたが持っていると、そう私は思っているから」
僕はその何かについて彼女に聞いてみたけれど、彼女はそれをうまく言葉にできなかった。ただ、
「あなたはそうなるべき人だから。私の勘は絶対に当たるのよ」
そう言って彼女は笑った。僕が彼女に将来につい聞いてみると、彼女は自分が何をしたいのか分からないようだった。でも僕は、彼女にしかない不思議な感性があるように思っていたので、それを活かすことができれば何にでもなれるような気がした。彼女はそんな自分にまだ気づいていなかったし、彼女にとって一番になるものにまだ出逢っていなかったのかもしれない。そんな時、僕と一緒にいることが、彼女にとって一番になってしまった。だから彼女は、彼女の将来や自分のやりたいことを真剣に考える前に僕と付き合い始めたことで、それを見つけることをやめてしまっていた。そして、彼女は彼女の生きるべき道として僕を選んでしまった。僕のことをそれだけ想ってくれていたことはうれしいと思う、でも彼女は間違った選択をしてしまったのだ。でも、僕を選んでしまった彼女は、大学でどんな研究をして将来どんな仕事をするのか、そんなことはもうどうにもよくなっていた。それよりも僕の方が彼女にとって大事なものになっていた。僕が建築家になる夢に向かって進み始めても、彼女の将来には僕が一緒にいること以外は見えなかったようだ。
僕は大学の四年になり、研究で忙しくなり、課題や論文にかかりっきりになる時間が増えて、反対に彼女と一緒に過ごす時間は少なくなっていた。僕は正直ほっとしていた。彼女が僕を好きになればなるほど、彼女は自分のことを真剣に考えることができなくなっていたのだから。
「私はこれからどうすればいいと思う?」
そう彼女に聞かれても、それは僕の決めることではなかったし、そして自分の生き方を僕に求めてしまう彼女との時間はあまり気持ちの良いものではなかった。それでも僕は彼女のことが好きだったし、何より彼女の中にある不思議な感覚のするものが僕を彼女に引きつけて離さなかった。あの時、彼女が僕に建築家になれると言ってくれたように、僕も、彼女の中にある何かを探し出して彼女にそれに気付かせてあげることができれば、もっと彼女らしい生き方ができたのではないかと思う。けれど、僕も、彼女も自分の中にある何かを見つけることができないまま大学を卒業してしまった。僕は就職先が決まらないまま東京へ行くことに決め、彼女は地元に戻り就職することになった
僕が東京へ行って彼女と離れて暮らすことになることを、彼女は初めから分かっていたようだった。僕がそのことを彼女に話した時、
「いつかあなたはどこか遠くへ行ってしまうって思っていたの。だから、私ずっとあなたから離れるのが怖くて、あなたと一緒にいれることだけを願っていたの」
彼女は、寂しそうに言った。でも、
「あなたが建築家になる道を進むためには、ここにとどまっていても何も始まらないから」
そうして彼女は静かに涙をこぼしながら言った。
「いつか、あなたとまた一緒に過ごす日がきっと来るよね」
僕が東京へ出発する日、空港まで友達が車で送ってくれることになっていた。彼女はその前の晩まで、それまで僕の暮らした小さなアパートの部屋の片づけや、東京へ持って行くための荷物の準備を手伝ってくれた。翌朝、彼女と僕は二人で僕が四年間暮らしたアパートの部屋から出ると、ドアを閉め僕はカギをかけた。彼女は僕の隣に立ち、その様子を黙って見ていた。そして、彼女が持っていた僕のアパートの鍵を、ドアの郵便受けからそっと入れた。郵便受けの中に鍵が落ちる金属の冷たい音がした。僕はアパートのドアの前で彼女をしっかりと抱きしめた。彼女は僕の胸に顔をうずめて泣いていたと思う。僕の背中をしっかりとつかむ彼女のぬくもりを絶対に忘れないようにしようと思った。僕はそれまでずっと、そして、これから遠く離れてしまう最後の瞬間まで彼女のことが一番好きだったし、離れたくはなかった。でも僕らは大人になって前に進むために、学生の温かくて居心地のいい世界から出て行かなければならなかったし、そのためには僕らは一緒に行くことはできなかった。
「きっと、また会えるから」
僕はそう彼女に向かって呟くように言った。本当は僕のためにそうつぶやいたのかもしれない。彼女を置いて行くことに、悪いことをしているのかもしれないと感じていた。でも、僕が行ってしまったら、彼女はやっと彼女自身のことを考えることができると思った。この先の離れている時間は僕たち二人に大事な時間になることを彼女に分かって欲しかった。
