緑、トラックにのった牛たち
5
朝起きてみると、昨日の夜に雨が降ったようで空気が湿っている匂いがした。私は昨日の夜遅くまで起きていたのに、雨の音には全く気がつかなかった。窓の外の町の中が薄い霧で覆われてしまっているのを見て、今日出かけるつもりの山の上は真っ白な霧で何も見えないかもしれないと思って、私は今日の運転がちょっと不安になった。でも、朝に霧が出ている日は、晴れになると聞いたことがあったのでそれを期待することにした。もうすぐ六時になる。私は眠っている花を起こすために、キッチンの隣にある寝室の扉を勢いよく開けて、まだぐっすりと眠っている花に声をかけた。
「花ちゃん、朝だよ。今日はお出かけだよ」
花は、ダブルベットのぐちゃぐちゃの布団の中に埋もれて眠っていた。学校へ行く日に起こす時より少しだけ早い時間だった。いつもは何度声をかけてもなかなか起きることができないのに、今朝の花はぐちゃぐちゃの布団の中からパッと起き出して来て、すぐに昨夜自分で準備していた洋服に着替え始めた。
「ママ、お天気いい?お出かけできそう?」
花は着替えながら、私にそう聞いた。
「霧で真っ白だよ。ママ、運転できるか心配になって来たよ」
花はキッチンと続いている居間の大きな窓を開けて外を確認するように眺めている。
「ほんと何にも見えないね。行けるよね、お出かけ?」
花は、キッチンでステンレスの水筒にお茶を入れている私に向かって心配そうに聞いた。「もちろん、行くに決まってるよ。だってママは、今日のお出かけ、とっても楽しみにしてるんだから」
私は自分に向かって、もう一度気持ちを確かめるように言った。ほんとうは、さっき霧が出た町の中を見て出掛けるのをためらっていた。花と一緒にこの家にいたいような気がしていた。花は私の答えを聞くと安心したみたいで、私が花に渡した水筒をお菓子や双眼鏡などがたくさん詰まっているリュックサックの中しまった。
「朝ごはんは車の中で食べようか?早く出かけたいし」
私が、花に向かって言うと、
「うん、いいねいいね」
花は、嬉しそうに言った。
私はテレビを付けると今日の天気予報を探した。今日の天気は晴れ、山の上の天気も晴れだ。ちょっとがっかりしたのは、黄砂の影響で視界があまり良くないだろうということだった。今日のお出かけに、いつものメガネをはずしてコンタクトにしようと思っていた私は、黄砂で目が痛くなるかもしれないと心配になった。迷ったけれど、やっぱりコンタクトをすることにした。今日はいつもとは少し違う特別な一日にしたかった。私も、花と同じように昨日の夜選んでおいたワンピースに着替えて顔を洗った。それから念入りに日焼け止めを塗り、いつもより丁寧にお化粧をした。花は私が準備をするあいだ、テレビを見ていた。朝の情報番組がゴールデンウィークでにぎわう日本各地の様子を伝えている。今日の花は、テレビに映る行楽地の人たちと同じように自分も出かけることがよほどうれしいのだろう、すごいハイテンションでテレビに映っているそんな様子を私に教えてくれた。
花と私が使ったカップを洗い歯磨きを済ませると、私と花は薄く霧のかかる外へ出た。朝起きて窓の外を見た時より霧は薄くなったような気がした。玄関の外に出ても、今日はまだ、子猫たちの鳴き声は聞こえてこなかった。
「子猫を見に行こうよ」
花は昨日見た子猫達を見に行きたそうだった。
「まだ眠っているよ、起こしちゃったらデブ猫に怒られるよ」
私がそう言うと、花はちょっと残念そうにしていた。
「花ちゃん、もう行くよ。車に乗って」
家の裏の方をのぞきに行こうとしている花に向かって声をかけると、花はあわてて戻って来て、急いで車に乗り込んだ。
「さあ、ドライブにいくよ。花ちゃん準備OK?」
私も花に負けないくらいハイテンションになって言った。私の出掛けたくないような気分はもうなくなってしまっていた。それよりも、これから始まる花との一日が楽しみでしかたなかった。
花と私が乗った車はいつも通勤の車で多い道路を、今日はスムーズに山の方へ向かって走って行く。まだ、今日の活動を始めている人は少ないようだった。私は近くのスタンドに寄りガソリンを満タンにした。そうしてやっと、今日のお出かけの準備がすべて整ったような気がした。
「花ちゃん、今日はどんな遠くまでだって行けるよ。ガソリン満タンに入れたからね」
私は花にそう報告した。そうして、また山の方へ向かって走り出し、一番初めに見つけたコンビニにまた車を停めた。スタンドを出たばかりなのに、またすぐに停まってしまった私を心配そうに花が見ていた。
「またとまるの?」
「朝ごはん買うの。まだ食べてないでしょう。今日は、車の中で食べるって言ったでしょう。さあ何か買ってこよう」
コンビニの中で花は何にしようか決められずにいたので、並んでいるおにぎりの中身を教えてあげると、大好きな鮭のおにぎりがいいと言った。それとパックに入ったオレンジジュースを、私はカフェオレを選んだ。そうしてまた車に乗り込むと、あとは山の上を目指して進むだけだった。花は車の中で、おにぎりを美味しそうに食べている。私は冷たいカフェオレを飲みながら、温かいコーヒーをポットに入れてくれば良かったなんて思っていた。
