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ミルクロード  作者: 森野祐子
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花とわたし、明日でかけます

今朝、私はいつもより一時間遅く起きて仕事へ行く支度をしていた。少しだけ窓を開けているお風呂場の窓から、まだ冷たい外の空気と一緒に猫の鳴き声が家の中に入り込んで来ていた。きっと、どこかで子猫が生まれたのだろう。仕事から帰って来た時によく見る、玄関のマットの上で日向ぼっこをしている薄茶色のあの猫が、子供を産んだのかもしれないと思った。花と私はその猫のことをデブ猫と呼んでいた。花はいつもその猫を見つけると、「こら、あっち行け」と追い払っていた。春になって温かくなったので、恋が実った動物たちが新しい命をこの世に生み出しているのだろう。毎年のこれの繰り返しなのだと思いながら、私はとっくに飲んでしまっていたコーヒーのマグカップをシンクで洗った。

今日はゴールデンウィークの始まりの日で、学校が休みの花はまだ眠っている。私は今日まで仕事の予定が入っていたけれど明日から休みだと思うと、仕事に行くのに気が重くならなかった。それに今日は、事務所に出勤するのは当番の私一人だけで、そのことが余計に気持ちを軽くしてくれている。花は昨日の夜、DVDを見ていた私に付き合って遅くまで起きていたので、そのまま眠らせてあげることにした。私は花のために朝ごはんのおにぎりを二個作ると、それをお皿にのせてラップを掛けかぶせテーブルの上に置いた。

「花ちゃんおはよう!

ママはおしごとに行きます。

朝ごはんはおにぎりです。

お昼ごはんはれいぞうこの中です。チンして食べてね。

さみしくなったらでんわしてね。 ままより」

目が覚めた花が寂しくないように手紙書いて、テーブルの上のおにぎりの横に並べた。

寝室のドアを静かに開けて中をのぞくと、花はダブルベッドの端に布団からはみ出すようにして眠っていた。私は静かに寝室の中に入ると、花に布団を掛けてあげた。そして、花の小さな額に私の顔を寄せて、小さな声で「花ちゃん、行ってきます」と言った。

この春に小学校の三年生になった花は、祖母の家で休日を過ごすのを嫌がるようになった。それまで私が仕事に行って家にいない休日は、出勤の前に花を私の母の家まで連れて行っていた。けれど最近の花は、休みの日はひとりで家にいて宿題を済ませるとすぐにテレビや借りてきたDVDを見て過ごしているらしかった。時には近所の子と遊ぶこともあるようだけれど、ほとんど家の中にいてひとりで過ごしているようだった。

私が子供の頃は近所にたくさん友達がいて、ひとりで家にいることはあまりなかったように思う。遊ぶ場所は田んぼの広がる家の周りや、山や川ばかりだったけれど、私達は毎日退屈することなんてなかった。同じ場所でも季節によって遊び方も変わり、反対に毎日が忙しいくらいだった。そんな私の子供の頃と今の花を比べると、いつも暗くなって私が家に帰るまで、たった一人で過ごしている花をかわいそうに思う。「寂しかった?」と聞いても、「ううん、ちっとも。宿題終わらせるのが大変だもん」と、これまで一度もさみしいと行ったことはなかった。でも、花の心の中にある本当の気持ちは、私には分からなかった。花は今日一日、何をして過ごすのだろうと考えると、やっぱり花のことが少しかわいそうな気持ちになる。

家の外に出て、私が玄関の鍵をかけているあいだも、猫の鳴き声は続いていた。私はちょっと気になって鳴き声のする方を探してみると、家の裏側の土手にぽっかりと空いた穴の中から、あの薄茶色のデブ猫がものすごい勢いで逃げて行った。それでも猫の声は続いていて、穴の中をのぞくと白や茶色の小さな子猫が三匹寄り添っていた。手のひらにちょうど収まるくらいのかわいい子猫達は、私のことなどちっとも怖がっていない様子で「みゃあ みゃぁ」と鳴き続けている。こんな小さな子猫をみるのは久しぶりだった。私はこれまで家で猫を飼ったことはなかったので、自分の住む家に子猫が生まれているなんて初めてのことだった。あまりに可愛い子猫の姿に、私は触ってみたくなった。でも私が子猫を触ってしまったら、もしかして母親のデブ猫が帰ってこないかもしれないと思ったので私は子猫たちをそのまま見ているだけにした。仕事から帰ったら花にも見せてあげよう。花もきっと、こんな小さな子猫を今までに見たことはないだろう。私達の家の敷地に子猫が生まれているなんて、花と私の日常にはない珍しい出来事だった。だから私は、今日から始まるゴールデンウィークが、これまでとはなにか違う素敵なことが待っているような気がした。