彼女は車に乗り込む僕の方を見つめていた。僕を見送りに来てくれたほかの誰とも話さず、みんなが僕の方に手を振ってくれる後ろの方で、少しでも気を抜いたら見失ってしまいそうなくらい静かに僕の方を見ていた。車が動き出し、僕を見送る彼女の姿を見逃さないようにずっと見つめていた。それが彼女と僕が一緒に過ごした長い時間の最後になった。
僕が東京へ行ってから、彼女とは何度か電話で話をした。彼女は、就職してすぐに始まった研修がまるで軍隊のような生活で、罵声ばかりを浴びせられる毎日だと言った。研修が終わり彼女に与えられた仕事は彼女の希望していたものとは全く違うもので、それでも彼女なりに、何かやりがいがみいだせないか探しているようだった。
東京へ行き数カ月が経っても就職が決まらない僕に、彼女は電話の向こうから言った。
「私は、いつになったらあなたと一緒にいれるようになるの?」
彼女は自分の選んだ仕事や、進むべき道がまだ分からないようだった。そして、そんな彼女の暮らしから僕に救い出してもらうことを求めていた。でも、僕にはどうすることもできなかった。それをできるのは彼女自身でなくてはならなかったのに、彼女は僕と離れてしまってからもこんな僕が彼女にとって一番のものであり続け、僕に救いを求めているようだった。でも、東京に来ても何もできていない僕が、彼女にしてあげることなんてなかった。その時の僕は、僕の方が救ってもらいたい気分だった。だから僕は、そんな彼女に向かって、
「もういい…、もういいだろう」
彼女は何も言わなかった。長い沈黙が続いた。そして僕は黙ったまま何も言わずに電話を切った。それが僕らの最後だった。
僕は緑の草原の中にぽっかりと空いた、穴の中に向かって走っていた。高い壁を下る道は、木々の生い茂る急なカーブが続いた。その坂道を下り終えると、壁に囲まれた中だった。直線の平野の道を進みながら周囲を見ると、ほんとうにここが壁に囲まれていることがよく分かった。緑の生い茂る高い壁が見え、壁の上の方は草原の緑が光っていて、そこに僕がここへ来るまで走っていた道があった。さっきまで僕は壁の上にいたのに、今は丸い穴の中にいる。上から見たこの壁に囲まれた中の丸い平地は、静かな特別な場所のように見えていたのに、中に入ると普通の田園の広がる小さな町だった。そこには人の住む普通の小さな町の生活があった。僕は、この地の中央に連なっている山へ向かって進んでいた。その途中に、僕はこの地の地名がついた神社があるのを見つけ、僕はそこへ行ってみることにした。駐車場にバイクを停めて、ヘルメットとバックパックをそこに置いたまま鳥居をくぐって参道を歩いて行った。参道は短く、参道の反対側に僕が今くぐったのと同じ鳥居が見えた。参道のちょうど中央に大きな屋根の付いた門があり、その奥に境内があった。僕が知っている神社の参道は、境内へまっすぐに伸びているものが多いけれど、ここは境内と平行に伸びていた。境内に入る門は手を伸ばしても包み込むことができないほど大きな丸太の柱が支えている。高い天井の梁には細かな彫刻が施され、その上の二階の部分も細かい細工の施された軒が大きなカーブの付いた屋根を支えている。この二階建ての門は江戸時代の末期に造られた立派な楼門だった。その楼門をくぐるとすぐにそんなには大きくはない神殿があった。優しい曲線をした屋根、柱や開け放たれた扉は長い時間を経た木目が美しく、そこにはそれを装飾する明るい色合いはなかったけれど、その素朴さがここの自然が偶然に造り出した場所によく合っている感じがした。僕はポケットから小銭を取り出し賽銭箱に投げ入れた。まだこの先も続く旅の安全と、僕のきまぐれでこの地に来ることができたことに感謝を伝えた。そして、自分のやりたかった建築の仕事を、これから先も僕なりの想いで続けて行きたいと付け加えた。
境内の中を一周すると、建物の裏には田園が広がり、そのずっと先にはまたここを囲っている壁を見ることができた。境内の中には、それぞれにお参りをする人や縁結びの松の木の周りを真剣に願いながら歩く人、おみくじを引いている人、たくさんの参拝客がいたけれど境内の裏側にいるのは僕だけで、そこには静かな空間が広がっていた。この地を守るように囲む緑の高い壁とこの神社、そして神社の正面にはこの地を見下ろすように中央の山々そびえている。この地はそれらに、しっかりと守られているようだった。だから、僕はここにいるとなんだか安心できるような気がした。
