海をわたる
4
ハーレー男と僕は四国に向かう海の上の道を走っていた。そこは、海の中に浮かぶ小さないくつもの島を繋ぐように、長い橋の道が続いていた。ハーレー男が僕の前を走り、僕が彼を追いかけるように走った。僕は海の上をまるで浮かんでいるような感じがした。海の青と空の青、所々に見える深い緑の島がこれまでの道とは全く違っていて、それは、ハーレー男に付いて来たことがよかったと思える瞬間だった。僕がただ先を急いでハーレー男と別れていたら、こんな素晴らしい道をバイクで走ることはできなかっただろう。ハーレー男が僕を誘ってくれなかったら…、僕の前を走るハーレー男にお礼を言いたいくらいだった。ハーレー男はここを走りながら何を思っているのだろう。この海の上を走る道路を、初めてバイクで走ることができることを嬉しく思っているのだろうか?それとも、長い間離れて暮らしていた妻を想っているのだろうか?この海の上の長い橋を渡る人がそれぞれにいろんなことを思いながら向こう側へ渡っているのだろう。僕も昔、一度だけ来たことのあるこの橋の向こう側へまた行くことができることの嬉しさと、思い出の地に向かっているというモヤモヤするようなヘンな気持ちだった。
ハーレー男と僕は長い橋を渡り終えてやっと四国にたどり着くと、また大地の上の高速の道を走り続けた。でも、さっきまでの本州の高速を走るよりずっと車の数は少なくなっていた。この地をよく知っているハーレー男が僕を先導してスピードを思いっきり上げて走った。そして僕たちは予想していたよりずいぶん早く、松山にたどり着くことができた。
高速から降りて、途中にあったコンビニにバイクを停めて休憩をしている時にハーレー男が僕に観光をしないかといい出した。
「せっかくここまで来たんや、松山城に行くか?それとも道後温泉にゆっくり入るか?」僕は疲れて、観光をするような気分じゃなかった。それに僕は、ハーレー男の帰りを待っているはずの彼の妻のことが気になっていた。だから僕はハーレー男に向かって、
「まずは、高野さんの家に行ってみましょう」と言った。
ハーレー男は少し残念そうな顔をした。
「兄ちゃんがそんな言うなら、行かんとアカンな。なら、今から俺の家に行くからちゃんとついて来てな。俺、兄ちゃんだけが頼りなんやから」
弱気なハーレー男になっていた。
「高野さん、ここまで頑張ってバイク乗って来たんだから、奥さんだって喜んで迎えてくれますよ」
僕はハーレー男を励ますように言った。
「そやな、嫁さん俺のこと、待っとるからな」
ハーレー男はさっきまでの元気な中年男になっていた。
ハーレー男の家は、松山の市内からそう遠く離れていない住宅街にあった。そこは、新しい家々が立ち並ぶ住宅街の中に、ほかの家の敷地の二倍くらいの広さがあるようだった。庭には大きな木が生えていて、その木々のあいだにそんなに大きくはない平屋の家が建っていた。家の周りを煉瓦でつくられた低い塀が囲っていて、家に続く門に「TAKANO」とアルファベットで書かれた表札が出ていた。ハーレー男の家はすっきりとしたかわいらしい印象だった。
「兄ちゃん、とうとう着いてしもたな。暗いうちからずっとバイク乗って、長かったなあ。もう尻が、腰が痛とうしてたまらん」
ハーレー男はそう言いながら腰に手を当て背中を伸ばしていた。僕も体が重く、腕も脚も力が入らない感じがした。そして、今から始まるハーレー男と妻の久々の再会が少し楽しみだった。
「さ、行くで、嫁さんビックリさせたる」
ハーレー男はいたずらを仕掛ける子供のような顔をしていたけど、そんな笑っているのに緊張しているような感じがした。そして、大股で歩いて行くと、チャイムを鳴らした。僕はただの付き添いだったからハーレー男から少し離れて、後ろの方に立っていることにした。
「はーい」
中から元気のよい女の人の声がした。多分、ハーレー男の妻の声だろう。
玄関のドアが大きく開き、すこし童顔のかわいらしさが残る女の人が出てきた。
「ただいま。帰ってきたで」
ハーレー男がちょっとうつむき加減に言った。久しぶりに自分の妻に会うのが恥ずかしいのだろうか。ここまで僕を強引に連れてきたハーレー男とはまるで別人のようだった。中から出て来た女の人は、ハーレー男の腕をしっかりと握って満面の笑みを浮かべていた。「おかえりなさい、お父さん。遅かったのね。まだかまだかって、何回も携帯に電話したのに全然出ないから心配していたのよ」
そのひとはやっぱりハーレー男の妻のようで、そう言ったあと少し不思議そうに夫の姿を頭の上からつま先まで眺めていた。そして、いつもの夫と様子が違うのに気付いたのだろう、不思議そうに聞いた。
「お父さん…、なに、この格好?」
ハーレー男はやっと気づいたか、と言わんばかりにその場から一歩下がると、妻に向かって両手を広げて自分の姿を見せた。
「ええやろ、これ。俺、どうやってここまで帰ってきたと思う?」
いつもと様子の違う夫に突然そんな事を聞かれても、ハーレー男の妻には分かるはずはなかった。
「どうやって?飛行機で帰って来たのでしょう?」
当たり前のことをなぜ聞くのだろうというような感じで、ハーレー男の妻がそう言った。
「こんな格好で飛行機のる奴あるか?バイクで帰ってきたんや。俺、東京からバイク乗ってここまで帰ってきたんや」