花と私を乗せた車は、国道を東に向かって走った。朝日に向かって走るので前を見て運転するのがとても眩しかった。気づいたら霧はもうなくなっていた。いつもと変わらない町の中の道だった。そうやって三十分くらい走り、山の上へ向かう道路の入り口にたどり着いた。まだ私が子供の頃は有料道路だったこの道を、姉と一緒に母が運転する車に乗って通った時のことをかすかに覚えている。小さい頃の細かなことをよく覚えている花と違って、私は子供の頃ことをあまり覚えていない。それは大きくなってからも同じで、高校の同じクラスの友人の名前さえもう思い出せないでいる。でも、この道を登って、山の上の草原に行った記憶はまだ残っていた。どんな用事でそこへ行ったのかは思い出せないけれど母が姉と私を連れて山の上の町へ行き、そこにあったホテルで私が頼んだ牛乳に氷が入っていてびっくりしたことだけはよく覚えている。私はあのとき以来、一度も氷の入った牛乳を飲んだことはなかった。だから、あの時のことを今でも思い出すことができるのだろう。
今はもうこの道は有料ではなくなって、誰でも自由に通ることができるようになっていた。この道は、冬になると雪が積もり、チェーンをつけないと登ることはできなかった。だから、私が知っているこの先にある山の上の景色は、雪の降っていない暖かな季節だけだった。
花はいつも車に乗るとすぐに眠ってしまうのに、今日はおにぎりを食べてしまった後も起きていて、ずっと同じような景色の続く山の中や、カーブを曲がるときに見える谷間を覗き込んだりしている。道の途中にある渓谷にすでに車が数台止まっていて、バックパックを背負った中年の夫婦が林の中に入っていく姿が見えた。私は彼らに、周囲は木々が生い茂る深い山の中でどこへ行くのか聞いてみたかった。鳥の声と風の音しか聞こえない、たった二人で歩くには寂しすぎるような深い山の中なのにと思った。
「ママ、うし! うしがいるよ」
突然、花の大きな声が聞こえて来た。花と私が向かう山の上では、数えきれないくらいの牛を見ることができるはずだった。でも、こんな山の中の道に牛がいるはずはないように思った。
「うそ、牛って、どこにいるの?」
花には悪いと思ったけれど、ほんとうだろうかと疑うような気持で私は花に聞いた。
「ほら、あそこ!トラックにうしが乗ってるよ」
花が指をさす前の方を見ても、山を登る曲がりくねった道にはあたりに生い茂る緑しか見えなかった。でも、木々に包まれたカーブを曲がると、次のカーブを曲がろうとしている青いトラックの後ろ姿が一瞬だけ見えた。青いトラックの荷台に黒い大きなものが乗っていた。花と私の乗る車が、たった今トラックが消えたばかりのカーブを曲がると黒い大きな荷物をのせた青いトラックがさっきより近くに走っていた。よく見ると、その青いトラックの荷台に乗せている黒いものが花の言った牛のようだった。そんなに大きくはないトラックは牛が一頭だけでもいっぱいになりそうなのに、二頭の黒色の牛がピッタリとトラックの荷台に収まっている。トラックがカーブを曲がるたびに、その二頭の黒色の牛はよろけるのをしっかり我慢していて、せつないくらいだった。それ、乗っている牛に対してトラックがあまりにも小さいように感じていたので、中の牛が飛び出したりしないか心配なほどだった。私は隣に座っている花があまりに喜んでいるので、アクセルをいっぱい踏んで牛を乗せた青いトラックに追いつこうとした。私の古い車は私の思いに答えることは難しいようで、ウンウンと低い音を出すばかりで一向にスピードは上がらなかった。パワーが足りないうえに、急や登り道だ。それにスピードを上げても次のカーブが待っているので、すぐにブレーキを踏んでスピードを緩めないといけなかった。それでも私達の車は少しずつ牛たちの乗る青いトラックに近づいていた。私の車よりも、牛をのせたトラックの方がもっとゆっくりしか登れないようだった。これまで花と私が乗る古い車はゆっくりとしか進めなかったので、後ろには数台の車が続いていた。私達のよりも、もっとゆっくりと走るトラックは前を走っていることで私はちょっとほっとしていた。
「牛が二頭も乗っているよ。あれってトラックが小さすぎだよ。ぎゅうぎゅう詰めだね」
突然の牛をのせたトラックの出現に私も興奮していた。
「ママ、二匹じゃないよ、もう一匹いるよ。三匹だよ」
花はもっと興奮していて、前にのりだすようにして前を走る牛たちを見ていた。よく見ると大きい牛を挟んで、それよりもすこし小さい牛がトラックの隙間を埋めていた。これまで大きい牛に隠れて見えなかったようで、小さい牛が中央にいる大きな牛を挟むようにしていた。トラックの荷台が小さすぎるように思ったけれど、カーブでよろけても隙間に小さい牛がすっぽりと収まっているのでトラックの荷台から振り落とされる心配はなさそうだった。
突然、トラックの右端に乗る小さい牛が、トラックの荷台から外に向かって茶色いものを噴き出しはじめた。
「花ちゃん、あれってもしかして…、ウンコ?」
「ガーン、飛んでくるよ、うんこが…、ママ逃げなきゃ」
花はちょっと黙って見ていたけれど、それが本当に牛のうんこだと分かると、大げさに両手を頭の上にのせて叫んでいた。私は牛たちのそれを逃れるようにスピードを少し緩めて、トラックとの距離をとって後ろをゆっくりと着いて走った。
「あのうしは、どこにいくの?」
「あれは、山の上の草原に行くの。夏の間は草原でたくさん草を食べてのんびり過ごして、寒い冬になったらまた家に帰ってくるの」
「草原で、うしは迷子にならないの?」
「広い草原だけどちゃんと柵がしてあるし、名前も書いてあるから大丈夫」
