緑の壁を抜けて
9
山を下ってしまった僕は、壁に囲まれた南側の平地の中を西側に広がる壁に向かって走った。このままずっとこの道を進めば、僕は最初にこの丸い世界を目にした場所と反対側の壁に着くことができるはずだった。僕は残り少なくなったこの地での時間がもっと長く続けはいいと思っていた。ここから離れてしまうのが残念なような気がして。今朝、ハーレー男の家を出る時にもそんな寂し気持ちになった。夫婦との時間は、東京で一人で暮らしていた僕にとっては、久しぶりに感じた家族の穏やかな時間だった。また、僕はいつか、ハーレー男とその妻に会いに行きたいと思った。そんな風にハーレー男夫婦のことを思い出していたら、今朝、ハーレー男の妻に九州に着いたら連絡をするように言われていたのを思い出した。僕は次にバイクを停めた時に電話を掛けてみようと思った。それでも、僕がまだ九州の真ん中くらいまでしか進んでいないと知ったら驚くかもしれない。どうして?と聞かれたら、僕はなんて答えようかと考えながら、田植えの準備をしている田園の中の道を壁に沿って走っていた。
この丸い平地から外の世界に出るためには、壁を抜けるための二つの方法があるようだった。南西の山を越える方法と、そこにあるトンネルを抜ける道だった。僕は迷わず山の峠を越える道を選んだ。長い時間を掛けてここまでやっとたどり着けたのに、簡単にこの壁を抜けるのはなんだかもったいないような気がするのだった。これまで何度も山道を走って来た僕にとっては、これが最後の山登りになると思うと、急なカーブの連続もちっとも苦にはならなかった。それよりも、この道をもっと味わうように走りたいと思っていた。でもこのカーブの連続の道は、バイクで走るのをじっくりと味わって走るのにはちょっと急すぎた。ヘアピンのカーブを一つ曲がってもまた次が、そしてまた次の急なカーブが待ち構えていた。その小刻みな繰り返しはまるで、この地を守る壁が「ここはそう簡単には越えさせない」と僕に言っているようだった。僕はギアを落とし、アクセルを全開にしてここを登っていく。最初は車がすれ違うのに十分な幅があったのに、途中からはすれ違うのがやっとなくらいになっていた。僕はカーブを曲がるのに大きく回りすぎないように注意しなければならなかった。僕のバイクもこの壁に必死に挑んでいるのが、バイクにまたがっている僕の太ももに温度として伝わってくる。どんなに急なカーブを曲がっても次のカーブがまっていて、僕がまた次のカーブをやっと曲がった瞬間、山と山のあいだにぽっかりと開いた三角形の空間に大きな白い三本の翼が見えた。あまりにも突然に現れたその翼にビックリした僕は、カーブを曲がり損ねてしまいそうになった。カーブを曲がると白い翼は見えなくなってしまった。だんだんと周囲が明るくなって峠の上まで走ると、そこには白い翼を付けた、たくさんの風力発電の風車が回っていた。それは峠の上の展望所から壁の外側の斜面に沿ってたくさん建てられていた。この峠にある駐車場のすぐ横に三基、そしてこの山の中腹から壁の外側の斜面に、ここから見えるだけでも十二基の風車が見えた。僕は駐車場にバイクを停めると展望所に向かってゆっくりと歩いて行った。そして、展望所にまっすぐにのびる道沿いに立つ風車の真下まで来ると立ち止まって、僕の頭上に回っている風車を見上げた。遠くからは静かにゆっくりと回転しているように見えたけれど、近づくとシュッーシュッーと風を切る大きな音がした。もしこの翼がこの大きな支柱から外れてしまったら…、そう考えるとなんだか怖いような気がした。壁の外側から吹いてくる強い風がこの大きな三枚の翼を回しているのだった。風車はそれぞれに少しずつ違う方向を向いていて、回転するスピードも少しずつ違っている。ここから見える一番端にある風車はピッタリと動くことをやめてしまっていた。故障しているのだろうか、僕がいくら心配してそれを見ていても、一向に回転し始める気配はなかった。