ハーレー男は、自信たっぷりの少し大袈裟なくらいに言った。
「はぁ?バイクって何?お父さんバイク乗れたの?」
ハーレー男の妻は、目を見開いて口を大きくあけたまま止まっているようだった。本当に人が驚くとこんな顔をするのだと、僕はそんな顔を初めて見た。
「俺な、松山に帰ってくるのに、わざわざバイクの免許取った」
「え?いつ、何の免許取ったの?」
ハーレー男の妻は混乱しているようだった。
「だからな、会社辞めて、教習所行って先月やっとバイクの免許取れた。そんで今日がこれや」
ハーレー男は、まだ今の状況をうまく理解できないで玄関に立っている自分の妻の手を引いて、門の前に止めてある新品のハーレーの前まで連れて行った。
「これや、カッコええやろ?お前をこれに乗せるため、俺頑張ったで」
「あなた、本当にこれに乗って東京から帰って来たの?冗談じゃなくて?」
ハーレー男の妻は、バイクを見てもまだ信じられないようだった。
「嘘じゃない、ほんまや。その兄ちゃんに聞いてみ」
ハーレー男は、玄関の端に静かに立って二人の様子を見ている僕を指さして言った。ハーレー男の妻は、その時になって初めて僕がいるのに気付いたようで、戸惑ったように僕に軽くお辞儀をしながら言った。
「こんにちは」
そしてすぐにハーレー男の顔を見上げて、ハーレー男に聞いた。
「お父さん、こちらは?」
「ああ、高速で走っとる時に俺について来よった兄ちゃんや」
僕は、ハーレー男に追い抜かれてたまたま後ろを走っていただけだと思いながら、
「こんにちは、田辺です。あの、高速でたまたま一緒になって、松山に行こうとご主人に誘われたので…、僕は、ご主人をここまで送って来ただけですから」
僕は、まるで言い訳をするように言った。
「な、俺、ほんまにバイク乗って帰ってきたやろ?」
ハーレー男は妻に向かって、まるで確認するように言った。
「はい。わかりました。でも、あなた、田辺さんにここまで付いて来てもらうために、無理言ったでしょう」
さっきまでぽかんとしていたハーレー男の妻は、今度はしっかりとした口調になっていた。そして、僕のいる玄関まで急いで戻って来た。
「主人がお世話になりました。たぶんこの人ね、一人で帰って私に怒られるのが怖かったのよ。だから、誰かと一緒なら私が何にも言わないと思ったのよ。本当にごめんなさいね、主人が迷惑かけて」
ハーレー男の妻は、ほんとうに申し訳なさそうに言った。だから、僕はあわてて、
「迷惑とか、そんな。僕も四国に行きたいなってちょっと思ったから、だから主人についてここまで来たんですよ。だから、そんな迷惑じゃなかったですよ」
ハーレー男の妻はそれを聞いて少し安心したのか、
「無理やり連れて来られたじゃないならいいけど。この人ね、いつも誰か気に入った人がいると連れて来るから、今日もそうじゃないかって心配したのよ。あなたはどちらから?」
僕も東京から来たと言うと、
「東京から、遠かったでしょう。若い人はすごいわね。ここまでどれくらいの時間がかかったの?」
自分の夫も東京からバイクに乗ってきたというのに、そんなの関係ないことのように僕を見上げていた。
「だから俺も東京からバイク乗って来たって、さっきから言っとる」
ハーレー男が自分の妻に向かって呆れたような顔で言った。
僕は、ハーレー男を家に送り届けたら、すぐに一人で出発しようと思っていた。九州へ向かうフェリーの最終便にでも間に合うだろう。でも、ハーレー男とその妻に、強引に家の中に入るように言われて、ハーレー男の家で少し休ませてもらうことになった。
ハーレー男の家の玄関に入ると、家の中は広い一続きの空間が広がっていた。南側にある玄関から、左に広いキッチンがあり、その真ん中には大きなテーブルがドンと置いあった。キッチンの北側には風呂場やトイレに続くドアがあった。そして玄関の左側も広いスペースがあり、そこには大きな居心地のよさそうなソファーと大きなテレビが置いてある。その奥には畳が敷かれている和室があり、ソファーのある居間と障子で仕切ることができるようだった。南側は一面の大きな窓があり、反対側の壁には家族のそれぞれの個室に続くドアがあった。吹き抜けの天井には大きく立派な梁がキッチンから畳敷きの部屋まで続いていた。家の中の壁や天井は全て天然の木材が貼られ、家の中に置かれている家具もすべて、木で作られた感じのよいものばかりだった。僕は靴も脱がずに玄関に立ったまま、「何しているの、早く上がって」そうハーレー男の妻の声が聞こえるまで、家の中をずっと眺めていた。もしかしたら、口を開けてポカンとした顔をしていたかもしれない。あまりにも広い一続きの空間にビックリしてしまっていた。僕はその時、ちょうどハーレー男の妻が、自分の夫がバイクでここまで帰って来たと聞いた時と同じような顔になっていただろう。
僕が玄関から家の中に上がると、ハーレー男はビールの入ったグラスを片手に居間の大きなソファーに座っていた。そして、僕を手招きしながら
「にいちゃんはよう座り。うまいでぇ、一緒に飲も」
僕は、少しこの家で過ごしたらすぐに出発しようと考えていたので。ハーレー男の誘いを断り冷たいお茶を出してもらった。
「なんや、つまらんな。ほんまにうまいのに」
ハーレー男はご機嫌だった。
「田辺君も飲めばいいのに」