私はこの町にある小さな病院で、事務の仕事をしていた。今朝は、誰もいない病院の一階にある事務所に出勤して、始業時間ぎりぎりにタイムカードを押した。ゴールデンウィークの病院は休診になっている。だから、今日ここを訪れる人はこの病院の二階にいる入院患者を見舞う人くらいだ。面会者用の入り口は正面の玄関とは別のところにあるので、私のいる事務所にわざわざ声をかけて来る人はほとんどいないはずだった。私は上着だけ制服のブラウスに着替えることにして、下は家から履いて来た黒いデニムのまま仕事をすることにした。もし誰か事務所に声をかけて来ても、受付の小窓から話をすればいいだけだった。それに仕事が終わったら、すぐに帰ることができるようにしておきたかった。私は学校の休みの花に合わせていつもより遅く起きてあわてて仕事場に来たので、事務所の隅にある小さな流しでゆっくりと歯磨きをした。誰もいない病院の一階はとても静かだ。上の階には夜勤と日勤をしている看護師が二人いて、患者のさん達の朝食の片付けをしている頃だろう。歯磨きを終えると自分の机に座った。今日の私の仕事は、電話番と先月分の職員の給与計算だ。私ひとりしかいない仕事場では、なかなか仕事を始める気持ちになれなかった。でも、今日やるべき仕事はちゃんとあったので、できるだけ早くにそれを終わらせてしまおうと、「よしっ」と小さくつぶやいて気合を入れた私は、パソコンの電源を入れた。パソコンが起動し始めるまでのあいだ、今日の私の片付けなければいけない仕事をもう一度、頭の中に思い浮かべてみた。やっぱり、私の今日の仕事は月末の給与の計算だけで、パソコンの画面に職員の勤務日数や欠勤などの数字を打ち込むだけだった。昨日のうちに半分は済ませてしまっていたので、今日は残りの半分の入力だけしか残っていなかった。もしかしたら、午前中のうちにそれを終わらせてしまうことができそうなくらいだった。私はパソコンの給与計算のソフトの画面に、細かい数字を打ち込んで行った。途中でその手を止めなければならないことはほとんどなかった。たまに電話がかかってきても、「今日、診察していますか?」と具合が悪い人がゴールデンウィークに開いている病院を探す電話くらいだった。私は黙々と数字打ち込むことに集中していて、すこし疲れたような気がして時計を見るとちょうど十時半になっていた。

私はちょっと休憩しようと事務所の隅にある小さな流しでコーヒーを入れていると、事務所の入り口のドアが急に開いて、

「おはようございます。ハルさん、今日一人ですか?」

元気のよい声が聞こえた。夜勤空けなのにまったく疲れたように見えない看護師のくみちゃんが、タイムカードを押すために事務所に入ってきていた。私よりずっと若いくみちゃんは、ちょっとぽっちゃりしていてホッペタや目がまん丸でとてもかわいい。何をしても嫌な感じがちっともしなくて、病院の患者さんの受けもよく、私はこのくみちゃんが大好きだった。

「くみちゃん、お疲れ。今日はお休みだから私一人で気楽だよ。昨日はなにもなかった?」

入院中の患者さんたちの具合が悪くなったり、急患が運ばれて来ると夜勤の看護師は大変なのだそうだ。

「ううん、何にもなくて静かで、とってもラクだったですよ」

くみちゃんは私に向かってピースをしている。そして、夜勤の荷物の入った大きなトートバックから昨日の夜の食べ残しのお菓子をたくさん机の上に出していた。

「ハルさん、これ差し入れ。一人じゃ寂しいから、菓子でも食べながら仕事するといいですよ」

私はお菓子をたくさんもらったお礼にコーヒーを入れてあげようと思ってくみちゃんに聞いた。

「くみちゃんもコーヒー飲む?」

「じゃあ、半分だけ」

くみちゃんの言った通り、カップにちょうど半分だけコーヒーを注いで渡した。

「ありがとうございます」

くみちゃんは、にっこりと笑ってカップを受け取ると私の机の隣に座った。

私はもらったお菓子の中からチョコレートを選び、くみちゃんと私のぶん五個ずつコーヒーの入ったカップの横に並べた。

「くみちゃん、これから帰って何するの?」

まだ若いくみちゃんが、ゴールデンウィークのこんな天気のいい日に帰って寝ているはずはないと思った。くみちゃんは、それを聞いてくれるのを待っていました!と、そんな感じに嬉しそうな顔をした。