前に来た時に何度も見たことがあったし、夏に草原で過ごすここの牛たちのことはよく知っていた。このあたりに飼われている牛達は、夏になると草原の牧草地で過ごすためにふもと町からわざわざ移動してくる。そして雪の積もる冬になると、牛たちはまたふもとの町に戻って行くのだった。
「名前ってどこにかくの?」
「牛を飼っている人の名前とか、番号みたいな数字を牛の体に大きく書いてあるの」
「ちょっとかわいそうじゃない?ハルとかペンキで体に書くなんて」
花が私の名前を言ったので、「ママを牛にしないでよ」とすぐに言い返した。
春になって、黄みどり色の若葉を出した木が隙間もないほど生い茂り、道のそこだけがぽっかりとトンネルのようになっている。その黄みどり色のトンネルの中に、木々の隙間から朝の光が差し込みきらきらと輝いている。そして、そこを走る青いトラックとそれに乗っている黒色の牛たちに光が反射して、まるで夢を見ているような不思議な感じがしていた。
山道を登りきると急にあたりが明るくなった。それまで両側を覆っていた木々がなくなって、周りは一面の草原に変わりまぶしいくらいの真っ白な世界になった。黄みどり色の牧草と朝露に朝の光が反射していた。
カーブが続く山登りを緊張しながら運転していた私は、見晴らしのよい草原の中の道に出てホッとした。そうして、突然目の前に現れたそのあまりに美しい景色にびっくりしてしまった。これまで何度も見たことがあったのに、その度に何度も感動を繰り返していた。
「花ちゃん、すごい、きれいすぎる、まるで天国だよ…」
「うん、うん、すごくきれい」
花も私も、そんな簡単な言葉しか出て来なかった。
草原はずっと先まで、視界の限り低い丘が重なり合って続いている。その中を緩いカーブを描いて走るこの道だけがそこにはあった。言葉にするのがもどかしいくらいの風景がそこに広がっている。私は、もし天国があるとしたら、こんな感じなのかもしれないと思う。花と私が暮らす地球にあるのに、現実の生活を切り離されて人の気配を感じさせない世界だ。
「ママ、またうしがいるよ」
道の両側沿って丸太と針金でつくられている簡単な柵がずっと続いている。その柵に囲まれた広い草原の中に牛たちの姿が見えた。朝の静かな空間に、牛たちだけのゆっくりとした時間を過ごしている。草原の草の朝食を食べている牛や、足を折り曲げてドスンと草の上に腹ばいに朝寝をしているのもいた。
気がつくと、私たちの車の前を走っていた牛たちを乗せた青いトラックはいなくなっていた。ずっと先に行ってしまったのか、それとも目的の場所に到着してあのぎゅうぎゅう詰めのトラックから牛たちだけの自由の空間に抜け出すことができたのか?この世界は花と私の二人と牛たちと、朝の美しい光だけのようだった。
ここは、ずっとずっと大昔に、火山が大噴火を繰り返してできた大きなカルデラがある場所だった。花と私が車で走るこの道は、大噴火で放出された大量の火山灰やなんかが埋め立ててできた外輪山と呼ばれるカルデラを囲っている山の上にあった。カルデラの中は丸い形をした広い平地が広がっていて、そこには人が住む町が村あった。山と言っても私達が登って来た北側はなだらかな高原になっていて、私はずっと小さい頃からこの外輪山が囲んでいるこの場所が大好きだった。なぜ好きなのか理由はうまく説明できないけれど、今までに何度もここを訪れその度にこの自然の美しさと不思議さに感動していた。そうして、今まで何度かこの不思議な場所のことを誰かに話そうとしたことがあった。でも、この地のことをうまく説明することができなくて、それがもどかしくなって「行ってみると分かるよ、絶対に行ってみるべきだよ」としか言えなかった。私がどんな言葉を使っても、ここの不思議さと美しさは一パーセントだって伝わらないような気がした。
私は花をこの丸い地を一望することができる場所へ連れて行くことにした。展望所の手前にある駐車場に車を停めると、なだらかな坂道を歩いてカルデラの内部に突き出た展望所へ向かった。そこへ着くまでは結構歩かなければならなかったけれど、花は元気よく展望所のある先端の方へに向かって駆けて行った。まだ朝の早い時間だったので、ここを訪れている人の数は少なかった。展望所へ向かう途中も、空の水色以外はどこを見ても一面を覆う黄みどり色の草原のなだらかな丘が続いていた。展望所の先端に着くと、目の前の草原が突然丸くぽっかりとなくなっていた。そして、その中には人が住む町や村がある大きな丸い平野が見えた。うっすらと中の町を覆う白い雲が、この壁が囲む場所に蓋をしているように見える。いつも見上げているはずの雲が、この場所では私達よりも下の方にあった。
「花ちゃんは、このずっとあっちの方からぐるりと回って来たのよ。ほら、あそこに車が走っているのが見えるでしょう?」
壁の中の空間の上を通って向かいの壁の上を指差した。遠くに走る車がキラキラと光っていた。
「ねえママ、どうしてこんな大きな穴があいているの?」
花は両手を大きく回しながら聞いた。
「花ちゃん、これは穴みたいに見えるけど穴じゃないよ。ずっと昔、火山が大爆発してね、こんなまるく囲むような山が出来たって。穴じゃなくて丸い土手みたいなものね」
私もよく知らないので、こんな説明では花にはさっぱりわからないようだった。そして、花は壁の中を見下ろすことができる端の方へ走って行ってしまった。
「ママ、空が近いよ。いつもより近くにあるよ」