ハーレー男の妻にもそう言われた。それから、僕たちは広いキッチンにある大人が十人くらい座れそうな大きなテーブルに移動して、ハーレー男の妻が東京から戻って来る夫のために朝から準備をした手打ちのうどんをごちそうになった。ゆであがった麺に卵とネギ、醤油をかけただけのシンプルなうどんだったけれど、うどんにはすごくコシがあってこれまで食べたことのない食感だった。僕はあまりの美味しさに二杯もお代わりしてしまった。そして、ハーレー男とその妻の強引な勧めを断ることができなくて、冷たいビールを御馳走になってしまった。それは冷たくて、疲れた僕の体にすぐに広がった。
「な、うまいか?俺の嫁さん、うどん打つのがホンマに上手い。ビールと一緒に食うたらもう何も言うことない」
ハーレー男の妻は、そんな夫の幸せそうな顔をにこにこと見つめていた。僕は、今日のうちに鹿児島までたどり着くことをあきらめてしまっていた。ハーレー男はうどんを食べてしまうと、「すまんけど、俺、先にフロ入ってくるわ」と言ってキッチンから出て行ってしまった。広いキッチンにはハーレー男の妻と僕だけになってしまった。僕は何を話していいのか分からず、黙ってビールを少しずつ飲みながらこの広いキッチンを眺めていた。南側は全て大きな窓になっていて、それとは直角にシンクとコンロなどのキッチンカウンターがあり、ハーレー男の妻がそこで洗い物をしていた。そのカウンターからは大きなテーブルに座る僕や、リビング、その奥の畳敷きの部屋まで見渡せる造りになっていた。ハーレー男の妻の後ろには、木目の美しい壁一面の造りつけの収納があった。僕は、楽しそうに洗い物をしているハーレー男の妻に向かって言った。
「いい家ですね」
「ありがとう。毎日この家で過ごしているけど、いつも気持ちがいい家だって思うの。この家が世界で一番好きな場所かな、このキッチンからの眺めが最高なのよ」
僕は住んでいる人にこんな風に言ってもらえる家を造った人をうらやましく、そしてすごい人なのかもしれないと思った。
ハーレー男の妻は洗い物が終わると、僕にお茶を入れてくれた。僕は礼を言って一口飲むと、温かい緑の濃い味がした。ハーレー男の妻は、自分の湯呑みにもお茶を注ぐと、大きなテーブルの僕の向かいに腰を下ろし、
「あの人ね、いつもびっくりすることばっかりだけど、今日のバイクで帰って来たことは、今までのベスト3に入るかも」
自分の夫であるハーレー男のことを話し始めた。
「びっくりするって、たとえばどんなことですか?」
僕が尋ねると、ハーレー男の妻はしばらく考えているようだった。
「一番驚いたのはね、もうずっと昔の私が高校を卒業式する時だったかな。あの人が私の家に来てね、突然『結婚してください』って言ったこと。あの人、私の兄の同級生だったのよ。それでよく兄の所に遊びに来ていたから挨拶くらいはしていたけど、ちゃんと話したことはなかったのよ。それなのに、いきなり結婚なんてびっくりしたわよ」
ハーレー男の妻はおかしそうに言った。
「それは誰だって驚きますね。それがきっかけで結婚を決めたんですか、よく知らないお兄さんの友達と?」
「ううん」
ハーレー男の妻は首を振った。それから、
「私の家はそんなに裕福なほうでなかったから、それなりに苦労して私と兄は育ったの。だからね、兄が親友のあの人に向かって『おまえはいいやつだって俺が一番分かっているけど、妹に苦労させたくはない。普通のサラリーマンと結婚して幸せになって欲しいから、お前と結婚はさせられない』って言ったの。まあ、別にサラリーマンがいいって言うのはどうかと思うけどね。あの頃あの人は、建築現場で働いていたの。兄も同じような仕事をしていたからまだまだ結婚なんて、そんな家族を養っていけないって分かっていたみたい。それからあの人、一度も兄のところに来なくなって私達、何年も会うことなかったの」
ハーレー男の妻は、湯のみに入ったお茶を一口すすった。
「私ね、あの人が家から帰る時に兄に隠れて追いかけて行ってこっそり聞いたの。『なんで私と結婚したいって思ったの?』って。あの人ね、『どうしてかなぁ?いつも君が幸せそうに笑っているから、かな?』って。それ聞いて、私恥ずかしくなって走って家に帰ったのよ」
ハーレー男の妻は照れくさそうだった。
「それからどうしたんですか?」
僕はそれからハーレー男がどうやって奥さんと結婚したのか、少し興味があった。
「高校を卒業して、私は松山の市内にあるデパートに就職したの。こう見えてその頃の私ね、けっこう男の人にモテたんだから。同じ職場の付き合っている人もいたし。その人と結婚する約束もしていたのよ。でも、私が二四歳の時あの人がまた私の家に来たの。私も兄もあれ以来一度も会っていなかったのに、突然にね。それでね、あの人また私に結婚を申し込んだの。私と兄、両親の前で」
僕の前に座っているハーレー男の妻が若かったころの姿を思い浮かべた。童顔のハーレー男の妻は今でも十分にかわいらしい顔をしていたので、その頃男性にモテたという話はほんとうだろうと思った。
「その時は、ご主人のプロポーズをOKしたんですか?」
「うん、何年も会わないでいたのにずっと私を想っていてくれたなんビックリして、それに断るのも悪いなって思って」
本当にそんな簡単な理由で、自分の大事な結婚を決めることができたのだろうか?