「今日はこれから、馬に乗りに行くんですよ!友達が、馬に乗れるとこ見つけて、それもすごく安く乗れるって。今日、帰ったら連れてってもらえるから、もう昨日からすごく楽しみで」

くみちゃんはこれから家に帰ってすぐに、友達とここから一時間くらいで行くことのできる山の上の高原に行くらしかった。

「えっ、馬に乗りに行くの?いいな、楽しそう」

今日の夕方までひとりで仕事をする私は、これから出かけるというくみちゃんのことがすごくうらやましくなった。

「でしょう。友達があんまり楽しかったって言うから私も行きたくなって、やっと今日行けるんですよ」

「ねえ、馬に乗るのって、どのくらいするの?」

私は今まで馬になんて乗ったことがなかったので、それがどのくらいするのかは知らなかった。

「よく知らないけど、千円ちょっとくらいかな?」

「それはぜったい安すぎるでしょう。普通もっとするでしょう?」

「じゃあ、今日場所覚えて来ますから、ハルさんに教えてあげますね」

それはうれしいけど、たぶん行かないだろうなと思った。

「でも、怖くないの?馬って、近くで見ると結構大きいでしょう?」

「怖くないですよ。近くで見たら、かわいいですよ」

「でも、ゴールデンウィークだから絶対、車多いと思うよ」

くみちゃんがこれから行くはずのその場所は、ドライブに出掛けるのに気持ちがいい所で、春から秋にかけての休みの日には大渋滞することを知っていた。

「そりゃあ、渋滞もしますよ。でも、それが楽しいですよ。ゴールデンウィークって感じがして。ハルさんも人のいっぱいいるとこ行かなきゃだめですよ」

くみちゃんの大きな目が楽しそうに。そして、

「ハルさんは今日仕事だけど、明日はお休みですか?」

「明日から、二連休!」

私もピースして言った。

「じゃあ、子供さん連れてどこか行かなきゃ。みんなゴールデンウィークには、どこか出掛けるでしょう?」

私は明日からの休みにどこにも出掛ける予定はなかった。いつもと同じように家で過ごすつもりでいた。

「そうそう。子供がね、休みが終わってから学校行くと友達が遊園地に行ったとか、旅行したとか話を聞いてくるの。うちは近くの公園行くらいだからつまんないだろうね」私はくみちゃんにそう言いながら、これまで花に何も特別なことしてあげたことがなかったなと思っていた。

「じゃあ、今年は子供さん連れてどこかに出かけましょう、絶対喜びますよ。なんなら今日、馬に乗れるとこ教えてあげましょうか?」

くみちゃんは、私が花を連れて馬に乗りに出掛けることをすすめてくれた。

「ありがとう、でも、馬は今度でいいからね。あんまり気は進まないけど、やっぱりどこか連れてってあげないとダメよね、今年くらいはね」

私はなんだか、どこかに出掛けないといけないような気がしていた。

そして、くみちゃんは手を振って「一人で寂しいでしょうけど、お仕事がんばってくださいね」と言いながら元気に帰って行った。今から馬に乗りに行くことにとてもワクワクして。