花は、空に向かって手を振っていた。
「触れるかもよ」
私も空に向かって手をあげてみた。本当に触れるくらい空が近くに見えた。花は遠くで「届くわけ、ないよ」と言っていた。
私はこの黄みどり色をした壁の上で、花の写真を撮ってあげることにした。花はすぐにカメラの前から逃げ出すので、この壁の上に立つ花とその後ろにぽっかりと開いた穴を一枚の写真にするのに苦労した。そうしたら今度は花が私の写真を撮ってくれると言い出して、デジカメの操作を一から教えてあげなければならなかった。でも花が初めて撮った写真は、私がまるで丸い空間の上に浮かんでいるように見える不思議なものだった。
あまりに日常とは違う景色を目にして、私は心臓がぎゅっと締め付けられるような感じがした。でも、何かが違う、気持ちが焦るような心臓のドクドクとなる音が早くなるような気がした。
「このままではいけない。あなたは、もう前に進まないと」
誰かが私に声をかけたのではない。急に、私の頭の中にそんな誰かの言葉が浮かんだ。
毎日を同じようなことの繰り返しで、何年も前からずっと止まってしまったままの私がここにいた。
花さえいてくれたら私は生きていける。もし花がどこかへ行ってしまったら、私はどうなってしまうのだろうといつも考えていた。でもそれまでには、まだ時間がたくさんあると思っていた。だから、そのうちに私の人生を変えてしまうような出来事が、ある日突然起こるだろう。そうすれば、私から離れて行く花の未来をうらやましく思うことや、さみしく感じることはなくなって、私も自分の好きなことに打ち込める日々が来るだろう、そういつも期待していた。私は、誰かがこんな今の生活から、私を引き上げて来ると信じていた。ずっとそう思っているだけでこれまでそんなことは結局一度もなかったのに、それでもいつか誰かが私を助けてくれるだろうと思ってばかりだった。
いつから私は未来に進むのを止めてしまったのだろう。
ただ待っているだけの私に、人生を変えてしまうような出来事が突然起こったりするのだろうか。
私は今までずっと誰かに頼ってばかりに生きて来た。小さい頃は母親や姉がそれだった。自分で何かを決めることはできなかった私は、いつも母や姉に相談して答えを出してもらっていた。私はそれに従っていると困ることはなかった。相談ができなかった時には、姉がそれまでにしてきたことを真似ていた。私が成長するにつれて相談することは少なくなったけれど、重要なことを一人で決めたことはなかった。それは高校を卒業するまで続いた。
私は高校を卒業すると、隣の県の大学に入学して一人暮らしをすることになった。知らない街で初めて一人暮らしする私のために、大学が始まるまでのあいだ母が引越しについて来てくれた。アパートを決め、必要な電化製品や食器などの生活用品のほとんどを母が選び、銀行に行っていろいろな支払いの手続きもしてくれた。母は大学のある街に3日間いて、私が一人で生活できるように準備を整えると帰って行った。駅で特急の電車に乗り込み、窓の向こうから私に向かって手を振っている母を見ていたら、私は涙がボロボロとこぼれてきた。知らない街に一人ぼっちになってしまう寂しさと、それまでずっと一緒に暮らしてきた母との別れが悲しかった。
大学生活が始まると、少しずつ一人での生活にも慣れ、同じ大学の新しい友達もできた。私と同じように地方からこの大学に来ている学生も多く、一緒に講義を受けて学食で昼食を食べ、大学が終わると誰かのアパートの部屋に集まって夜遅くまでおしゃべりして過ごすこともあった。大学が休みの日は、新しくできた友達と大学のある新しい街をめぐった。毎日が自由で楽しかった。自分のアパートに夜遅く帰っても、ご飯の代わりにお菓子を食べても誰も私を注意する人はいなかった。それでも何か迷うことや、困ったことがあると実家に電話をして母に相談していた。夏休みになると実家のある町に戻り、一人暮らしを始める前と同じように家族と一緒の毎日を過ごした。
夏休みが終わって大学の授業が始まるとまだ一人での暮らしが始まった。最初はすこし寂しかったけれど、しばらくすると自由な一人暮らしに戻っていた。大学の試験が終わると私は生まれて初めてのアルバイトをすることになった。大学の友達がアルバイトをしているレストランで、新しいアルバイトを探しているというので、私はその面接を受けに行くことにした。そして、翌日の放課後からそのレストランで働くことになった。私がアルバイトすることに決めたレストランへは、アパートから自転車に乗って十五分くらいで行くことができた。海に面した所にある大きなレストランで、一階は普通のレストランで、二階は大きなホールになっていて海を一望することができた。夜になるとホールでパーティーや宴会が開かれ、休日には結婚式の会場にもなった。夏になるとテラスにはビアガーデンがオープンした。
そのレストランには多くの大学生のアルバイトが働いていた。学校はバラバラだったけれど、同じ学生同士ということもあってみんな仲が良かった。私の仕事は二階のホールで開かれるパーティーや結婚式のサービスをすることだった。私は和食、洋食のテーブルマナーや配膳の仕方、ドリンクによって変わるグラスや、料理の取り分け方、ナプキンの折り方などたくさん覚えることがあった。テーブルにクロスを掛ける時には、折り目の向きにまで決まりがあった。アルバイトを始めたばかりの頃は、私は仕事の内容を覚えることに必死で、おまけに小さな頃から人見知りが激しい性格だったので、ほかのアルバイトの学生たちとなかなか馴染めなかった。仕事でわからないことがあっても他のアルバイトの子に聞けずにいたので細かいことまでメモをとるようにして、自分で分かるようにしていた。私はその時初めて、人に頼らずに自分の力で何とか解決しようと思っていたのかもしれない。