「でもなんで、ご主人は何年も奥さんに会いに来なかったんですか?」
「あの人ね、兄に私との結婚を断られてから考えたそうよ。ちゃんと働いて、兄や両親に認められようって。それで昼間は働きながら夜間の大学に通って、この前退職した会社に就職したの」
ハーレー男の勤めていた会社の名前は、僕もよく知っている大手の建設会社だった。
「就職が決まったその日に、私にプロポーズしに来たみたいだった」
「なんだか、ドラマみたいな話ですね。でも、その時に付き合っていた人とは結婚の約束もしていたんでしょう?」
僕は、ハーレー男に恋人を奪われてしまった人を気の毒に思った。
「だって、私のために働きながら大学に通って頑張ったって聞いたら、普通断れないでしょう?兄もビックリして、『こんなにおまえを想ってくれるヤツ世界中探してもどこにもいないぞ。お前の職場のあんなやつより、高野の方が絶対いい』って言い張って、サラリーマンじゃないと幸せにできないとか言って断ったのは兄だったのにね。だから付き合っていた彼にはちゃんと正直に話しをして、結婚できませんって言ったの。彼は呆れていたわ。そんなので幸せになれるのか?って」
ハーレー男の妻はそう言って、まるで恥ずかしさを隠すように、また湯呑のお茶を飲んだ。
僕は、何年もの長い間会わずにいて心の中に想い続けていた人に、こんな風に会いに行く勇気はあるだろうか。
「あなたの御主人はすごい人ですね。ずっと奥さんのために一人で頑張って。もしかしたらそのあいだに、あなたはほかの誰かと結婚してしまっているかもしれないのに」
「そう思うでしょう?普通はそう思うのよ。でも、あの人にとって私は運命の人だったって。だから、何年経ってもきっと私と結婚できるって信じていたって。ああ見えて、けっこうロマンティックな所があるのよ」
目の前に座るニコニコと照れたように笑っているハーレー男の妻は、そんな彼の思いを受け止めたのだから、やはりハーレー男にはピッタリの人なのだろうと思った。
「あの人、結婚してしばらくはこっちの支店に勤務していたけど、しばらくしたら大阪に転勤になってね、娘はまだ小学生だったし。それに、あの人のお母さんと一緒に住んでいたからあの人一人で大阪に行くことになって。その次は東京に転勤になって、一緒に過ごせた時間はほんの少しだけだったの。一緒にいると幸せになれそうって言われて結婚したけど…、ずっと離れて暮らして。でもちょくちょく帰ってきてくれて、そのたびに私と娘をいろいろ驚かせてくれたのよ。この家もそう、あの人が大阪から急に帰って来て、ただいまも言わず『おい引越しするぞ』って言い出したの。私たちに内緒でこっそり新しいこの家を建てていたの。普通、家を建てるときには奥さんが間取りとか考えるでしょう?せっかく家を建てるのなら、私もいろいろやってみたかったのに」
昔の事を懐かしそう思いだしているようだった。
ハーレー男の妻は結婚してから、それまでハーレー男が母親と暮らしていた古い小さな家で一緒に生活していたそうだ。ハーレー男は家族に内緒で、それまで住んでいた所から少し離れた場所にあるこの土地を買い、自分の勤める建設会社の同僚に頼んでこの家を建てた。そして完成した日に大阪から帰ってくると、初めて家族にこの家を披露したそうだ。それまで新しい家のことは、家族にはなにも知らされていなかったとハーレー男の妻が僕に話してくれた。
「私この家に入った瞬間、すぐにこの家のこと好きになったの。子供もそうだし、あの人のお母さんもとても喜んでいたわ」
ハーレー男の妻は家を見渡しながら言った。僕も、この家にはじめて来てここを気にいらない人はいないだろうと思った。
ちょうどその時ハーレー男が風呂から出て来たので、彼の妻は小さな声で僕に向かって、「あの人のビックリ三連発はこれでおしまい」そう言ってキッチンを出て行った。
そのあと、僕はハーレー男とその妻に勧められたので、風呂に入れてもらうことにした。僕は「夕食をごちそうになって、お風呂までなんていいですよ」と断ったけれど、二人の強引な押しに負けてしまった。二人とも、強引な所はよく似ていると思った。
風呂からあがると、ハーレー男は居間の大きなソファーでまだビールを飲んでいた。そして湯上りの僕を呼んで、彼の隣に座らせると小さな声で話しかけて来た。
「俺がフロ入っとる間、嫁さんとなにしゃべっとった?」
「別に、なんにも話していませんよ」
僕もなぜか小さな声でそう答えた。
「なんにもて、なんか話とったやないか?俺のことか?」
僕は、ハーレー男がそんなに気になるならと思って、彼の奥さんから聞いたことを言った。「あなたが奥さんと結婚した話や、この家のことを聞いただけですよ。奥さんに話されたらまずいようなことでもあったんですか?」
僕は、ソファーの隣に座ってビールを飲んでいるやんちゃな子供のようなこの男が、妻が話したような大変な努力家でロマンティストな男と同じ人物だとは、まだちょっと信じられなかった。
「あいつ、何でも兄ちゃんにしゃべりよったな。変なこと言うてなかったか?」
「奥さんと結婚するために、すごく頑張ったって言っていましたよ。家族にはこんな素敵な家をプレゼントしてくれたって」
僕はハーレー男の妻に聞いた通りに正直に話した。
「そんな、俺のことよう言ってくれたか。なんか照れくさいな」