僕は展望所の先端でこの地で見たのとは反対の端にある壁の上から中の平地を見降ろした。正面には僕がさっきまでいた山の上の火口の煙が見えた。山の上のくぼ地から見た時には山が重なっているように見えていた。けれど、ここからは山の峰が大きな波のように東側の壁から伸びている。その山のずっと向こうには、僕が最初にこの地にたどりついた北側の壁を見ることができた。北側の平らな壁が中の世界と外の世界を隔てている。僕の後ろにも外の世界が広がっている。外側の世界はまるで、僕がそれを見るのを拒んでいるかのように白くかすんでいた。たぶん外の平地のずっと先の方には海が広がっていて、そこから吹きあげる強い風がこの壁に当たって風車を回しているのだろう。
僕が壁の中の平地を走るときにはこんな強い風を感じなかった。この壁が、中の人が暮らしている平地を守っているのだろう。この中に住む人は、自分たちが不思議な平地の中で、この壁に守られて暮らしていることを感じているのだろうか。みんな、普通に暮らしているように見える。初めは、なぜこの丸い平地に人が住もうと思ったのか不思議だったけれど、今はなんだかそれが分かるような気がした。僕は自然の偶然が作り上げた高い壁が、中の世界を守っているとしか思えなかった。だから、ここで人が暮らし始めたのかもしれない。ここで暮らすことは守られて暮らす安心感と、大地の不思議なパワーを感じながら暮らすこと。自分の持っている力を引き出してくれるような気がする。もしかしたらそれ以上の力が引き出されるのかもしれない。僕はここが大好きになってしまった。もしできることなら、僕はここで暮らしてみたいと思った。
僕はこの地に引きとめられるような、離れたくないような気持で展望者からの景色を眺めていたけれど、そろそろ終わりにしなければと思った。いつまでも、ここから壁に囲まれたこの世界を眺めていても僕は行かなければならなかった。僕はもう十分、この地のパワーを感じることができていた。出発の準備は、もう整っている。
「こんにちは、田辺です」
僕は約束していた通り少し遅くなってしまったれど、ハーレー男の家に電話を掛けた。
「田辺君?遅いよ、電話がかっかってくるのずっと待っていたのよ。こっちからかけようと思ったけど、バイク乗っている時だったら悪いなって思って」
ハーレー男の妻の元気のよい声が聞こえて来た。今朝、さよならを言ったばかりだったのに、僕はまた彼らに会いたくなった。
「無事に九州に着きましたよ。でもまだ、鹿児島にはずいぶん遠いですけど」
僕は、電話の向こうにいるハーレー男の妻に、僕が今いる場所のことを話していた。
「田辺君、昨日は四国に寄り道して今日も?でも、いいんじゃない、鹿児島までそのまま帰るより、ずっと楽しそう。田辺君、なんだか昨日よりずっと声が明るいし、きっといいところなんだろうね、そこは」
ハーレー男の妻はなんだか楽しそうだった。
「ええ、すごくいい所ですよ。いくらここにいてもずっと見ていたいような、すごい場所ですよ。ずっと前に、ここのことを教えてもらっていたのに、今日やっと来ることができて…、なんだか、もっと早くにここに来ていたらって思っていたところです」
僕のいるこの場所のすごい景色やなんかを上手く言葉にするのができなかった。ハーレー男の妻に、僕がいる場所について少しでも分かって欲しかったけれど、それを言葉に表現することは僕には難しいことだった。ちょうど彼女が、僕にこの地のことを教えてくれた時と同じだった。
「ふうん、田辺君がそんなに言うんなら、きっといい所だろうね。ねえ、わざわざ寄り道して行くってことは、好きな子でも住んでいるの、そこに?」
ハーレー男の妻は、僕からの電話で何かを感じ取ったのだろうか?僕はこの人をごまかせないと思った。
「いえ…、学生のころに僕が好きだった人が一度行ってみるといいって、ここを教えてくれて」
僕は、ハーレー男の妻に僕の素直な気持ちを話してしまっていた。
「へえー、もしかして田辺君はまだその子のことが好きなの?それともそこに行って、その好きだった子のことを思い出したりしたの?」
ハーレー男の妻の声が急に大きくなった。
「わかりませんよ、そんなの。でも、ここに来たら彼女に会いたくなって、こんなことをあなたに話したりするの、なんだか恥ずかしいですね。もういいですから、高野さん達も一度ここに来てみるといいですよ。バイクで走ったらきっと最高ですよ」
僕は恥ずかしさを隠すようにそう言った。
「そう、田辺君やっぱり好きな人いるんじゃない」