私がレストランでアルバイトを始めてしばらくたったある日、のぞみちゃんという新しいアルバイトの女の子が入ってきた。のぞみちゃんとは学部は違ったけれど同じ大学に通っていて、同い年だった。彼女はとても明るい性格で、その日のうちにほかのアルバイトの子とすぐに仲良くなっていた。もちろん彼女は私にも、「同じ大学だって聞いたから」と、すぐに声を掛けてくれた。そして、その日のアルバイトが終わると私たちは一緒に帰ることになった。私達は大学のどの講義をとっているか、友達のことやサークルのことなどいろんな話をしながら自転車に乗って帰っていた。途中のそれぞれのアパートのある別れ道まで来ても、私達のおしゃべりはまだ終わらなかった。私達は帰り道の途中に止まったままずっとおしゃべりを続けた。それまで別々に過ごしてきた時間を埋めてしまうみたいに、のぞみちゃんと私の話は尽きなかった。私は大学のほかの友達には言えないことものぞみちゃんには何でも話すことができた。のぞみちゃんも自分のことをたくさん話した。気が付くと夜の国道沿いの道路脇で二時間も話し続けていた。私はこんなに自分の思っていることを話すことができた人は、これまで母親や姉以外にはいなかった。初めて会った日に、私とのぞみちゃんはそれまでもずっと友達だったような親友になっていた。
のぞみちゃんと私はそれから頻繁にお互いのアパートを行き来し、アルバイトが終わると深夜まで開いているドーナツショプに行き、長い時間おしゃべりするようになった。そのころの二人の話題はのぞみちゃんの恋の話だった。のぞみちゃんは同じサークルに好きな先輩がいて、まだ片思い彼女がどうやって先輩に振りむいてもらえるかと悩んでいる最中だった。のぞみちゃんは、彼女の明るい人見知りをしない性格で好きな先輩にも、サークル仲間にもバレバレすぎるほどの猛アタックをしているところだった。私はそんなのぞみちゃんがすごく可愛いと思った。それに好きな人がいるのぞみちゃんがうらやましくて、今になって思えばちっとも役には立ちそうにないアドバイスをしていた。のぞみちゃんに悲しいことがあると「ハルちゃん飲みにいこう」と私を誘った。大学の友達とはいつも大学の近くの居酒屋で飲むことが多かったのに、のぞみちゃんと二人で行くところは、カクテルの名前もよく知らないのに背伸びしておしゃれなお店を探した。のぞみちゃんはお酒がとても強かったので、私もそんな彼女に付き合っているうちに少しずつ飲めるようになっていった。そのせいか大学を卒業するころには焼酎を、記憶をなくすまで飲んでしまうようになっていた。私はサークルにも入っていなくて同じ大学の友達も少なく、おまけに人見知りの性格だったので男の子と知り合うことも、好きなる人さえもいなかった。私の恋にもならないさみしい話題はと言えば、同じフランス語の講義をとっているかっこいい他の学部の男の子くらいだったけど、のぞみちゃんは目を輝かせて「今度、フランス語の講義がある時にその子のことを見に行くから、ハルちゃんぜったい教えてね」と言ってくれるのだった。
のぞみちゃんのサークルの先輩に対する恋はなかなか叶わなかった。のぞみちゃんの好きな先輩には彼女ができた。それでものぞみちゃんは「私の名前は、希望って意味だから」と、わずかな希望も捨てずに頑張っていた。のぞみちゃんにはいろんな友達がいたので、好きな先輩以外にもお気に入りの人を見つけては、そのたびに私に教えてくれた。同じ大学の人なら、講義の合間に待ち合わせをして見に行ったりもした。のぞみちゃんがお気に入りになる人は、どの人もひと目でかっこいいと思うような人ばかりだった。そしてのぞみちゃんはしばらくすると、そんなお気に入りの人と必ず友達になっていたので私はいつもビックリしていた。
ある日、のぞみちゃんがまたかっこいい人を見つけたと言った。今度の人は私達と同じレストランでアルバイトをしている人で、今まで大学の課題作成があってアルバイトを休んでいたという。だから私はまだ会ったことのない人だった。
「今度の土曜日、その人、シフト入っていたから教えてあげるね」
のぞみちゃんはその人のことを、これまでに見つけたどの人よりもかっこいい人だと言っていた。
次の土曜日、のぞみちゃんと私はワクワクしながらアルバイトに行った。その日、私は結婚式の担当でのぞみちゃんの担当は別のパーティーだった。二人ともそれぞれの仕事で忙しくて顔を合わせる時間もなかったので、もちろん私はのぞみちゃんにお気に入りの人を教えてもらうことがなかなかできなかった。
やっと、私が担当していた二回目の結婚式が終わったので会場の後片付けをするためにホールの中に入ると、ホールの中央にすらりとした長身の男の子が立っていた。私がこのレストランで初めて見る人だった。誰だろうと思って彼を見ていると、彼も私の方をちらりと見たので一瞬目があったような気がした。彼はとてもきれいな顔でそれだけでも人を引き付けてしまうのに、それ以上にすごく印象的な目をしていた。ほんの一瞬の出来事だった。それから私は会場の後片付けで忙しくて、そのあと彼を見かけることはなかった。やっとアルバイトが終わって、のぞみちゃんに初めて見る人がいたことを話すと、のぞみちゃんのお気に入りの人がその彼のようだった。