ハーレー男はすごくうれしそうに言った。
「俺なあいつと一緒におったら、絶対幸せになれるって思たから頑張たんや。よう勉強もできんのに学校行ってな、いい会社入ったらあいつと結婚できる、そう信じとったから必死やった。今思えは、よう結婚できたなって不思議や。嫁さんも若かったからよう考えんで決めたんやろか?」
「僕、奥さんにその話聞いて思ったんですけど、よくそれだけ長くいあいだ会わないでいたのに、いきなり会いに行ってプロポーズするのって怖くなかったですか?」
ハーレー男僕に質問には答えずに黙ったまま、自分と僕の分の缶ビールを冷蔵庫から出してきた。二人でそれを飲みながらハーレー男はゆっくりと話始めた。
「なんも怖くなんかない。俺、それまで一生懸命頑張ったから、会いに行って断られるなんて。あいつのこと見とって俺にはこいつしかおらんって勝手に思とったから、何年たってもきっと、神様が俺のためにあいつをちゃんと取っといてくれるって思とった」
「それって、奥さんが運命の人だと思っていたと言うことですか?」
ハーレー男は、本当にロマンティストなのだろう。
「まあそんな、運命やなんて恥ずかしいことよう言えへんけどな。こんなおじさんかて、若い頃は可愛いらしかった」
アルコールのせいなのか、ハーレー男の顔は赤くなっていた。
「俺の父ちゃん早くに死んでしもうてな、母ちゃんが一人で俺を育ててくれたんや。苦労したて思うで。それまで古い家にずっと住んどったから、広い庭に洗濯物をいっぱい干せるようなとこ住みたいって言っとった。結婚して、それに子供も生まれてさすがに窮屈すぎたから家を建てよう、せっかくやからみんなをびっくりさせたろ、て。嫁さんに内緒で、会社のやつに頼んでな。でも苦労したで。床板や壁の色、台所の流しやトイレまで何にするか決めなあかん。俺はそんなもんよう分からんで、全部お前に任せるってそいつに言ってな。俺の希望は『嫁さんが使いやすい、母ちゃんの部屋からは庭が見えて、子供部屋は小さくてええ、いつもみんなが一緒に過ごせるところが家の真ん中にあればええ』ってそれだけ言うてな。俺が考えったって、こんないい家はできんかったで。俺が頼んだやつが、頭悩ましてええ家を丈夫に作ってくれて。母ちゃんも嫁さんも、子供も大喜びやった。母ちゃんはこの家できて三年後に死んでしもたんやけど、こんないいとこに住めて幸せやって、よう言ってくれよったから親孝行もできたしな」
そう話しながらビールを飲むハーレー男の顔は、家族を思う優しいお父さんの顔になっていた。僕はこの家に来てから、ハーレー男のいろんな表情を見ることができた。
「僕、この家に初めて入った瞬間びっくりしましたよ、大胆な家だなって。よくこんな広い空間の家を作ったなって」
僕がこの家に着て初めて感じたことだった。
「ほんまや。ここにみんな集まるから、いつでも家族の誰かの顔が見える。今まで一人寂しく単身赴任続きやったからな。嫁さんも、娘が結婚してから一人やったから。俺はやっと今日からここに住むことができる、そんで、嫁さんバイク乗せていろんなところに行くんや」
ハーレー男は、まるで彼の妻に聞こえるようにわざと大きな声で話しているようだった。
「嫌よ、バイクの後ろにこんなおばさんが乗っていたらおかしいじゃない。近所の人に笑われちゃうわよ」
キッチンから、ハーレー男の妻の大きな声が聞こえた。でも僕は知っていた。ハーレー男の妻はハーレー男の入浴中に、娘さんへの父の帰宅を知らせる電話だったのだろう。
「お父さんがね、帰って来たよ。それも東京からバイクに乗ってよ。お父さんってば、最後まで私達驚かせて。それでね、お母さんをバイクに乗せてくれるらしいのよ。ねえ、バイク乗るときどんな服がいいと思う?今度買い物付き合ってよ」
まんざら嫌ではなさそうに話していた。
「なぁ、田辺君の仕事は?」
ハーレー男は急にまじめな顔で聞いた。僕は東京にある小さな建築事務所で、ビルや家の設計の仕事をしていると言った。
「そうか、おまえも建築の仕事か?俺は大きなビル、建てる方やったけどな」
ハーレー男は、僕が彼のしていた同じ建築の仕事をしていると聞いて、うれしそうに言った。
「俺のいた会社は、ぎょうさん大きいビル建てたな。ほら最近できたあれも、俺の会社の仕事やった」
昨年できたばかりの高層ビルの名前を挙げた。下層階には商業施設が、高層階は人が住むマンションになっていた。
「さっき奥さんから高野さんの会社のこと聞きましたよ。大手の企業で驚きました。あんな大きな建物造ることができたら楽しいでしょうね。やりがいがあるというか」
「俺は、裏方の仕事やったから兄ちゃんが思とるようなすごいことはないけどな、まあ面白かったで。どんどん東京の町に、俺たちの会社の造るビルが風景の一つになって行く。でもなぁ、あんまり大きすぎて、完成して見に行くとなんか風景の一部としてはすごいけど、中に入るとなんか店やなんかの個性が強すぎてごちゃごちゃした印象になってな、がっかりしたこともあった。オフィスとかマンションなんかは、おんなじドアが並んでるだけで見ていてあまり楽しくない。建物自体の個性はあってもそれだけや。兄ちゃんはその中の一つ一つを造る仕事をして、それのほうがおもしろそうや。出来上がってそこに住む一人一人の喜ぶ顔が、よう見えるし」
