夜明け前、僕の出発
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三月の末、日差しが暖かくなった日の午後、僕は事務所の自分のデスクに座りパソコンの画面をぼんやりと眺め、ゴールデンウィークの四日間の休みをどう過ごそうかと迷っていた。ちょうど、依頼されている住宅の図面があらかた出来上がったばかりで、疲れて果てたように動けないでいるところだった。
僕は今設計事務所で仕事始めてから、こんなにまとまった休みを取ったことはなかった。だいたいその時期になると毎年、休みで時間のある依頼主と打ち合わせの予定が入っていた。でも今年のゴールデンウィークは、今やっている仕事がちょうどその前に終わる予定になっていて、次の仕事までぽっかりと4日間、穴が開いたように仕事の予定がなかった。僕は、今年こそはゆっくりと休みをとるつもりで、そこに新しい仕事を入れないようにしていた。それで僕は、ここ数日のあいだゴールデンウィークの休みに何をしようかとずっと考えていたのだった。僕には一緒に旅行をする相手もいなかったし、どこか海外に行くにしては休みが短すぎた。インターネットでいろいろ調べてみたけれど、どれもピンとこないものばかりだった。気分がモヤモヤとした感じがしてすっきりとしなかった。早く予定を決めないと、せっかくの休みをぼんやりと過ごしてしまいそうだった。
僕は、休みを利用して実家のある鹿児島へ帰ることに決めた。ちょうど去年結婚した妹に子供が生まれたばっかりだったので、僕の初めての甥っ子に会いに行ってみようと思った。今日にでも、ネットで飛行機のチケットを予約しておかなければいけない。予定か決まってしまえば、気分が少し軽くなった。
僕はとっくにさめて冷たくなっていたコーヒーを入れ直すために席を立った。マグカップを持って、事務所の奥にある小さな流しの方へ歩いていると、同じ設計事務所の先輩である田村さんが隣の席に座る同僚と、結婚するのでそれまで乗っていたバイクを手放すことにしたと話をしているのが聞こえて来た。田村さんは雨が降らない日は、いつもこの事務所までバイクで通って来ていた。そして愛車のバイクをまるで恋人のように大切にしていた。それが、本当の恋人ができて、そのひと結婚することになったので、バイクに一人で乗ることはないからと手放すことにしたそうだ。結婚してバイクを手放してその代わりに車を買おうかと迷っていると、少し前に田村さんから聞いていた僕は、田村さんがいよいよバイクを手放してしまうことに決めたんだと思った。
僕は大学生の時に大型二輪の免許を取り、それから卒業するまでずっとバイクに乗っていた。東京に来る時に手放してからも、いつかまたバイクに乗りたいと思っていた。だから僕は、その田村さんがバイクを手放すという話を聞いて、急に、田村さんのバイクがどこかへ行ってしまうのを寂しく思った。僕は、よく考えもしないで田村さんに声をかけていた。
「田村さん、バイクどうするんですか?もしよかったら、僕にバイクを譲ってもらえませんか?」
僕のそんな申し出に田村さんは、初めはビックリしていた。
「別に悪くはないけどさ、でも一〇年も乗ってるからもうおんぼろだよ。メンテナンスはきちんとしてきたからまだ十分乗れると思うけど、せっかく乗るんなら新品の方がいいだろう?」
僕には、田村さんに大切にされてきたバイクがモデルチェンジを繰り返してきた新しいバイクにはない、長い時間をかけて作り上げた堅実さと安心感があると思った。それに僕は、新しいバイクに乗ることに気恥しさもあった。田村さんのバイクなら、そんなピカピカのバイクに乗るよりもっと気楽に乗れると思った。
「新しいのもいいけど、田村さんのバイクかっこいいじゃないですか。僕、いつもいいなって思っていたから、田村さんがバイク手放して車を買おうかって言った時、あのバイクどうするのかなって心配していて…、その時から、すっと狙っていたんですけどね」
「お前がどうしても欲しいって言うんなら、俺も前に喜んで譲るよ。あのバイクじゃもうどこにも売れないし、廃車にするのはなんか寂しいから。お前が乗ってくれるなら俺も、バイクもうれしいけどさ…、おまえ、本当にあいつに乗るつもり?」