「すごくきれいな顔をしていたよ、芸能人になれるくらいに。それに、目がね、すごく印象的だった」
私が彼の印象をのぞみちゃんに言うと、のぞみちゃんは私の感想に満足そうだった。のぞみちゃんは持ち前の行動力ですぐに彼と仲良くなっていた。彼の通っていた大学も私達と同じだった。それからは、大学でよく彼を見かけることもあったし、学食で会った時は一緒に昼食を食べたりもした。そんな時、いつものぞみちゃんがおしゃべりをした。私は男の子と話すのが苦手だったので、のぞみちゃんの話を聞きいていることの方が多かった。彼もあまり話す方ではなくて、のぞみちゃんの話を優しい目で聞きながら途中でポツリと言葉を返すくらいだった。そうやってアルバイトの時間以外にも彼と顔を合わせることが時々あったけれど、それでも私が彼と話しをすることはなかった。
アルバイト先の仲間とは、仕事が終わってみんなで飲みに行くことや、休日にどこかへ遊びに出掛けることがあった。男の子とうまく話すことができなかった私も、気の合う男の子も見つかり、そんな彼らとは気にせずに話をすることができるようになっていた。のぞみちゃんと私は、アルバイト代が入ると一緒に買い物に行き、大学以外の場所で遊ぶ時に着る服やなんかを見て回った。生活費は実家からの仕送りがあったので無駄使いをしなければそれで十分に足りていた。アルバイト代のほとんどは新しい洋服や、のぞみちゃんやアルバイト先の仲間と遊ぶこと使ってしまっていた。洋服を買う以外にも、のぞみちゃんと私は自分たちが可愛くなるようにとメイク道具を揃えてメイクの練習をした。そうして少し大人びたおしゃれをして合コンに行くこともあった。私は頑張っておしゃれしていたけれど、たぶんあかぬけない女の子だったと思う。それでも、私は自分がこれまで知らなかった世界を体験して、いろんな人と知り合いになることで私は、少しずつ前に進むことができていると思っていた。
のぞみちゃんの手帳には私と遊ぶこと以外にも、ほかの友達やサークルの予定がびっしりと書き込まれていた。私の手帳にはアルバイトやのぞみちゃんとの予定以外は、大学の講義が書き込んであるくらいだった。私は予定の入っていない日は、近くの図書館に行ったり、ビデオを借りて来て一人で観て過ごしていた。そんな時、私はいつも一人だと寂しく感じて涙が出そうになることがあった。それでも、そんな一人の時間が私にとって大切だと思っていたし、一人で過ごす気楽さもあった。そして、そんな一人の時間も未来に向かって進むことに必要なことだと思っていた。
また大学の夏休みが来ると、私は車の運転免許を取るために実家のある町に帰った。久しぶりに家族と一緒の生活は、おしゃれをして友達と一緒に遊びに出かけることも、誰かに気を遣わないでいい気楽な時間だった。毎朝同じ時間に起きて、自動車学校へ通って自動車の運転の仕方を習い、夜になると私が作った夕食を家族みんなで食べた。そして、一人で暮らしている頃より、うんと早い時間に眠るような生活を一ヶ月間続けた。そんな規則正しい生活を送ったおかげで、私がまた大学のある街へ帰るときには、私の短かった髪が少し伸びて、体重がちょっとだけ軽くなっていた。
大学のある街に戻ると、私は久しぶりに会ったのぞみちゃんと一緒に髪を切りに行った。のぞみちゃんは長い髪を揃えるくらいに少しだけ切った。私は少しだけ伸びた髪にパーマをかけた。それから二人で買い物に行き、私は丈の短い薄いグレーのワンピースを買った。のぞみちゃんも可愛い緑のワンピースを選んだ。髪形を変え、いつもはデニムばかりの私がワンピースを着ると、なんだかとこれまでと違う自分になったような気がした。そうやって少し気分が変わった私達は、もうすぐ終わってしまう夏の思い出を作りたくなった。
のぞみちゃんはアルバイトの仲間に声を掛けてみんなを集めると、海岸で花火をする計画を立てた。もうすぐ夏休みが終わってしまうことを寂しく思っていたのか、予想していたのよりたくさんのアルバイト仲間が集まった。私とのぞみちゃんは新しく買ったばかりのワンピースを着て出かけて行った。海岸には、のぞみちゃんのお気に入りのかっこいい彼も来ていたけれど、その時のぞみちゃんは別に好きな人がいて、その人と付き合い始めたばかりだった。のぞみちゃんの彼は、のぞみちゃんと同じ学部の一つ年上の人だった。夏休みで会わない間にのぞみちゃんの恋が急展開して恋人ができていたことに、私はすごく驚いたけれど、のぞみちゃんの恋がやっと叶ったことをすごくうれしく思った。
私は少しだけ花火をして、海岸にあるコンクリートの堤防に座ってみんなと一緒に花火をするのぞみちゃんの姿を眺めていた。のぞみちゃんはみんなの中心にいて、とても楽しそうに花火をしていた。私はそんなのぞみちゃんが少しうらやましかった。新しい服を着て、これまでと少し違っている私のことを誰も気づかなかった。それに、しばらくこの街に私がいなかったことも、誰も気がついていないようだった。別に誰かに私のことを見ていて欲しかったわけではなかったけれど、少し寂しい気持ちだった。
「久しぶり。夏休みこっちにいなかったね、実家に帰っていたの?」