たしかに、家や店舗を造るときは僕らがそこを使う人の小さな希望や思いを聞いて、それを図面にして、それをまた確認して直すことを繰り返しながら建物を形にしていく。大きな建物でも同じだと思うけれど、細部はアバウトになってくるのかもしれない。そして、大きな箱の中に入るそれぞれの小さな箱にいろいろな個性があるので、出来上がったらアンバランスになってしまっていることがある。それがそこへ遊びに行く人にとっては面白くてワクワクするのかもしれないけれど、時間が経ってそれを見ると外観だけが目立ってしまい、中を見たらはがっかりすることがあるのかもしれない。
「僕は、造った時の思いがその後も大事にされて、ずっと先になっても残っているような、そんなものを造りたいって思って。この家は、僕の理想に近いのかもしれないです。あなたがここを造った時の家族への想いが今も十分に感じられます。それに、あなたの家族とこの家がうまく馴染んでいるし。この先、あなたと奥さんの二人での暮らしが思い浮かぶような、娘さんの家族が遊びに来てにぎやかな時も、あなたがおじいちゃんになっても、この家で幸せに暮らしていそうな気がします。僕が造っているのは、僕の造りたいものでなくて、建てる人の希望通りにすることが多くて。まあ、それが僕の今の仕事なのだけど、納得できない時もありますね。それでできた建物は、僕はあまり好きになれなかったりして」
ハーレー男に僕がこれまで思っていたことを話していた。今までの僕には、仕事のとこで自分の思っていることを話すことのできる相手がいなかった。
「そりゃ、大金を払うんや、それを聞くんは当たり前や。なんぼ違うて思とっても、こうして欲しいて言われたらその通り作らなあかん。そうか、田辺君は自分が思うたのと違うのを造るのが嫌なんや。そんなら、誰かが『あんたの好きなように造ってええ』って言われたらどうする?」
僕はハーレー男が言ったことを真剣に考えてみた。
「店舗とかだったらどんな目的に使うのか、どんな人達にそこへ来てほしいのか考えるし、家だったら、家族構成とか生活スタイルを考えますね。昼間はほとんど人がいないから夜が楽しみになる場所とか、光と共に生活して暗くなったら眠るとかそれぞれの生活があるから、それを知らないと全くゼロからは始められません。もし、僕が造りたいものを自由にかたちにしても、そこを使う人に満足してもらう自信はないかもしれないですね」
「そうやろ、自分の思った通りなんて無理や。まあ自分の家ならできるやろうけど、それかて、結婚して嫁さんがおったら、嫁さん意見も聞かなあかんし。自分の思た通りに造って、嫁さんに毎日使いにくいわぁて、言われるのは嫌や」
「そうですね、その時は相手と僕の希望をすり合わせなきゃいけないでしょうね」
たぶんその時は、自分の希望を通すことはできずに僕の方が妥協してしまうだろう。
「この家かてな、ほんまはな、嫁さんが思うとった理想の家なんや。嫁さんは俺がいろいろ考えて造った家や思っとるけど、俺にそんなことできるわけない。会社のやつに任せたけど、やっぱりどんな家にしてええんか分からんかったて。そんで、そいつな、会社の社員の家族にマイホームについてアンケートしていますて、嫁さんに家の設計の相談に来たて。嫁さんそれ真に受けて、明るくて家族の顔が見えるとこで料理を作りたいとか、窓がたくさんある明るい家がいいとか、小さくて丈夫ずっと住める家がええとか言うたて。そんで、嫁さんが言うた希望とか理想をちゃんとかたちにしてくれたんや」
自分の家の設計を、人にすべて任せたハーレー男も信じられなかったが、それを受けた会社の人もまたすごいと思った。自分の家を建てることはその家族の大イベントになる、そんな大事なことをすべて任せられるなんて、僕には責任が重すぎると思った。でも、この家の設計をした人はそんなハーレー男のめちゃくちゃな提案を受けてこの家を造っていた。そして、この家は、ここに住むハーレー男の家族にとても馴染むことができている。僕は、すごいことだと思う。
「今の僕には、これだけのものを造る自信はないですね。今、僕が同じことをしたとしても、こんなすごいのは造れないですよ。自分の思いを形にして残したいって思っていたけど…、今の僕には無理かなって。高野さんは、ライトが設計したカウフマン邸って知っていますか?」
僕はハーレー男に聞いてみた。フランク・ロイド・ライトは僕が憧れるアメリカの建築家で、彼の造った作品はどれを見ても個性的で独創的なものばかりだった。
「あんまりようは知らんけど、名前は聞いたことある。前の帝国ホテルを設計したアメリカ人や」
さすがにハーレー男も知っていた。
「そうです、彼のカウフマン邸と呼ばれている建物が憧れなんです。写真でしか見たことないですけど森の中の断崖にあって、そこにある岩とか滝が建物の一部になって滝の流れの上に建物があるような。人が造ったものだけど、自然と一体化して境があいまいになったような感じで、僕もそこの土地や風景に馴染むような建物が造れたらって思うんです」
僕の説明でハーレー男がこの建物の事を理解できたとは思わなかった。