僕の照れ隠しなんてどうでもいいようだった。ハーレー男の妻は興味津々になってしまっていた。
「好きな人って言うか、好きだった人ですよ。もう十年も会っていないし、連絡もしていないから。だた、そんな風に思っただけですよ。あんまり素敵なところだから、昔のことを思い出しただけですよ」
「そう、でも田辺君がそんな風に思ったってことは、その子に会いたいからじゃないの?だからそんな遠くにまで行ったんでしょう?」
ハーレー男の妻に旅の報告をするための電話だったのに、話がこんな展開になってしまったので、僕はここへ来た理由を話さなければよかったと後悔していた。
「ただ、何となく来てみたくなって」
「東京から鹿児島までバイクで変える勇気があるのに、その子に連絡するなんて電話一本で済むでしょう」
ハーレー男の妻の声は、まるで母親のように真剣だった。
「そうですか?僕にとってはそんな簡単なことじゃないですよ。電話番号だって変わっているかもしれないし、急に連絡なんかしたら、おかしいですよ」
「田辺君らしいわね。まあ、あなたの好きにすれば。でも、たぶん、田辺君はそこで何か見つけたのよ、大切なものを。だから、さっきも言ったけど、昨日よりずっと元気になってる」
電話が長くなってしまいそうだったので、僕はハーレー男の妻にまだ旅の続きがあることを伝えた。
「僕、これから高速走って、鹿児島へ向かいます。着いたらまた電話します。でも、ここは本当にいい所だから、一度ご主人と来てみるといいですよ」
「うん、ありがとう。あの人にも言っておくね。あの人のことだから、すぐにでも行ってみようって言うわよ。あの人、田辺君が朝家を出てからまた布団に戻って、まだ寝てるのよ。よっぽど疲れていたのね。今度はあの人起きているだろうから、着いたらきっと電話ちょうだいね。じゃあ、田辺君気をつけてね」
ハーレー男の妻は僕にそう言って電話を切った。
僕は、ハーレー男の妻との電話が終わると、ここから離れる決心がついていた。壁の上に立つ僕は、壁の中の地に背中を向けてバイクが置いてある駐車場へ向かって歩き始めた。もう、ここに引きとめられるような感じはなくなっていた。僕はまたバイクに乗って旅を続けるのだから。
壁の内側と外をつなぐ道がある山肌の草原に、山の美しい曲線に沿って波のように白い風車がいくつも回っている。まるで、この丸く囲まれた地から離れて行く僕を見送るために風車が回っているようだった。今日の始まりは四国と九州をつなぐ船が出る港のある岬に並ぶ風車だった。そして今、この地を囲む壁に立つ風車。海と山、まったく別の場所にあるものが今日の僕をつないでいた。ただの偶然なのだろうか?港へ向かう岬にある風車を、僕は十年以上も前に彼女と見たのだった。そして、今僕が見ている風車は、昔彼女が僕に教えてくれたこの地を囲む壁の上にある。二つをつなぐものは、彼女と僕だった。僕があの時彼女に「もういいだろう」と別れを告げなかったら、僕は彼女の望む通りに彼女のそばにいて、彼女はこの不思議な丸い空間を僕に見せてくれただろうか?でも、そうならなかったから、僕は四国から九州に向かう船の上でこの地へ来ることを決めた。そしてここへ来て、彼女が教えてくれた黄みどりの壁に囲まれた丸い場所を見ることができた。そして、僕はここで何かを見つけたのかもしれなかった。
「でも、田辺君はそこで何かを見つけたのよ、たぶん。大事なものを」
ハーレー男の妻の真剣な声が、電話を切った後もずっと僕の耳に残っている。
壁を下るなだらかな坂の道は、壁の外の広い平野に向けてゆっくりとしたカーブを描きながら進んでいる、ほんとうに壁の外側に出てしまった。この道を進めば、鹿児島へ向かう高速の入口にたどりつき、僕はこの地と遠く離れた場所へ行ってしまう。でも、旅の目的地まで僕は行かなければならなかった。空に、ゆっくりと降りてくる飛行機の姿が見えた。飛行機に乗っていたら昨日のうちに鹿児島に着いていただろう。そうしたら、僕はこの地へ来ることはなかった。田辺さんがバイクを手放すと言わなかった、高速の途中でハーレー男に付いて行かなかったら、僕はここへ来ることは出来なかった。