私は、またパソコンに数字を打ち込む作業に集中し、予定通り午前中のうちに今日の分の作業を終わらせることができた。

お昼休みになり、くみちゃんからもらったお菓子を食べながらテレビを見ていたら、私の携帯が鳴った。花からの電話だった。

「ママ、今日何時帰ってくる?」

花は私の仕事中に電話をかけて来る時は、必ず最初にこう聞いた。

「ママ、今日すごく頑張ってるから、五時半にはお仕事終って、六時前に帰るよ」

花は、今朝9時半に起きたと言った。それから宿題をして、もう半分終わったので今はお昼御飯を食べながらDVDを見ていると言った。

「これ見たらまた宿題をするよ」

そう言った花が、なんだかやっぱりかわいそうになった私は、

「ねえ、花ちゃん。ママ、明日からお仕事お休みだから、どこかにお出かけしようか?」電話の向こうの、家に一人でいるはずの花に言った。

「え、どこいくの?」

電話の向こうの花は、ビックリした嬉しそうな声だった。

「うーん、まだ決めていないけど、今から考える。ぜったい明日はどこかに連れていてあげるから宿題済ませておいて。ママ、今日は早く帰ってくるからね」

私は、花に思いっきり期待をさせるようなことを言って電話を切った。

午前中に今日の作業をすべて済ませてしまっていたので、午後は特にしなければならないことはなくなっていた。私がこの仕事を始めたのは、花の父親と別れて花と二人で暮らすようになってからだった。大学は卒業したものの、何の資格も持たず仕事に使える専門的な知識もなかった私は、母子家庭を支援する地域のプログラムにあった医療事務の講座を受講した。それから、この病院に就職して今の事務の仕事を続けている。花がまだ保育園に通っていた時は、急な病気にかかったり夕方のお迎えの時間に間に合わなかったり、それなりに大変なことがあったけれど、そんな事があるたびに職場の人たちは嫌な顔一つせずに私の分の仕事を引き受けてくれた。花が小学生になり、自分のことを一人できるようになってからは毎日の生活にすこし余裕ができた。でもその分、仕事の量もそれまでより少しずつ増えていた。花には簡単な作り置きの夕食を一人で食べたり、休みの日を一人で過ごしたり寂しい思いをさせていると思う。仕事で疲れた時には花を叱ることや、花の話を聞くのが面倒になったりすることがあった。そんな時、私は忙しい仕事のせいではなく私に原因があると分かっていた。花と二人で暮らすようになって、花のことを一番に考えなければいけないのに、つい自分のことばかり考えてしまっている。いつまで、この仕事を続けなければならないのか、自分の好きなことをして毎日を過ごせたらいいのに…そんなことばかりだった。

事務所に一人でいる私は、仕事をしていなくても注意する人はいなかったので、明日、花と一緒に出かけるところをインターネットで探してみることにした。最初に、ゴールデンウィークの子供向けのイベントを探してみた。どれもわざわざ行ってみようと思うものはなかった。遊園地は私が怖がりなので行ってみる気にはならなかったし、動物園には保育園の遠足で何度も行ったことがあった。映画は人がいっぱいで、いい席で見ることができそうにないと思えた。出かけようと決めたのに、いろんな所の情報を見れば見るほど、出掛けるのがおっくうになってきて、やっぱり、家でのんびり過ごした方がいいような気がしてきた。でも、さっき花に明日お出かけすると言ってしまったので、やっぱりどこかに連れて行かないと、それはやっぱり花がかわいそうだった。いろいろ迷って、ドライブはいいかなと思えた。特別に場所を決めずに気の向くまま車に乗って走れば、途中に花が喜ぶようなことに出会えるかもしれない。それに、私達はあまり出掛けたことがなかったので、花はちゃんとしたドライブを知らなかった。どこか景色のいいところがいいと思った。そんなに遠くない場所へのドライブを検索してみると、くみちゃんが行くと言っていた場所がすぐにパソコンの画面に映し出された。そこは、山の上の草原の道をドライブするのにとても気持ちのいいところだった。私は小さい頃、その場所に何度も連れて行ってもらったことがあるし、大人になってからも何度もドライブした、私がすごく大好きな場所だった。美味しいものがたくさんあって、動物だって見ることができる。きっと花も喜んでくれると思った。でも、ただドライブするだけではつまらないので、そこにある観光地や美味しいものを食べることができるお店を調べていたら、最近、私がちょっと興味を持っているパワースポットがいくつかあるらしかった。単調な毎日に飽きてしまっていた私はパワースポットに行くだけで、そんな何もない毎日の暮らしが変わるかもしれないと甘い考えをもっていた。そんなパワースポットの中から、前から一度行ってみたいと思っていた神社を見つけた。美味しい天然水がたくさん湧き出ていて、近くに感じの良いカフェがあるらしい。それに、もう一つ、私が行ってみたいと思っていた店もそこにあった。私はさっそく、その神社とドライブの道案内の地図をプリントアウトした。