「田辺君の言うのはよう知らんけど、そのライトが造った帝国ホテルが日本に馴染んどったかどうかはわからんで。もしかしたら、周りに畑やら、古い家があったかも知れん。部屋の中は西洋みたいで、窓から外見たらやっぱり日本やった、みたいな。でも東京の帝国ホテルやからな、そこらへんでは見られんような立派なんがええやろ?珍しいところに泊まったって土産話になる。でも、それが毎日やったら暮らしにくい。反対にな、特別なものを作るときにはちょっと違うか?て思うくらいがええと思う。それを望んでわざわざアメリカの建築家に頼んだのかも知れんし、そのカウマン邸も、いつも都会におる人間やったら山の中の滝のある家に住むのに憧れるな」
僕はハーレー男の言葉に少し納得できるような気がした。これまでの僕は、少しばかり風景に馴染まなくてもそれを望まれたのなら、かたちにしなければならないと思っていた。それが僕の中では、今の僕の仕事にどうしても納得ができないことだった。理想をかたちにすることで幸せになる人がいるのなら、それが僕に求められる仕事になる。それをどう周囲の風景の中に馴染ませ理想のかたちに近づけることができるか、そこに僕なりのやり方が必要なのかもしれないと思った。
「僕がこれまでやってきたことは、足りないこともいっぱいあって、それが僕には納得ができていなかったことように思います。まさか、今日、バイクで知り合った人に仕事のことを話して、アドバイスもらえるなって思ってなかったです」
僕はほんとうに、まさかハーレーに乗るこんなおじさんに、僕の仕事について話をしているなんで思ってもいなかった。
「たいしたこと言うてないで。定年退職したおっさんのちょっとした自慢話や。なぁ、田辺君、大きな会社でなくてもええ、しっかり地に足付けて人の話をよう聞いて仕事しとると、ええ仕事ができるようになる。でも、今日みたいな何も考えん自由な時間も必要や。そしたら、俺みたいなええやつと出会えるからな?」
ハーレー男は、僕が座っている大きなソファーから立ち上りながら言った。
「まだ結婚してないなら自分だけやない、なにか大切なものを見つければええ。そしたら、もっと、もっとええ仕事ができるようなるかもしれへんで」
ハーレー男は優しい目をしていた。
「僕にとって大切なものって、何でしょうね?あなたにとって大切なものは、奥さんと家族でしょう?」
ハーレー男の大切にしているものは、これしかないと僕は思っていた。
「そりゃ当たり前や。嫁さんと娘と、そんで今はバイクや。今日、バイク乗ってえらい楽しかった。俺、バイクにハマったで」
ハーレー男は、さっきと同じように、キッチンにいる自分の妻に向かって言っているようだった。これから毎日、ハーレー男は何年も離れていた彼が一番大切に思っている彼の妻と暮らすことができる。離れていても自分が決めた人が運命の人だと信じ続け、自分で道を開くことでやっと一緒になれた人と。運命の人が誰にも必ず一人いるのだとしたら、僕はもう出逢っているのだろうか。
僕は今夜はハーレー男の家に泊めてもらい、朝一番のフェリーで九州へ向かうことにした。僕は明日の予定を考えている時に、ずっと昔に四国へ来た時見た風車の並ぶ岬からフェリーに乗りたくなって、ハーレー男に聞いてみた。ハーレー男の言う港の名前に、聞き覚えがあるような気がした。ハーレー男の妻が、その港から出るフェリーの時間を調べてくれた。その港から、朝七時半に一番の船が出るらしかった。一二時になって僕は今日のお礼をハーレー男とその妻に言い、広い空間の一番端にある和室の布団の中に入った。僕は、今日一日の旅の疲れか、それともビールを飲んだからなのかすぐに深い眠りについた。
翌朝、五時半にセットしておいた携帯電話のアラームの音で目覚めたとき、見覚えのない高い天井を最初に目にして僕は自分が今どこにいるのはすぐにわからなかった。頭がぼんやりして、しばらく高い天井とその下にある大きな梁やそれをつなぐ家の美しい骨組みを見ながら布団に横になったままでいた。そうしているうちに、自分がハーレー男の家にいることを思い出して布団から抜け出そうとしたけれど、昨日のバイクのせいか体の全身に鈍い痛みを感じて思うように動けなかった。僕は、まるで布団から這い出すゾンビのような格好だったかもしれない。
僕のいる和室の反対側あるキッチンの明かりがついていて、そこにハーレー男の妻が立っていた。そうして、布団から起きだそうとしている僕に気付いて、
「おはよう。ゆっくり休めた?」と聞いた。
「おはようございます。布団に体が張り付いてしまうくらい、ぐっすり眠れました」
僕はハーレー男の妻のいるキッチンの方へゆっくりと歩いて行きながらそう答えた。まだ、布団に戻ってしまいたい気分だった。
僕は洗面所を借り、顔を洗い歯磨きをした。本当はひげも剃りたかったけれど、うまく剃れる自信がなかったのでやめた。昨日の運転で腕にうまく力が入らなかったからだ。ハーレー男の妻は、まだ早い時間にもかかわらず、「簡単なものばっかりでごめんね」と言いながら朝食を作ってくれていた。それは、卵とねぎとうどんの入った優しい味付けの雑炊だった。いつもだったら朝は食欲が無いはずないのに、僕はそのうどんの入った雑炊をお代わりして食べた。ハーレー男の妻は僕が雑炊を食べてしまうと、「名産だからね」と言ってオレンジジュースの入ったグラスを僕に渡してくれた。それは、とてもミカンの味の濃いジュースだった。ハーレー男の妻は、僕が朝食を食べるあいだ、大きなテーブルの僕の向かいに座り、白くぽってりとしたマグカップにいれたコーヒーをゆっくりと飲んでいた。