疑わしそうに僕にそう聞く田村さんの顔は、ちょっとはにかんだような、うれしそうな感じがした。
その日から、田村さんは自分の大切にしてきたバイクを僕に譲る準備を始めた。バイクを僕のものにするための手続きや、自分の通っているバイクショップに僕を連れて行き、保険やメンテナンスことなどをなじみの店主と一緒に僕に教えてくれた。そうして、僕が田村さんにバイクを譲って欲しいと言った翌週には、田村さんのバイクは僕のバイクになっていた。
田村さんにもらったバイクに乗って、鹿児島まで旅をしよう。
僕は休みに鹿児島に帰ると決めた日、田村さんにバイクを譲ってほしいと頼んだ時から心のどこかでそう思っていた。
十年以上バイクに乗っていなかった僕が、その一カ月後にはバイクで東京から遠く離れた鹿児島まで行くというのだから無謀な計画のようにも思えた。でも、僕はどうしても田村さんからもらったバイクで初めて旅をするなら、故郷の鹿児島がいいと思った。僕が地元の大学を卒業し、建築家になるのに憧れて東京に出て来て十一年、設計の仕事を初めてちょううど十年が経っていた。ずいぶん仕事にも慣れ、楽しめるようにもなっていた。でも、今の仕事が僕が望んだ本当にやりたかったことなのか、なんだか分からなくなりかけていた。だから、僕の原点にもう一度戻ってみるのもいいかもしれないと思った。
田村さんのバイクが僕のバイクになって、それからは早くバイクに慣れるために休みのたびに遠くまで走りに出かけた。東京の街では、思うようにスピードを出して走ることができなかったけれど、少しぐらい時間がかかっても遠くの海や山の方へ足を延ばすと思いっきりバイクを走らせることができた。十一年ぶりにバイク乗った瞬間はさすがに怖いと感じたけれど、体はバイクを感覚をしっかりと覚えていた。怖いのは最初の時だけで、しばらくするともっとスピードを出したいという欲望が芽生えてきた。僕は四月の休日を使ってバイクに慣れるための練習を続けたことで、一ヶ月後にはそれなりに乗りこなせるようになっていた。
僕は田村さんに鹿児島へバイクで行く計画のことを話して見た。田村さんは、僕がバイクを譲ってほしいと言った時と同じように最初はびっくりしていたけれど、
「鹿児島までねぇ、遠いなあ。かなりきついと思うけど、行けなくはないよ。体力のある若いうちしかできないことだから、やってみれば」
田村さんはそう言って、僕の計画を応援してくれた。
僕は旅に出るために、いろいろと準備をしなければならないことがあった。出発が来週に迫った日曜日、僕はバイクの旅に必要な物を揃えるために買い物に出かけた。鹿児島へは四日間の旅になるので、それだけの必要な荷物が入るバックパックを買うことにした。バイク用品の専門のお店もあったけれど、いかにもバイクに乗っていますと見えるそれらのものは、僕にはどれも気恥しくて気が進まなかった。だから僕は、野外で使うという目的が同じなのでアウトドア用品の専門店で揃えることにした。バックパックは登山用のあまり肩に負担がかからなくて目立たないのがよかった。もしバイクに乗りにくかったら後ろのシートにくくりつけてもいいと思っていた。でも、僕が行ったアウトドア専門店にあるものはどれもカラフルなものばかりで、おまけに、登山では必要だけどバイクに乗る僕にはあまり必要と思えないポケットがたくさん付いていた。そんな中から僕はやっと、黒とグレーの余計なポケットが付いていないシンプルなバックパックを見つけた。僕はそれを背負って体をゆすり、ハンドルを握る格好をしながら肩のベルトを調整してもらった。そのバックパックは僕の体にしっかりと収まって、そしてずいぶん軽いのに驚いた。これなら荷物を入れてバイクに乗ってもあまり負担にならないだろうと。バックパックの他に、風や少しの雨なら防ぐことのできる黒いジャケットも買った。そのほかの物は、普段履いて体に馴染んだ黒と紺のデニムがあったし、靴も一年くらい履き続けているダナーのブーツがいいと思った。移動は高速道路がほとんどなどで地図は必要なかったし食べ物を持っていく必要もなかった。僕がバックパックに入れて持っていくものは着替えやタオル、洗面用具、カメラと財布くらいだった。それらの物を詰め込んでも、バックパックにはまだずいぶん余裕があった。