三時になるとまた私の携帯電話が鳴り、花がおやつにアイスクリームを食べていいかと聞いた。私は「いいよ」と言って、それから「明日は本当にお出かけするから」とまるで、計画をちゃんと果たすように私に向かって言っているようだった。花は、「うん、お昼に電話した時そうママが言ったでしょ。だから、今は、明日の分の宿題をしているの」と、明日のお出かけをすごく楽しみにしているようだった。


五時半になるとすぐにタイムカードを押して仕事場を出た。家に着くと、花がすぐに玄関まで私を迎えに出て来て「もう、漢字終わったよ。残りは日記のプリントだけだよ」と自慢げに私に報告した。

「わぁ、頑張ったね。それじゃあ、ごほうびに明日のお出かけに持っていくおやつを買いに行こう。帰ったら、すぐに夜ご飯食べてお風呂に入って寝るよ。明日は、早起きだからね」

それから、近所のスーパーへ夕食のおかずと花のお菓子を買いに出かけるために二人で家の玄関の外に出ると、朝と同じように子猫の鳴き声が聞こえてきた。そうだ、花に子猫が生まれているのを見せるつもりだった、と思い出した私は、

「花ちゃん、子猫がいるよ。ママね、今朝お仕事に行くときに見つけたの。こっちに来て」

私は、花を家の裏側に連れて行った。朝に見に来た時と同じようにデブ猫はすぐに穴から逃げ出して行き、親猫のいなくなった穴の中に3匹の子猫だけが残っていた。

「うわー、かわいい、3匹もいる。花ちゃんもね、なんか猫の声がするなぁって思っていたの、ママよく見つけたね。ねえ、この子猫たちおうちで飼うの?」

私は、やっぱりそう来たかと思った。花にこの子猫たちの存在を教えようと思った時から花にそう聞かれるだろうと予想していた。

「ううん、この子猫たちにはね、さっきのデブ猫のお母さんがいるからお家に入れることはできないよ。離れ離れになったらかわいそうでしょう?」

私がそう答えると、花はがっかりしたようだった。

「それなら、牛乳かなんかあげるのは?」

「ちゃんとデブ猫のお母さんからおっぱいをもらっているからいいよ。それに自然に生きている動物には、簡単に手を出したら駄目だよ。ちょっと餌をあげたらそれに甘えちゃって、その先自分で食べ物を探せなくなって生きて行くことができなくなるの。自然の中で生きて行くためには厳しくしないとだめなのです、分かりましたか花さん?」

私は花に向かって、先生のように言った。

「そうだね、デブ猫ちゃんがこの子たちのこと、ちゃんと大きくなるように育ててくれるね。花ちゃん毎日見に来てもいいかな?」

「見るだけならいいと思うよ。でもあんまり触んない方がいいよ、デブ猫が怒るから」

私はそう言ってあたりを見回したけれど、デブ猫の姿は見えなかった。でも、どこかできっと、可愛い三匹の子猫の様子を見ているだろう。花と私が子猫たちをどこかに連れて行ったりしないか心配しながら、じっと。

花と私は子猫たちをそのまま穴の中に残して、近所にあるスーパーへ買い出しに行くために、私の小さな古い車に乗り込んだ。花はスーパーへ向かう途中、よっぽど楽しみにしているのだろう、明日のことばかりを聞いた。もうさっきの子猫たちのことは頭の中には残っていない様子だった。

「ねえねえ、明日どこ行くの」

また、花が私に向かってうれしそうに聞いた。本当は秘密にしておこうと思ったけれど、花があまりしつこさに私は負けてしまった。

「山の上の草原の中をドライブするの。途中でソフトクリームを食べたり、面白そうなところに寄ってみたりするの。それに、牛がいるはずだよ」

「やった!ドライブだ」

花は両手をあげ、バンザイをしていた。

スーパーに着くと、花は遠足に行く時のようにお菓子を選び、私は簡単にパスタをつくって夕食を済ませようとベーコンとブロッコリーを買った。

家に帰り、出来上がったパスタをリビングのテーブルで花と向かい合って食べながら

花は明日のことをまた話していた。

「そうげんってどこにあるの?そこに牛がいるの?」

「車で、一時間くらいかな。あっちの山の上の方だよ。でも草原だけじゃなくて、そこからいろんなところに行くから、もっとかかるかもね。そこにね、きっと牛がごろごろいるよ、牛たちの聖地みたいな所だからね。それに、ママのパワースポットとやらにも行くからね」