「田辺君には、恋人はいないの?」
ハーレー男の妻に急にそう聞かれ、僕はびっくりして顔を上げた。
「もしかして、恋人に会うために鹿児島に急いでいるの?」
僕はオレンジジュースを飲みほしたグラスをテーブルに置き、左右に大きく首を振って、
「付き合っている人はいません、それに、別に急いでもいませんよ」
「そう?田辺君とってもきれいな顔をしていて、かっこいいから絶対女の子にモテてるでしょう?」
ハーレー男の妻は好奇心いっぱいで僕に質問をした。
「全然。僕、あんまり話すのが得意じゃないし。だから、あんまり僕に話しかけてくる女の人はいませんよ」
ある人に以前言われたことがある。僕に初めて会ったとき、とっつきにくい印象だったと。
「田辺君の好きになる人ってどんな人なの?会ってみたいな。でも、こんなかっこいい田辺君に彼女がいないなんてもったいないわね。私だったらほっとかないわよ、ほんときれいな顔だし背も高い。それに、あんなおじさんのお守りをしてくれて、優しいし」
「お守りって…」
ハーレー男の妻に褒められた僕は、急に恥ずかしくなってしまった。
「私なんて、今日からずっとあのおじさんと一緒なのよ。だったら、田辺君のほうが絶対いいもん」
ハーレー男の妻はずっと笑っていて機嫌がとてもよかった。だから、
「ほんとうは嬉しいでしょう?」
僕はそう聞いてみた。
「うん、やっと一緒にこの家で暮らせるからね。私達は結婚する前も、結婚してからも、離れている時間の方が長かったから。それにね、私はやっぱりあの人が一番なの。よく知らないで結婚したけど、私にピッタリの人だった」
ハーレー男の妻の真面目な顔だった。
「田辺君も、早くそんな人見つけなさいね。ほんとうに、誰か好きな人とかいないの?」そして、僕の事をそんな風に心配してくれた。
「はあ、頑張ってみますね」
僕にはそう答えるだけしかできなかった。
「彼女できたら、ちゃんとここに連れて来てね。絶対だからね、約束よ」
ハーレー男の妻は眠っている夫を無理やりに起こし、二人で出発する僕を見送ってくれた。ハーレー男は両手でしっかりと僕の手を握りしめながら
「兄ちゃん、絶対、また来てくれな、待っとるからな。もう兄ちゃんと俺はバイク仲間や。今度は一緒に松山城に行くで」と言った。
「気をつけてね。九州に着いたら、ちゃんと連絡してね」
ハーレー男の妻は僕におにぎりを渡しながらそう言ったあと小さな声で、
「そしてさっきの約束、絶対だからね」と言った。
二人は冷たい朝の空気の中、僕の出発をいつまでも見送ってくれた。広い庭のある小さな家の前で、遠ざかって行く僕のバイクに向かって二人並んで手を振っていた。僕はそれをサイドミラー越しにずっと確認しながら朝日の方向へ向けて走った。
僕が昨日、ハーレー男と出会って初めのうちは遠回りになったことを後悔するような気持だったけれど、偶然のこの出会いは大切な時間を過ごす始まりだった。偶然ではなく、誰かが僕に与えた必然のような気がした。
ハーレー男が僕に教えてくれた港へ行く途中、僕は、ずっと昔に見た風力発電の風車を見つけることができた。あの時と同じように海から吹く風が、ゆっくりと白い大きな翼を回していた。木々の生い茂る小高い山の上から、あの時からずっと静かに回り続けていた風車の列が、岬の先端に向かう道を走る僕のバイクを見おろしていた。朝の澄んだ美しい自然の中に白い翼を回転させる白い塔の列は人工的な金属の塊のはずなのに、それを感じさせることはなかった。空と緑と海の潮の匂いの中に自然を利用するために造られたその金属の羽が、この美しい景色を守る鳥の翼のようにも見えた。
小さな港に僕を待っていたフェリーは、僕がそれまで思っていたものよりずいぶん大きい船だった。僕は船員に誘導されて、バイクに乗ったままでフェリーの中に入って行った。フェリーの中は機械油と車の排気ガスの匂いがした。若い船員に僕のバイクを固定してもらうと、バックパックを片方の肩に背負ってデッキへ上がった。港にはフェリーへ乗り込む車の列が続いていた。ゴールデンウィークだから、このフェリーを利用する人はいつもより多いのかもしれない。待っている車が全部この船に乗り込むのは無理なような気がした。僕はそのままデッキに立ち周囲の風景を眺めた。僕にとって2回目の四国は、ほんの短い時間の滞在になった。ハーレー男と出会わなかったら、四国へ来ることはなかっただろう。ハーレー男が妻を想っていたように、僕が大事に想っていた彼女と一緒にこの船に乗って、四国に初めて下り立った場所もここだった。やっぱり誰かが、僕がここへ来ることを結び付けたのだろうか。
フェリーは、低い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりと港を離れ始めた。朝の明るい日差しのなか、いま僕は一人でこの船に乗っている。あの時はこのデッキの上から二人で夕暮れの海を眺めていた。そして二人は、彼女と僕の周りに誰もいないことを知っていた。だから、海に浮かんだこの船の上で、彼女と僕はキスをした。僕らの初めてのキスだった。そしてまた、さっきまでと同じように黙って海を眺めていた。彼女と僕の距離は、それまでより、ずっと近くなったような気がした。