ゴールデンウィーク前日、僕は明日からの出発のために仕事を早めに済ませた。そして、退社時間になるとすぐに事務所の仲間に、明日からの休みはしばらく東京を離れることを伝えて事務所を後にした。僕は部屋に帰りすぐにシャワーを浴びると、明日からの準備を再点検し、九時にベッドに入った。長時間バイクに乗るために十分に休養を取っておきたかった。ベッドに入ってからしばらくは、明日からの旅の始まりに興奮しているのか、なかなか寝付けなかった。眠っているのか覚醒しているのかあいまいな感じの眠りだった。目覚まし時計が鳴った時、僕はまだ頭がぼんやりしていてそのままベッドの中で動くことができなかった。しばらくそのままでいると、
「そうだ、今からバイクで旅に出るつもりだった」と、これからの計画を思い出した。急いで着替えを済ませると丁寧にコーヒーを入れ、それをゆっくりと時間をかけて飲んだ。時計は深夜の三時を指していた。窓の外は真っ暗な空とぼんやりとした月、街頭や街のネオン、そして、まだ起きている人の部屋の明かりが見えた。昨夜の天気予報で、今日の天気は曇りだと言っていた。雨が降っていなければそれだけで十分だった。曇りの方が暑くならず走りやすいとも思った。コーヒーを飲み終えたカップを洗い、歯磨きを済ませると、僕はもう一度荷物の確認をした。旅に出る準備は十分できていた。僕は、荷物の入ったバックパックを片方の肩に掛け、ヘルメットを左手に持つと部屋の明かりを消して玄関から外に出た。そして、四日後に必ず戻ってくることを心に思いながら玄関の扉に鍵をかけた。バイクを停めてある駐車場へ下りて行くと、まだ夜の明けていない朝の風は冷たかった。ジャケットのジッパーを首元までしっかり引き上げ、バックパックのベルトを腰にまわしてしっかりと留めた。そして、僕はグローブをはめた手でバイクの鍵を回しエンジンをかけた。まだ静かな夜の世界に、バイクの低いエンジンの音が響いた。駐車場からゆっくりと道路に出ると、マンションを見上げ僕の部屋を探した。まだ、明かりがついている窓の隣に、僕の真っ暗な部屋があった。このまま旅に出ずに、もう一度あの部屋に戻って温かいベッドに入りゆっくりと眠りたいような、そんな寂しさがあった。
「大丈夫、四日後には必ず戻って来る。僕は一カ月も前から旅に出ると決めていたのだから」
僕はそう自分に言い聞かせるように、静かにアクセルを回した。田村さんからもらったバイクは機嫌のよい低いエンジンの音を響かせ、まだ暗い街の中を走り出した。
深夜の幹線道路は、今日から連休が始まったからなのかいつもよりにぎやかなような気がした。遅くまで飲んでいたサラリーマンを乗せたタクシーや、若者たちが乗る大きな音で音楽を響かせている車、ゴールデンウィークの混雑を避け早い時間に出発した家族連れ、いろいろな人たちが乗る車がそこを走っていた。真冬の凍えるほどの寒さではないけれど、上着の首元の隙間やデニムから体に感じる空気は冷たく、僕はバイクを走らせながら身震いをした。朝になり太陽が出るのが待ち遠しかった。そして、始まったばかりの旅への緊張もまた、僕の体を固く強張らせていた。
僕は都心を出て一番初めにある高速のインターに入った。日が昇っていない暗い高速道路を走るのは今日が初めてだった。緊張が僕のハンドルを握る手を、今までよりももっと強く固くした。入口の急なカーブをゆっくりと曲がり、料金所を抜けると本線の直線に合流するためにスピードを徐々に上げて行った。僕はサイドミラーと直線の先を何度も確認しながらオレンジ色に光る高速の道を走り始めた。まだ早朝の高速道路を走っている車の数は少なかった。それでも、普通の道路よりはるかに多い数の大型のトラックが走っている。それらの間をバイクで走るのは恐怖さえも感じるようだった。大型のトラックの横を走ると風圧で、どんどん僕はトラックの方へ引きつけられるような感じがした。