暗い堤防で急に声を掛けられた私は、びっくりして海に落ちてしまいそうになった。私の隣にのぞみちゃんのお気に入りの、あのかっこいい彼が立っていた。彼も私と同じように、花火に飽きてしまったようだった。彼は私の隣に座ると、
「髪長くなったね。それに、なんだかすこし感じが変わったね」
彼はすごく優しい目をして、前を向いたままそう言った。彼が私に気づいてくれたことがすごく恥ずかしくて、私は下を向いたまま返事をした。
「昨日ね、実家からこっちに帰って来て、のぞみちゃんと一緒に美容室に行ったの」
彼はそんな私の恥ずかしがる様子など、ちっとも気にもしてないようだった。
「夏休み、実家に帰って、何していたの?」
「毎日、自動車学校に行っていたよ」
私は下を向いたまま答えた。
「じゃあ、車の免許取れたの?」
「うん、やっとね」
「大変だった?」
「もの凄く大変だった。仮免で一回、路上でも一回落ちた。だってね、狭い道で反対から来る車とすれ違う時に、ちょっとだけ生垣にさわっただけで駄目だった。そんなの、おまけしてくれてもいいと思わない?」
私が一ヶ月間の通った自動車学校でそのことが一番悔しかった。だから、さっきまで恥ずかしかったのも忘れてムキになって彼に話していた。
「たぶん助手席に座っている先生は怖かったのかもしれないね。その次の試験は大丈夫だったの?」
彼はおかしそうに言った。私はそれから自動車学校での私の奮闘について熱く語った。彼は「うん、うん」と熱心に話をきいてくれた。そして、
「それで、さっそく車運転してどこかに行ったの?」
「うん。私の実家から車で一時間くらいのところに火山があるの。そこはね大きなカルデラでね、山の壁に囲まれていて丸い形をしているの。山の上だから涼しくて、夏のドライブには最高の場所なのよ。そこにね、お母さんと一緒にドライブしたの。山の登りと下りはお母さんに運転してもらったけどね」
私は母と一緒にドライブに行った時のことを彼に話した。
「ほんとは、ほとんどお母さんが運転したでしょ?」
彼は私の方を見ながらクスッと笑った。彼が笑うと、きれいな目の横にしわが寄ってすごく優しい顔になった。
「道が平らな草原は私が運転したの。すごく気持ちよかったよ」
「ならよかった。ほとんどお母さんが運転したのなら、せっかく免許取った意味がないからね。でも、その壁に囲まれている丸い形ってなに?」
「すごく大きなカルデラだから山が丸く囲っているように見えるの、中に人が住んでいるところを。不思議じゃない?自分たちが住む町が周りの場所から壁で仕切られているって。だからね、私は昔からそのカルデラを、黄みどりの壁に囲まれた丸い場所って呼んでいるの。誰かにそんな呼び方したら変な人って思われるから、誰にも言っていないけどね」
私は彼ときちんと話をするのは今日が初めてなのに、こんなにいろんなことを話している自分に驚いていた。
「ふうん、なんだか面白そうなところだね」
私は、彼がその場所に興味を持ってくれたことがうれしかった。
「すごいパワーをもらえる所なの。だから君も一度行ってみるといいよ。それだけじゃないよ、もう信じられないくらいきれいな場所なんだから」
私は、うまくその場所のことを彼に伝えきれないことがすごくもどかしかった。でも彼は私のそんな話を聞いていてくれていた。
「僕がバイクの免許取ったら、絶対行ってみるよ」
彼が私の目をじっと見ながらそう言った。私はなんだか、また恥ずかしくなって話題を変えるために彼のことも聞いた。
「あなたは、夏休みはどうしていたの?」
彼は友達と一緒にフェリーに乗って南の島に行き、その島の海岸にある海とつながった岩場の露天風呂が最高に気持ち良かったと、男友達との旅行の時のことを私に話してくれた。それから私達はいろんなことを話した。そして二人ともお互いのことを、
「今まで話したことなかったけど、意外に気が合うね」と笑った。
その日以来、私は大学で彼を見かけると、彼に声をかけ、話ができない時にはお互いに手を振り合うようになった。アルバイト先でも時間が空いた時には大学であったことなど、簡単なことを話すようになっていた。私はのぞみちゃんが隣にいなくても彼と話しをすることができるようになっていた。
秋になると、学祭で大学が3日間休みになった。私はサークルに入っていなかったので、学祭に行く予定はなかったしアルバイトも休みだった。私は三日間の暇な時間を持て余していた。のぞみちゃんはサークルで露店を出して、忙しい3日間を過ごしているはずだった。私は一人で特にすることもなかったので、ビデオを観たりしてのんびり過ごすことに決めた。私は、それ以外にすることを思いつけなかった。いつも借りている近くのレンタルビデオ店に置いてあるものはほとんど見てしまっていたので、その店よりすこし遠くにある大きなレンタルビデオ店まで自転車に乗って出掛けて行った。はじめて行った大きなレンタルビデオ店には、これまで私が観たことのないビデオがたくさん置いてあった。だから私は、どれを借りようかと迷いながら何度も同じところを行ったり来たりしていた。そして隣の陳列棚に移動すると、そこに私と同じようにビデオ選んでいる彼を見つけた。私は彼のすぐ隣まで彼に気づかれないように移動して、突然彼に声を掛けた。
「こんにちは!」
「えっ?」
彼は一瞬動きが止まって、手に持っていたビデオを落としそうになった。
「ああ、こんにちわ。もう、急に声をかけるからビックリしたよ」