僕はまた平地の中央にある山へ向けて走り出した。この道を走る車の数が、これまでよりずっと多くなっていた。所どころで渋滞で長い車の列ができている。僕はその車の脇を通り抜けて先へ進んで行った。しばらく行くと、僕が目指す山の標識があった。僕は、迷うことなくその山の登山道の方へウィンカーを出してゆっくりと曲がった。信号に並んでいた車が、一斉に僕のあとに着いて来ているようだった。今日一日で、何度も山の峠を越えて来たけれど、今、僕が目指しているこの地の中央の山へ向かうこの瞬間が一番ワクワクしていた。この上からこの地を見たら、また違った景色を見ることができるかもしれなかった。さっき展望所から見たのよりもっと高いところからこの地を見てみたかった。
山への登り道をしばらく走ると、山裾の一面の緑が広がっていた。草原の中には、まるでおとぎ話に出てきそうな建物や自然を利用したテーマパークがあったけれど、どれもこの地に違和感のないように造られている気遣いが感じられた。それでもやっぱり人が造ったものが自然に中にあるのは違和感があった。草原のカーブの道は、ずっと先の方に進む車やバイクが見える。それに、たくさんの自転車も見えた。カーブを曲がるたびに一台、また一台とカーブの先に消え、僕がカーブを曲がるとまたそれを緑の中に見ることができた。僕は、少しずつ山の頂上へ近くなるのがうれしくて、次のカーブを曲がるのが楽しみになる。そして、ここにも牛たちの姿を見つけることができた。牛たちは、僕が最初に見た時と同じようにのんびりと過ごしているようだった。牛たちはカレンダーなんてない、今日もまた予定のない自由の時間を過ごしているようだった。今日の僕も、この牛たちと同じように自由で、この空間の中に過ごしている。
山に向かう登り道に突然、まるでミニチュアの造り物のような山が現れた。緑色の小さな山はまるで、お茶碗に入れたご飯をポンとひっくり返したような形で、自然が作ったものにしてはあまりにも形が整い過ぎていて不自然な感じがした。この造り物のような小さな山の頂上は、まるでスプーンですくったように小さくへこんでいた。また僕は、自然が偶然に造り上げたものに、自然の才能にうらやましさを感じた。
さっきまで僕がいた平地が、ずっと下の方に見え、それを囲む壁よりも高い所まで登って行くと、急にそこを進む車のスピードがゆっくりになった。ついに、ピッタリと動きの止まってしまった車の列を、僕は反対側から降りてくる車に注意しながら申し訳ないような気持で追い抜いて行った。車の列の先にはこの地を見渡すことのできる展望所が、その奥には山の上のくぼみに広がる草原が広がっていた。僕は、道幅の広くなった展望所に停まりそこから下に広がる平地とそれを囲む壁を眺めた。僕がこの地に来て眺めた壁の上からの風景とは反対の眺めがあった。僕は目の前に広がる壁より高い所からしばらくこの地を眺めて過ごした。壁はずっと近くの場所に感じられ、上を平らに切り取ったように平らな黄みどり色の優しい印象がした。そしてその下には、壁に守られるように平地が広がっている。やっぱり壁の中は、向こう側から完全に切り離された世界だった。彼女が僕に教えてくれた地形を目の当たりにすると、日常にはない美しい自然と壁がここを守るようにある圧倒的な存在感で胸が苦しくなるような感動があった。僕は、早く新しい建物の設計をしたいと思った。今だったら、何か僕の造りたいと思っていたものを形にできそうな気がした。でも、いまの僕にそれがなんであるかまだ分かそして、その出来上がった建物を、いつか彼女に見せりはしなかった。それでもやってみたいと思った。
僕はまたバイクに乗り、動きの止まったままの車の列の脇を進んだ。車の列はその草原と道路を挟む駐車場が空くのを待っていた。ここのくぼみに広がる草原に行くには、この駐車場に車を停めなければいけないようだった。でも、この道の脇にバイクが数台停まっているのが見えたので、僕も駐車場へは行かずそこに停めることにした。駐車場の入り口を過ぎても、まだこの先に向かって車の列は続いていた。