空港の脇を通り抜けた先にまっすぐに続く道は、両側に枝を広げた大きな木が均等に植えられていた。それは、道のちょうど真ん中で左右の枝が重なり合って緑のトンネルを作っていた。僕はその緑のトンネルめがけてスピードを上げ進んで行った。緑の葉の影が涼しい空間をつくり、気温がこれまでよりグッと低くなるのを感じた。僕は緑のトンネルの中で一列に並んでいる車の列をゆっくりと端まで追い抜いて行き先頭で信号を待つ車の前に停まった。信号は赤だった。右側の遠くの方に、僕がさっきまでいた緑の壁と白い風車が見える。この緑のトンネルは、あの場所から日常の世界へと戻る、多くの車が止まっていた。サイドミラーを見ると、僕の後ろにたくさんの車が並んでいた。みんな、今日一日どこかで過ごした帰りなのだろう。疲れたような顔をした人たちの姿がそこにあった。
サイドミラーに映る車の列に、古い白い車に乗った大きなサングラスを掛けた若い母親と子供の姿が見えた。二人は僕と同じ場所へ行った帰りなのだろうか。子供は着かれてしまったのだろう、眠っているようだった。母親の顔は大きなサングラスでよく見えないけれど、何か幸せなことがあったようにバイクに乗る僕の方を見て微笑んでいる。そうして、目を覚ました子供と、僕の方を見ながら楽しそうに話をしている。何をそんな楽しく話をしているのかは僕には分からないけれど、とても幸せそうな笑顔の二人がいた。仲のよさそうな親子の姿だった。彼女も、彼女の子供とこんな風に笑って暮らしているのだろうか?もし僕が彼女が教えてくれた黄みどりの壁に囲まれた丸い場所へ行ったと話したら、彼女はこんな風に笑って喜んでくれるだろうか?
ハーレー男の妻がさっきの電話で、「連絡してみたら?」と言った。僕は、僕が彼女を傷つけてしまったと思っていたからずっと連絡できずにいたけれど、ここへ来たことを彼女に連絡することはいいことのような気がしていた。きっと彼女は、僕の報告を喜んでくれるかもしれない。鹿児島へ帰って彼女の友人に聞けば、電話番号だって知ることができる。せっかくここまで来て見たのだから、そうしてみることもいいことなのかもしれない。そう思ったら急に、僕は早く鹿児島へ帰りたくなった。僕が住む東京よりも、今は彼女の住む町に近くなっているけれど、もしかしたら鹿児島へ帰った時の方が彼女にもっと近くなれるような気がした。
僕の旅も今日で半分が終わってしまう。でも昨日と今日の二日間で、僕は思いもよらなかった遠回りをしてしまった。それでも、僕にとってはとてもいい時間を過ごすことができた。バイクを僕に譲ってくれた田村さん、僕を四国に連れて行ったハーレー男とその妻、僕にあの場所のことを教えてくれた彼女。この人たちがいなかったら、僕の旅は単調なつまらないものになっていたかもしれない。もしかしたら、最初からこうなることが決まっていて、僕はここへ来たのかもしれない。それなら、やっぱり彼女にも…。
信号が青に変わり、僕は左に向けてハンドルを切ろうとしている。サイドミラーには白い車に乗った親子の姿が映っている。そして、大きなサングラスをかけた母親の隣に座る子供が手を振っていた。いったい何に向けて手を振っているのか僕には分からないけれど、サングラスの母親と一緒に満面の笑みを浮かべて手を振っている。それはまるで、僕に向かって手を振ってくれているようにも見えた。
僕はだんだんと人工的なものが立ち並ぶ街へ向かって進んでいた。もうさっきまでのような緑はなくなっていた。なんだか僕は少し寂しいような気がした。さっきまでのようなワクワクするような、気持のいい走りではなかった。しばらくして高速のインターの入り口を示す標識が見えた。僕のそんな寂しいような気持をかき消すように、急に昨日走っていた高速の道もまた懐かしく思った。この高速を二時間走れば、僕の目的の鹿児島へたどりつけるはずだ。僕は左に曲がるウィンカーを出して、その高速へ続く細いカーブの中に向かって進んで行った。
10
「ねえ、まだ作文できないの?」
ノートパソコンに向かう私の隣で、花が聞いた。