すぐに彼はいつものように素敵な目で、何事もなかったように私に話しかけていた。彼はすごく背が高いので、私が彼と話をする時はいつも見上げるような姿勢になった。彼はジーンズに紺色のアウトドアブランドのフリースを着ていた。私は、ぼろぼろになったジーンズに薄い紫のセーターという、休日の気の抜けた格好をしていたので急に恥ずかしくなった。
「なにしているの、ビデオ借りに来たの?」
彼は私の格好なんて気にしてないようだった。
「何って、暇だからビデオ借りて観ようと思って。私ね、このお店に今日はじめて来たんだけど、いっぱいありすぎてどれにしようか迷っちゃって。あなたは何を借りるの?」
彼は、私に教えようかどうしようか少しのあいだ迷っているようだった。それから恐る恐るという感じで、手に持っていたビデオのカバーを私に渡した。
「まだ迷っているけど、新しいのは観たのばっかりだから古い映画だよ」
彼が私に見せてくれたのは、初めて聞く題名の映画だった。ビデオのカバーを見ただけでも、すごく面白そうだった。
「私もこの映画知らない。でもすごくおもしろそう」
彼も私が選んでいたのを知りたがった。私は、その時初めて自分の選んだものを人に知られるのが恥ずかしいと思った。彼がしたように、私もちょっと迷ってから彼に渡した。
「これもおもしろそうだね。観たら貸してよ」
彼が私の選んだ映画をおもしろそうと言ってくれたのが、なんだか私はうれしかった。私も彼が借りる映画を見終わったら貸してほしいと言ったので、それなら別々に借りて見終わってから交換するもの面倒だという話になって、二人とも同じように暇を持て余していたので一緒にビデオを観ることにした。
ビデオを借りると二人で近くにある、彼のよく行く喫茶店へ行って昼食を食べた。そのお店はオムライスが美味しいと彼が教えてくれたので、私は彼の勧めるオムライスにした。彼も同じのにした。そこは学生が多く住む場所だからなのか、大きなお皿に大量のオムライスが盛られていた。サラダも山盛りで、おまけにスープまで付いていたので私は食べきれるか心配なくらいだった。半熟の卵がのったオムライスはとても美味しくて私は残さず食べてしまった。彼は、そのオムライスを全部食べ終えた私を見て満足そうな顔をしていた。それから、二人で自転車に乗って私のアパートへ向かい、途中のコンビニでビデオを観る時のためにジュースやお菓子をたくさん買った。私の部屋に着くと、二人ですぐにビデオを観始めた。一番面白そうなものを最後に残し、4本の映画を一本観るごとにそれぞれに感想を言い合った。そうやって彼と私は長い時間一緒に映画を観ていた。二人が座るソファーは、大人が並んで座るのには少し小さすぎた。私のアパートの小さい部屋の中にある小さなソファーにくっつくように彼と座っていると、私が今日は一人じゃないのだと感じた。いつもこの部屋の中に一人で過ごしている私にとって、午後からずっと彼と一緒にこの部屋で過ごしていることが、とても特別なことのように思えて来た。恋愛ものの映画にドキドキしているのか、それとも彼と長い時間をこんなに近くで一緒にいることにドキドキしているのか分からなくなった。私は彼と仲良くなり、話をするうちにだんだんと彼に引かれていた。彼と話をすることは楽しかった。私が話すどんな話題にも彼はおもしろそうに話を聞いてくれた。そんな時の彼はいつも優しい目をしていた。私はもう彼に人見知りをすることはなかったし、彼と話しをすることは楽しみなことになっていた。そして、最後の一本の映画が始まると、この映画が終わらなければいいのにと思った。でも映画にはちゃんと終わりがあって、四本の映画を観終わった時には深夜になっていた。
アパートへ帰る彼を見送るために、私も彼と一緒にアパートの外へ出て行った。このまま彼が帰ってしまうのがなんだか寂しかった。私の前をゆっくりと歩く彼に、私はなかなか「さよなら」を言えなかった。そんな時、私は急に、彼に今私が感じているこの気持ちを伝えなければいけないような気がした。それは絶対に、今そうしないといけないと強く思った。今でなければ、明日や来週ではもうできないような、そんな感じだった。
「あのね」
私は、そう言って彼の背中に声をかけた。声が震えていた。のどの奥が渇いてくっつきそうな感じだった。でも、やっぱり、言わなければいけないと思った。
「わたしあなたのこと好き」
心がこもっているのか分からないような、私のボソッとした呟きだった。
振り返った彼の大きな目がまっすぐに、私の小さな目を見つめていた。いつもの優しい目ではなく、強くしっかりとした目だった。
「僕も、好きだよ」
彼は私にそう言ったあと、とても恥ずかしそうにうつむいた。私も恥ずかしくなってうつむいてしまい、二人して下を向いたまま黙っていた。でもその時の私は、彼がそう答えてくれるのを初めから分かっていたような気がした。それでも、私が気持ちを伝えなかったら、彼が自分の気持を私に伝えてくれることはなかったと思う。
お互いの気持ちを確かめ合ったあと、
「おやすみ、また明日」
彼はそう言って自転車に乗って彼のアパートに帰って行った。時間はすでに明日になっていた。私は、街灯の照らす道を彼が自転車に乗って帰っていく後ろ姿を、嬉しさと興奮で体が温まって行くのを感じながらずっと見送った。でもその時の私は、そんな体が熱くなるような嬉しい出来事があったばかりなのに、彼がもしいなくなったら、もし二人がうまくいかなかったらと、そんな一人になる怖さを考えてしまっていた。