そんな時僕はまっすぐに走るためにハンドルを保ちながら、バイクに再び乗り始めてまだ一カ月しかたっていないのにいきなり鹿児島まで行こうというのはやはり無謀過ぎたのかもしれないと思った。鹿児島まで行くことを止めにして、次のインターで高速を降りてしまおうかとさえ思った。でも、こんな無謀ともいえる計画を立てたのには、田村さんからこのバイクをもらったことだけが始まりでなく、今の僕に必要な何かを見つけるためのことでもあった。だから、僕はどんなに怖くてもこのまま始まったばかりの旅を続けなければならない。だから、もう少しこのまま高速を走っていればそのうち運転にも慣れるだろうし、何よりこの旅からまた東京に戻った時の自分を見てみたいと思った。もしかしたら、これまでの僕の生き方を変えてしまうような何かを見つけることができているかもしれなかった。
朝日が昇り、単調な高速のオレンジ色に照らさせていたコンクリートとアスファルトの世界が、高速脇の山肌の緑や薄い灰色の空が僕の視界に色を付け始めた。空気が澄んで気持ちがいい。都心を離れるにつれ、そこを走る車の間隔も広くなり、思いきりスピードを上げることができた。もう僕は、このままどこまでも走ることができるような気がした。
高速を走り続けて二時間、僕は富士山が見えるサービスエリアに入り休憩することにした。広いサービスエリアの駐車場に停まっている車の数は少なくて、建物の一番近くにバイクが数台止まっていた。僕も他のバイクと並んで僕のバイクを停めた。初めは背負っていたバックパックを軽いと感じていたけれど、今はとても重たかった。まだ始まったばかりで鹿児島はずっと遠くにあるのに、僕は最初から長い距離を無理して走りすぎたと思った。全身の筋肉が緊張から解き放たれた途端、疲労へと変わってしまったようだった。ヘルメットを外そうとすると手先が震え、金具を外すのに苦労した。バックパックから財布を取り出しポケットにしまうと、明るい建物の中へ向かった。建物の中は温かく、僕は土産物を眺めるまばらにいる観光客の間を抜けて、朝食を出している眺めの良い窓際のテーブルに座った。周りを見渡すと、朝食を食べる中年の夫婦や、貨物トラックの運転手の男たちがいた。僕はまだ緊張しているのか、何も食べる気がしなかった。販売機で温かいコーヒーを買いテーブルに戻ると、体が椅子にくっついてしまうくらい重たく感じた。ヘルメットを外すと時と同じように、コーヒーの入った紙カップを持つ手がかすかに震えている。僕はこぼさないように両手でしっかりと持ち、コーヒーを少しずつ口に含むとだんだんと体が温まってきた。窓の外には富士山が見えるはずだった。今朝は、雲が山の半分から上の方を覆っていて全貌を眺めることはできなかった。でも、朝の澄んだ空気の中、雲の下に見える濃い緑の山裾がその山の雄大さを感じさせた。僕はそのまま十五分くらいゆっくりと椅子に座って疲れた体を休ませると、また走り出すために立ちあがった。ゴールデンウィークに出かける車で混雑する前に、少しでも先に進んでおいた方がいいような、そんな焦りのような気持が僕にはあった。
駐車場に出ると、僕がここに着いた時よりもすこし風が暖かくなっているのを感じた。僕はバックパックを背負い、ヘルメットをかぶるとバイクにまたがった。エンジンをかけると、田村さんからもらった僕のバイクは機嫌のよいエンジンの音を響かせた。
「うん、大丈夫、僕のバイクはまだまだ走り続けることができる」
僕は高速に合流すると再び南へ向けて走り出した。
一人で走っている僕のバイクを、数台のバイクの集団が追い抜いて行った。バイクの後ろに寝袋や荷物がくくりつけてある。どこかへ遠出するのだろうか。早朝、僕が走り始めた時よりも車の数はずっと多くなっていた。バイクを走らせながら僕は、飛行機に乗っていたらもうとっくに鹿児島へ着いている頃だろうと思った。
最後に鹿児島へ帰ったのは、昨年の冬、妹の結婚式に出席した時だった。それ以来、僕は鹿児島に帰ることも、僕の家族に会うこともなかった。鹿児島にある実家には、両親と祖父母だけが暮らしている。ゴールデンウィークの休みに僕が鹿児島へ帰ることを伝えた時、一番喜んだのは祖父母だった。ひ孫が生まれた今も、大人になった僕を子供の頃と同じようにかわいい孫と思っていてくれているようだった。彼らが八十代になった今も、昔と同じように元気に暮らしていることが僕にはうれしかった。