私はゴールデンウィークのドライブに出掛けた翌日、花に宣言した通り日記を書いた。花と一緒に買い物に行き、日記帳を二冊買ってきた。気分から盛り上がろうと、かわいいキャラクターのノートと、もう一つはいかにもいい文章が書けそうなシンプルなのにした。家に帰ると、リビングのテーブルに花と向かい合って座り、花は宿題のプリントにカラフルな絵日記を書いた。私は迷ったけれどシンプルなほうのノートに昨日のドライブに出掛けたことを書いた。初めは出掛けた場所やランチを食べたお店の名前やメニュー、おみくじのことなどを箇条書きにしていた。そのうち、私が思ったことや感じたことを付け加え始めたら、もう書くのが止まらなくなってしまった。次々とあれもこれもと残しておきたいことが湧きでてくるようだった。
私が花と出かけたあの壁の中の丸い場所のことを日記に書くことが三日間続き、とうとう私が新しく買った日記帳はいっぱいになってしまった。それでも私には、まだ買き足らないことがたくさんあったので、続きをパソコンに書きこむことにした。私がパソコンに向かって日記を書き込むことを、最初は花もおもしろがって見ていたけれど、それが毎日続くと当たり前になっていしまい、あまり興味を示さなくなってしまっていた。それでも、時々パソコンの画面を覗き込んで、
「ああ、うしね。うしを見たことを書いているね」と言っていた。
花は私の日記がいつまでたっても終わらないことを不思議がっていたので、
「日記を書こうと思っていたら、書くことがいっぱいになってね。もう日記じゃなくて作文にしようと思って」
私は、花に言い訳するように説明していた。仕事から帰り夕食やお風呂を済ませ、花がテレビを見ている横で、私はテーブルの上にノートパソコンを持ち出して来て、少しずつ文章を書くことを続けていた。もう三日坊主になるには、とっくにそれを過ぎてしまっていた。今日でちょうど書き始めて一週間になっている。だから、そんな私に呆れてしまった花がそんな風に聞いて来たのだろう。
「ねえ、それお仕事の宿題なの?」
「ううん、違うけどママの宿題かな。花ちゃんとのドライブのことずっと忘れたくないからね、こうして書いておけば忘れちゃてもまたすぐに思い出すことができるでしょう?」
「でも、ママ書きすぎじゃない?」
もう一週間も書き続けているのだから、花の言う通りなのかも知れなかった。
「だって、書きたいことがたくさんあるの。そのうちに終わるから、きっと」
これまでの私は、仕事が終わって家に帰ったら花のために夕食を準備して、洗濯などの家事を済ませてしまうと、その後は何もすることがなくなってしまっていた。花と一緒にテレビを見たり、ゲームをして夜の時間を潰していた。そんな何もすることのない毎日を何年も続けて来た私が、今は日記を書くことがまるで小説家にでもなったような気分で楽しかった。これが、今の私がやりたいことだと感じていた。
「ねえ、ママ。今度の日曜日は何をするの?」
花は、あのドライブに出かけた日から、次の休みの日が来るのを楽しみにするようになっていた。
「花ちゃんはどこかに行きたいの?」
私はパソコンの画面から目を離し、花の方を見て言った。
「うん、今度はね、山登りに行きたい」
「そうだね、山登り全然行っていなかったね」
数年前に山登りにすっかりはまってしまった私は、ウエアや持ち物だけ揃えてしまったらもう満足してしまい、まだ数回しか山登りに出掛けていなかった。
「じゃあ、山の上から海が見えるところに登ってみようか?去年の夏に登ったでしょう、花ちゃん、あの山覚えてる?」
「ああ、あの山ね。すごくきつかったから、もちろん花ちゃんも覚えてるよ」
そこは頂上にたどり着くまで三時間くらいかかる高い山だった。でも、登りきった頂上から見える一面に海の広がる景色は、それまでのつらい登り道なんて吹き飛んでしまうくらいのものだった。
「じゃあ、今度の日曜日にお天気だったら、山登りに行こう」
私はそうすることに決めた。
「やった!花ちゃん、てるてる坊主つくるね」
次のお出かけの予定が決まった花はすごくうれしそうだった。それを見ている私もなんだかとても幸せな気持ちになった。
「あっ、ママ。携帯鳴ってるよ」
バックの中にしまったままの、私の携帯電話が小さく震えていた。
「花ちゃん持ってきてくれる?ママ、日記書いているから」
「うん」
花が元気よく私のバックが置いてある部屋の隅へ向かって飛び跳ねるように走って行った。元気な花の姿は、とても眩しかった。
おわり