私は、家の東側にある玄関の方を指さした。そして、今日の午後に決めたばかりの明日の予定を花に教えてあげた。花は、私の言ったパワースポットと言う言葉に反応して、それが何なのか不思議そうだった。私は「明日になればわかるよ」と花の期待を大きくふくらませるように答えておいた。

お風呂からあがってリビングに戻ると、花は明日のお出かけをよっぽど楽しみにしているようで、遠足に行くときのリュックサックにお菓子や双眼鏡を入れて、明日着て行くために自分で選んだ洋服の横に並べていた。私も花と同じように、明日の準備を済ませておくことにした。春になったら着ようと思って買ってから、ずっとそのまましまっていた水玉のワンピースを出してハンガーにかけた。私も花と同じにリュックサックがいいかなと思った。だけど、私の持っているのは山登り用の大きなものだったので、いつも使っている茶色の革のショルダーバックを持って行くことにした。私は明日のために選んだそれらの物を、花と同じように部屋の隅に並べた。

「花ちゃん、もう寝ようよ。明日早起きだから」

花に向かって声をかけると、いつもは十時過ぎまでテレビを見て起きている花も今日は素直にベッドに入った。布団の中で花は、

「明日楽しみだね」

そう何回もキラキラした目で私を見つめて言った。私は花のそんなワクワクしているところが可愛くてたまらないと思った。

「明日はね、ゴールデンウィークを満喫しようと思うの」

「ゴールデンウィークをまんきつ?」

「いつもとは違うお休みを過ごすの、お家から飛び出して、花ちゃんがこれまで行ったことがないところで思いっきり楽しむの」

私も花と同じくらい明日の事が楽しみになっていた。花はいつもより早い時間にベッドに入ったのにすぐに眠ってしまった。でも私は明日のことが楽しみになりすぎてなかなか眠れなかった。しばらく頑張ってみたけれど、どうでも眠れそうになかったのでベッドから起き出した。そして、最近私がハマっている、ちょっと前に放送されていたドラマのDVDを見ることにした。テレビで放送されている時には興味がなかったのに、この前の休みの日にドラマの再放送を見てしまったら、出演していた男の子があんまりかっこよくてすっかりはまってしまった。そして、花の好きなアニメのDVDを借りに行った時に、私もそのドラマのDVDを見つけてまとめて借りて来ていた。もう三日間、同じのばかり見続けているのに見飽きることはなかった。このドラマは、大学生のゴロウ君と彼の事が好きなアカネちゃんが、自分たちの夢と恋をかなえるために頑張っているというよくある設定なのに、私も主人公のアカネちゃんと同じ気持ちになって、ゴロウ君にドキドキ恋をしてしまっていた。ゴロウ君はとてもきれいな顔をしていて、すらりとした体形や優しいところなんか、私の好きなタイプにちょうどピッタリだった。花と二人で暮らすようになって、本当はその前すっと前からこんなにドキドキする気持ちになること久しぶりのことだった。


私は大学を卒業して、地元のこの町に戻り県内にいくつかの営業所を持つ食品会社に就職した。大学で専攻して専門分野を活かせると思って就職したけれど私が配属された先は営業所での販売の仕事だった。いつかは研究室で新しい商品の開発ができると思いながら販売の仕事も頑張ってはみたけれど、その希望はいつまでたってもかないそうにはなかった。就職して二年たった時、職場の飲み会で同じ営業所に勤務している二歳年上の先輩と仲良くなって、それから付き合うようになった。私は大学時代に付き合っていた彼と就職して離れてしまい、しばらくは連絡を取り合っていたけれど結局そのまま別れてしまっていた。と言うより、私はふられてしまった。でも私はその彼のことがすごく大好きだったので、すぐには彼のことを忘れることなんかできなかった。そして、それまで頑張って続けていた仕事にも、やっぱりやりがいを感じることができなかった。たぶん寂しかったのかもしれない。だから、誰でもいいから私と一緒にいてくれる人がいて、何も思い悩むことのない生活を送りたかったのかもしれなかった。付き合い始めると二人はすぐに将来のことをについて話すようになり、それから二年後に結婚した。