僕は父方の祖父母、僕の両親と妹の六人で、僕が大学に入学して一人暮らしをするまで一緒に暮らしていた。両親は仕事をしていたので、僕が小さかった頃のほとんどの時間は祖父母と過ごしていた。祖父はとても厳しい人で僕が小さい頃は、よく竹の長い定規で叩かれていた記憶がある。勉強にもしつけにもとてもしっかりとした考えを持っている人で、そして僕にいろいろなことを教えてくれた。小さい頃は、その厳しい祖父と一緒にいるのが嫌で、いつも友達のところへ遊びに行きたいと思っていたけれど、祖父は学校から帰った僕を外に遊びには行かせてくれなかった。学校の宿題を祖父に見てもらわなければならなかったからだ。祖父は僕が終わらせた宿題を見直しながら、
「もっと字を丁寧に、堂々と書きなさい」
よく、そう僕に向かって言っていた。そして、祖父の好きな算数の時には、教科書に書いてある通りの美しい数字で答えを書くことを僕に求めた。学校の宿題を祖父が満足するまで終わらせることができると、僕はやっと友達の所は遊びに行くことができた。
厳しい祖父とは反対に祖母は優しい人だった。勉強が終わる頃を見計らって、よく手作りのおやつを準備してくれていた。だいたいホットケーキやまんじゅうやなんかだったと思う。宿題が終わると僕と妹と祖父母が並んで縁側に座り、きれいに整えられた庭を眺めながら祖母のつくってくれたおやつを食べた。夏には僕や妹が喜ぶように、名物の白クマを真似てスイカや缶詰めのミカンをのせ、たっぷり練乳をかけたかき氷を作ってくれた。祖父は甘いものが大好きで、「おいしい、おいしい」と言いながら、僕の宿題を見る時とは全く別人のようになった。そんな時の祖父は優しかった。祖母はよく、「おじいちゃんがお勉強を厳しく教えてくれるのは、あなたがうらやましいからだよ。おじいちゃんが小さかった頃は戦争があって、本当は東京の大学に行って数学の勉強をしたかったのに、学校に行くお金がなかったから行けなかったんだよ。だから、今の子供たちは何にも心配しないでいっぱい勉強することができるから、うらやましいって」
「でも、じいちゃんは算数の先生になったんでしょ?校長先生もしたって、お母さんが言ってたよ」
祖父は中学校の数学の教師で、定年するまでの数年間は校長を勤めたと母から聞いていた。
「それは、戦争が終わって大人になってから働きながら学校に行って、先生になる勉強をしたからだよ。何の苦労もしないで学校に行けるのだから、今のうちにしっかり勉強しなさい。そしたら、おまえのやりたいことが見つかった時、役に立つ日が来るから」祖父の長く伸びた眉の下にある大きな目が、まだ子供の僕の目を強いまなざしで見ていたのを今でもしっかりと覚えている。
僕が高校生になっても、祖父は厳しく「勉強しろ」と言っていた。僕は祖父からそう言われるたびに、「そんなの分かっているよ、でも何のために勉強をするのかが分かんないよ」と心の中で思っていた。僕はその頃将来なりたい職業が分からなかったし、熱中できるものもなかった。だけど僕には一つだけ、子供のころから好きなことがあった。それはいろいろな建物を見ることだった。だから、高校を卒業する時、地元にある大学の工学部に入って建築を学ぶことを選んだ。その時、祖父の「好きなことを勉強しろ」と言っていたことが、僕にとっては建築なのかもしれないと思った。でも、大学に入学してからの僕は友達と遊ぶことやバイトばかりで、勉強をするのは学期末の試験の時くらいだった。大学の四年生になった時、僕は漠然と設計の仕事をしたいとしか考えていなかったので、周りの学生たちがみんな当たり前のようにしていた就職活動の波に完全に乗り遅れてしまっていた。不況の影響で就職が決まることがかなり難しかった時だったので、地方の大学の建築科を出ただけでは、最初から設計の仕事をさせてもらえるような就職先を見つけることはできなかった。どんな企業でも内定をもらえるだけでいい方だった。僕は就職活動をあきらめて、研究室で中国の山岳少数民族の建築についての研究に熱中した。