僕は、道の脇にバイクをちょうど一台停めることができる場所を見つけた。カーブの多い山登りの道は緊張と疲労があったはずなのに、ここの自然の圧倒的な力なのか、ちっとも疲れは感じさせなかった。バイクから降りるとすぐにバックパックを下した。背中にかいた汗が、山の上の冷たい風で急に冷やされて気持ちが良かった。僕はヘルメットを脱ぎ、ペタンとつぶれてしまった髪を両手でさっと直した。ヘルメットを外すと、もっと自然の中にいるという空気感を感じることができた。僕は後ろを振り返り、たった今僕が追い抜いてきたばかりの車の列を眺めた。さっきと同じように、車は全く動くのをやめてしまっている。ただの金属の塊となった車の中には、運転をあきらめたお父親や眠ってしまった母親、早く外に出て遊びたくでたまらない様子で外を眺める子供たち、そんな人たちがみえる。こんな気持ちのよい空間の広がる中に、車の中の閉鎖された空間で、大人たちはもうすでに飽きてしまっていた。僕は、そんな車の中で待つ人に申し訳ないような気持を、ゴールデンウィークなのだから仕方がないと思うことにした。僕は思いっきり背伸びをした。全身でこの山の上の空気を吸い込み、それから、車の列を横切って目の前に広がる草原へ向かった。
まるでカウボーイのような格好の男に引かれた大きな馬やそれに乗る子供たち、その瞬間を逃すまいとカメラのシャッターを切り続ける大人。お弁当を囲む家族、二人だけの世界にひたっている恋人たち。昨日僕と一緒に走ったハーレー男のような中年男たち。僕はそんな人たちの中を抜け、草原のくぼみを囲む小高い丘の上に登って行った。渋滞の車の列の反対側には、広い駐車場とコンクリートで作られた博物館やレストラン、土産物を売る細長い古い建物がある。それは、自然の中に間違って造られてしまったような違和感があった。周囲に広がる山の上の風景とはそこだけ違ってしまっている。その前の道路に並ぶ車の列の先には、平地から見上げた時よりもずっと近くに山の頂上が並んでいた。一番手前にある山のくぼみから白い噴煙がゆっくりと空に昇っている。それは空に浮かぶ白い雲と混じりあいながら空に浮かんでいた。僕はその気持のよい草原に寝そべってみた。草の匂いと強い日差しを感じ、遠くに人々の声がする。不思議な世界だ。ぽっかりと空いた大きな穴の中にある山の上、そしてまたぽっかりと開いた小さなくぼみに僕はいる。ここはどこへ行っても不思議さがなくなったりしない。そうして、何もかもが僕を感動させる。僕の心が足りなくなってしまいそうだ。
「やっと来たよ。きみが僕に教えてくれた、黄みどりの壁に囲まれた丸い場所に」
僕は、そうつぶやいてみる。
もしかしたら僕は、彼女と離れてしまってから、今までで一番彼女に近い所に来ているのかもしれない。ここからそう遠くないところに彼女が住む町があるはずだった。ここに来るまでに休憩した三角形をしたレストハウスで貰ってきた地図を見ると、バイクに乗って一時間くらいでいけるところにその町の名前があった。僕は、大学を卒業して実家に戻った彼女が、今もその町に暮らしていることを知っていた。彼女は僕と別れてから数年後に僕の知らない人と結婚して女の子を出産し母親になった。そして彼女は、その僕の知らない人とは離婚してしまって、今は子供と二人で暮らしている。彼女の一番仲の良かった友達が僕にそう教えてくれた。彼女の友達は、仕事で鹿児島から東京に来た時に僕に連絡をくれて、僕らは久しぶりの再会をした。彼女の友達は僕と一緒に食事をしながら彼女のことを話してくれた。僕は彼女が結婚したことを聞いた時少しほっとしていた。僕と別れてしまった彼女が、ずっと一人でいるのかもしれないと時々心配していたから、誰かと結婚して一緒になったことは彼女にとっていいことのように思えた。けれど、それは長く続かなかった。彼女はまた一人になってしまった。あの時と違うのは、彼女に子供がいることで、それは彼女にとって生きるために必要なものになっているのだろう。でも彼女の友達から聞く彼女の生活は、決して幸せなようには思えなかった。彼女のしている仕事は、大学で専攻していたものとは全く違うものだったし、彼女のするべき仕事のようには思えなかった。彼女にとっては苦手としていることのように思えるものだった。結局、彼女はなにも見つけることができなかったのかもしれない。子供と暮らしていくために、ほんとうは好きでもない仕事を無理に頑張っているのかもしれないと思った。それでも、彼女の子供の存在は、「生きる喜びを与えてくれるかけがえのない存在」と彼女の友達は言った。
「私ね、あの子があんなふうに仕事しながらお母さんやって、普通な生活をしているのを見てなんかしっくりこなかったな。大学の頃のあの子を知っているから、もっとマニアックな仕事しているか、それとも田村君と結婚して幸せになるのかなって。今は生活に追われて平凡すぎるし、何かもう、あきらめちゃったみたいだったよ」
「でも、彼女にとって、子供がそばにいてくれるのは一番幸せなことじゃないかな。子供は母親のことが一番だろうし、裏切ったりはしないから」