「ハルちゃん、大好きだよ」

夫はいつもそう言ってくれた。たぶん、一生そう言って私を愛してくれるという確かな想いがあった。私への気持ちを言葉にしてくれる彼と一緒に暮らすことは、私をすごく安心させてくれた。だから、一番好きな人でなくても、私を一番に想ってくれる人と暮らすことが私にとっての幸せだと思うようになった。

私達は、結婚式も新婚旅行もしなかった。私はそんなのどうでもいいと思っていた。私は自分達の結婚を誰かに祝ってもらいたいと思わなかったし、二人での旅行もそんなに魅力を感じなかった。夫やその両親は、ささやかでいいから式を挙げて欲しいと言った。

私達は、仕事場の近くにあった小さなアパートで二人の暮らしを始めた。そしてすぐに私は花を妊娠した。妊娠が分かると私は喜んで仕事を辞めた。二人のそれぞれの両親は私の妊娠を喜んでくれた。夫の両親は遠くにある安産の祈願で有名なところへ、私たちを連れて行ったりもしてくれた。それなりに私のことを大事に思っていてくれていたと思う。でも、私はどうしても夫の家族に馴染むことができなかった。花が生まれて、花のことを可愛いがってくれる夫の家族を見ていると、まるで花を取られてしまうような、そんな感じがするようになった。それは、はじめは夫の家族だけだったものが、次第に夫にまでそう感じるようになっていた。それからは、それまで気にもならなかった夫の習慣や癖の一つ一つが目につくようになり、だんだんそれが積み重なって最後にはそれを見るのが嫌でたまらなくなった。それでも、私には夫と別れて生きて行く自信はなかったので三人での暮らしを続けていた。でも、私の一度嫌だと感じた感覚はなくなったりはしなかった。それとは反対に、夫に対する私の嫌悪感のようなものが日に日に大きくなって行き、しまいには一緒に暮らすことができなくなった。私は勢いだったのか、それとも意地だったのか花を連れてアパートを出て実家に帰った。その一カ月後には、夫も三人で暮らしていたアパートを出て実家に帰っていた。私は、花を私が育てることを許してもらうために、夫とその両親に会いに行った。

「すべて私のわがままです。何もいらないので、花だけは私に育てさせてください」

そう私が言ったとき、夫はもうすでに諦めてしまっていた。夫は私の気持ちがそう簡単には変わらないことを分かっていた。だから、短い話し合いで私と花の生活が始まった。それから、夫やその家族に会うことも連絡を取ることもなかった。もう再婚して、新しい幸せな家庭を築いているのかもしれない。私は夫に幸せになっていて欲しいと思っている。夫は優しかったし、夫の家族も悪い人たちではなかった。でも、夫のことを私が一生そばいたいと思えなかったから、ちょっとした習慣や考えの違いを受け入れることができなかったのかもしれない。私を一番愛し、想ってくれる人と暮らすことで幸せになれると思っていたのに、ほんとうは私が一番に想える人でなかったことがそうさせてしまったのだろう。

花と二人で暮らすことを決めたとき、もう私は一生、誰にも恋をすることはないだろうと思ったし、恋をしてはいけないような気がしていた。これから先は花だけを見て生きて行こうと。でも花が大きくなって手があまりかからなくなると、花に対する私の役割が少なくなって、そのうち私が必要ではなくなる日が来るのが怖いと思うようになった。花にも好きな人ができて私ひとりこのまま残されてしまうのかと思うと、誰でもいいからそばにいてほしい気持ちになる。でも、私はもう何年も恋なんてしていないし、恋愛に対する怖さもある。それに今の自由で気楽な生活は、とても居心地がいいもだと思っている。そんな時に、私はこのドラマを見て現実のものではない恋の話にドキドキを感じて満足していた。でも私のこの胸のドキドキは主人公のゴロウ君にではなく、ずっと前に大好きだった彼が、ゴロウ君が似ているからかも知れなかった。    

DVDを見終わると、もう二時になっていた。私は、花とドライブに行くため早起きすることを思い出して、あわててベッドの中にいる花の横にもぐり込んだ。私は寝ている花をギュッと抱きしめて眠ろうとした。それでも、胸がドキドキしていて、すぐに眠ることができなかった。



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