夏休みには研究室の教授と数人の学生で中国へ行き、二か月間現地に滞在して山岳に暮らす少数民族が先祖代々住み続けてきた古い建物について調査をした。中国の奥地にある山の斜面に建つ石造り家々は、そこに住む人々の先祖が少しずつ時間をかけて山の石を積み上げて作り上げてきたものだった。決して環境に恵まれてはいない山の生活だったけれど、それは山の上の乾いた風景に自然に馴染んでいた。その時に僕は建築をもっと勉強して、ここに残っている古い建物と同じように百年後もしっかり残り、使い続けることのできる建物を作りたいと決めたのだった。そして、僕なりにその時の調査をもとにした卒業論文をまとめることができたと思う。遊ぶことの方が楽しかった大学生活の最後に、僕は充実した建築を学ぶ時間を持つことができた。最後の一年間で建築にしっかりと向き合ったことで、僕は建築家になるという将来への希望を持つことができた。僕は大学の卒業式が終わるとすぐに就職先が決まらないまま東京へ行った。僕は、東京の会社に就職した大学の時の友人の部屋に居候して、オフィスの清掃のアルバイトをしながら就職先を探した。まだ不況の影響は続いていて、設計の仕事ができる就職先を見つけることは難しかった。
そんな生活が一年続き、実家の母から「知り合いの工務店が、設計をしながら大工の仕事もやってみないかって話があるけど、こっちに戻って来ない?」と何度か電話があった。僕は、その時母に
「東京で建築の仕事をしてみたいから、もう少しこっちにいる」と言い、「心配してくれてありがとう」と付け加えた。
「じいちゃんは、なんか言ってる?」
「おじいちゃんは、あなたのしたいようにさせればいいって。お父さんも、心配はしているようだけど、好きなようにさせてやれ、そのうち就職先だって見つかるだろうだって」
僕の好きなようにさせてくれる祖父と父をありがたいと思った。
「お母さん、心配かけて悪いって思っているけど、もう少しだけ待ってくれない?じいちゃんがよく言ってから、ちゃんと勉強して自分の好きなことをしなさいって」
僕は、まだ何も始まっていなかったし、何もできていなかった。もしだめだったとしても、きちんと建築の仕事をしてからでないと故郷に帰ることはできないと思っていた。
大学を卒業して一年後に、大学の教授の紹介で今の事務所に就職が決まった。小さな建築事務所で、店舗や住宅の設計、内装を手掛けていた。僕はここで設計について一から勉強することができた。コンペに参加するような大きな事務所ではなかったけれど、依頼主の求める理想を一つ一つ形にしていく仕事にやりがいを感じていた。十年間この仕事を続けて、最近になってやっと一人で仕事を任せてもらえるようにもなった。今まで自分なりに頑張ってきたと思うし、満足もしている。でも、大学生の頃の研究に熱中していた時に僕が造りたいと思った建物は、今まで僕が手掛けてきた建物のことだろうかと最近考えるようになった。それらは、僕が建築家になって造ってみたいと思っていたものとは違うような気がした。これまで造って来た建物は、僕なりに一生懸命に取り組んだもので、出来上がった建物の一つ一つに思い入れがある。完成した建物にはそれぞれ個性や雰囲気はあるのだけれど、それがその土地の風景に馴染み魅力的であるものもあれば、依頼主の希望により個性が強すぎて周囲の風景に馴染んでいなくて、浮いてしまっているものもあった。耐震性や機能性は充実した現代的な建物であっても、月日が経ったときにそれが味わいのある建物として残こっているだろうか、僕にはそんな建物を造ったという自信はなかった。店舗では店のオーナーが、住宅ではそこに住む人が変わると簡単に造り変えられてしまうようなものだった。僕は、ずっとそこにとどまっていたいと感じられて、そして、僕が死んだあともちゃんと残っていることができる、そんな建物を造ってみたいと思っていた。
ゴールデンウィークの休みをどう過ごそうかと考えた時、大学生活の最後に建築に対して真剣に向き合った鹿児島に帰ってみることで、僕のやりたかった建築についてもう一度考えることができるかもしれないと思った。