僕が最後に彼女と電話で話した時のことを思い出していた。
「別に、田村君は裏切ったわけではないでしょう?二人の恋をおしまいにしただけで、仕方のないことだよ。あの子が言ってたよ、悪いのは何もかもを君に求めてしまった自分だって。田村君のことが好きすぎて、自分のことよく考えないで、自分の力で生きようとしていなかったからだって。だから、今は子供のために頑張って生きているって。でもね、あの子、自分の今の姿は田村君に見せられないって。何もかも中途半端で何もできてないからだって」
その話を聞いた時、僕は彼女の心は今もまだ暗い世界にとどまっているのかもしれないと思った。
僕が彼女と過ごした日々の最後のあたりは、彼女の心の中にある暗い部分が、彼女を全く別の人のように変えてしまっていた。そして、僕はそれに付いて行けなくなっていた。僕自身、東京に来ても夢だった設計の仕事ができる就職先が見つからず、暗い闇の底に沈みそうになっていた時だった。最後に電話で話したあの日から、僕は何度か彼女と連絡を取ろうと思った。でもだんだん時間が経ってしまうと、彼女が新しい人生を送っているかもしれないと思うようになって、連絡してはいけないような気がしてきた。もし彼女が自分の生き方を見つけることができているなら、彼女なりに幸せに暮らしているかもしれない。反対に、もし彼女が自分の道を見つけることが出来ていなかったら、それは僕のせいなのかもしれないと感じていた。彼女が僕のことをそれだけ想っていてくれたのなら、僕のしたことは彼女を深く傷つけただろう。
昔のことを思い出しながら空と風景を眺め、もう何もすることがなくなった僕は、先に進むことにした。次は、ここから見えるあの噴煙の上がる火口まで行ってみることに決めて、僕は道の脇に停めているバイクに向かって歩き出した。山の上の草原には、さっきと変わらないたくさんの人たちの姿があった。自然のつくり出した人間でさえ、この迫力ある自然の中では違和感を覚えてしまうようだった。草原と駐車場の間の道路には、さっきと変らない車の列が続いている。
僕は再びバイクに乗って火口がある山の方へ向かって走り出す。火口のある山頂までの景色はこれまでと違って、草原はなくなり表面がぼそぼそとした灰色の岩が地表を覆っている。カーブを抜けるとまっすぐな道の先に白い煙が細く登る山が見えてきた。その荒れた、乾いたような景色は、日本ではないどこか別の国に来てしまったような感じがした。
火口に行くには、その下にある駐車場からロープウェーに乗って行くこともできるようだった。でも、僕はそのままバイクで火口まで行くことにした。硫黄の匂いがあたり一面に広がり、植物がほとんど生えていないごつごつした溶岩の広がる頂上へ出た。この噴火口は、何万年もの活動を続けていて、そんな地球の生々しい活動を眺める僕の一生は、この火山の活動に比べると一瞬ほどのはかない時間なのだろう。僕はその一瞬をでさえ、満足には生きることができていない。もう、もどかしいくらいに不器用にしか。
僕は山頂の噴火口をしばらく一人で眺め、これまで走った生命力あふれる草原とは対照的なこの場所に居心地の悪さを感じた。僕はそんなに長い時間を、ここで過ごすことはできなかった。やっぱり緑の中をバイクで走っているほうが気持ちよかった。だから僕はまたバイクに乗って走り出した。今度は、車の列が続いているさっき通った道へは戻らずに、南側の山を下る道へ行くことにした。この山を挟んだ反対側にある壁の中の平野へ行く道だった。この道を走る車の数は少なく、僕はカーブの続く長い下り坂の道を存分に体感することができた。でもそれは決して楽しいものではなく、小刻みに続くカーブの繰り返しはカーブをうまく曲がるために集中しなくてはならなかったし、恐怖と緊張の時間だった。急な下り坂は自然とスピードが上がり、それでもすぐに次のカーブが待っているので、スピードを緩めハンドルを切り左右のバランスをとりながら重心を落とすことの繰り返しで、少しでもスピートが出過ぎていると反対の車線へはみ出して、そんな時にたまに通る対向車にヒヤリとすることがあった。長い下りの道が終わりやっと平地に下りると、安堵だけではない少し寂しい気持ちになった。後ろを振り返ると、急な斜面と、ずっと遠くにさっき登った頂上があった。あの山にすごくワクワクして登っていたのに、僕はそこから降りて来てしまった。もう、この地で僕がしようと思っていたことは残り少なくなっていた。僕がこの地ですることは、この地から出ることだけになってしまっていた。




