十二話 記憶のジレンマ
登場人物
元囚人女性、洗脳の使い手 主人公 セーレ
セーレの仲間 マーク、ビィシャア
他
「アーネスなの? それに、あの罪人と呼ばれる『彼』はどこかで、見たような……」
セーレはその場で硬直していた。
「どうしたんだ?」
「大丈夫ですか?」
マークとビィシャアが話し掛けるも声は彼女には届かなかった。そんなことよりも頭の中を巡るのは、ぼんやりとした記憶が駆け巡る。誰かと過ごしたはずの、大切な時間。それを思い出そうとしても顔だけが白くぼやけ、記憶があやふやだ。
「もん、何なのよ――!」
二人を振り払うような叫びだった。
笑い合ったことがあったのかもしれない。手を差し伸べてもらったことも、誰かの名前を呼んだこともあったはずだ。しかし、思い出そうとするたびに、記憶の輪郭が崩れていく。
そこにいるはずの人物の顔だけが、白くぼやけていた。
声も聞こえない。表情もわからない。ただ、温かな何かが自分の中に残っている。
それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
(私は、誰を忘れてしまったの?)
セーレは自分の頭に手を当てた。
記憶を失っていることは知っている。アドモスから受けた呪いによって、生きている人間の名前を覚えることができない。それは、これまで何度も経験してきたことだった。
顔は覚えられる。声も、仕草も、出会った場所も記憶できる。
けれど、名前だけが抜け落ちる。
それなら、今感じている違和感は何なのだろう。
名前だけではない。顔そのものが思い出せない。まるで、誰かが記憶の一部分を切り取ってしまったかのようだった。
(違う。これは呪いのせいだけじゃない)
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った気がした。
罪人と呼ばれていた彼。
あの人物を見たとき、確かに何かを感じた。初めて会ったはずなのに、初めてではないような感覚。忘れてはいけない誰かを、もう一度失ってしまうような恐怖。
なぜ、あの人を見て胸が締め付けられるのか。なぜ、アーネスという名前を聞くだけで、心が乱されるのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
戦争で多くの人間を操り、命を奪ってきた自分が、今さら誰かを懐かしむ資格などあるのだろうか。
自由と平和を夢見ていた少女は、いつしか洗脳の女王と呼ばれるようになった。誰かの意思を奪い、誰かの人生を壊し、最後には敗北した。
そして、三年間も監獄に閉じ込められた。
その間、自分が何を失ったのかさえ、まともに考える余裕はなかった。
失ったものは自由だけではない。
大切だった人間も、過ごした時間も、交わした約束も、すべて遠い場所に置き去りにしてきたのかもしれない。
それでも、自分には何かが残っていると思っていた。
ところが、今になって気付かされる。
自分は、自分自身の過去さえ知らないのではないか。
「……どうして」
唇がかすかに震えた。
思い出せないことが怖いのではない。
思い出した先に、何が待っているのかが怖かった。
もし、あの罪人が自分にとって大切な人間だったら?
もし、自分が彼を傷つけていたとしたら?
そして、もし彼が自分を憎んでいたとしたら……。
考えたくもない可能性が、次々と頭に浮かんでくる。
誰かに許してほしいのだろうか。それとも、自分が誰かを許したいのだろうか。
答えは出ない。
ただ、胸の奥に沈んでいた感情が、少しずつ形を持ち始めていた。
(つらい、つらい……それが、わからない)
こんな自分を見られたくなかった。
誰かに心配されることも、慰められることも、今は耐えられそうにない。
他人の心を操ることができた自分が、自分の心ひとつ制御できない。
なんという皮肉だろう。
セーレは震える指を握り締めた。
(お願いだから、思い出させないで)
そう願う一方で、心のどこかでは必死に叫んでいた。
(お願いだから、思い出させて)
相反する二つの願いが、彼女の心を引き裂いていく。
白くぼやけた記憶の向こう側に、誰かがいる。
その人物が誰なのか、まだわからない。
けれど、確かなことが一つだけあった。
自分は、その人を忘れてはいけなかったのだ。
「どうしたんだ、セーレ? 急に頭を抱えたと思えば、今度は叫ぶし情緒不安定になったのか?」
「ごめんなさい。良かれと思い、ママに合わせたのがいけなかったかしら?」
二人は、セーレを心配そうな顔で見つめた。
セーレは手を振り、無用な心配と首を横へ振った。目が少し充血しながら、ある一点を見つめた。
「次の目的地は、決まったわ」
「んっ……どこにするんだ?」
マークに尋ねられた彼女が見つめる先には、あるものだけを捉えていた。
「あのモニターに映る王城よ」
黒髪の優しそうな男性の姿。モニター越しで演説するのはアーネスだ。
彼の真意を確かめようとセーレは決意を固めた。
「王城、ここからだと百キロ先になるけど」マークは頭を掻きながら尋ねた。
「構わないわ、私は王城に行かなくてはならないの」
マークはビィシャアに地図を渡し、王城への道筋を赤ペンで書き込んだ。そして、セーレに対し王城へ行く理由を尋ねた。
「どうして、王城に拘るんだ?」
少し言葉に詰まってから、セーレははっきりと答えた。
「あの放送を見て、確かめなければならないと思ったから」
「何を確かめるんだ?」
「それは、私自身の記憶に関係すること。それにアーネス……過去に言論の自由を掲げた統率者の真意を確かめたいの」
(まぁ、納得)しかし、マークには気掛かりなことがひとつあった。
「そうか、わかったよ。それと……」
言葉が詰まりもじもじする彼をセーレが問い正した。
「それとって何よ」
「いや、あのさ……」
「何なのよ、はっきりしなさいよ!」
マークは呼吸を整え、胸の高鳴りを抑えた。
「あの放送で流れた罪人。セーレの恋人ってだけで罪に問われていて、やり過ぎだと思うんだよ……あっ、あのさ、実際に付き合ってはいたの?」
彼女はしばらく考え込んだ。その返答を待つマークは、落ち着かない様子で息を呑んでいる。
「わからないわ。恋人を名乗る人物は会ったことがないと思う。けど……アーネスは戦時下で私の支えになってくれていたわ」
セーレの返答を聞き、マークは安堵したように表情を緩めた。
「そうか」
その言葉はすでに彼女の耳には入っていなかった。
「次の目的地に向かうため準備をしましょう」
三人はモニターを見るのを止め、その場を後にした。
数時間後。ビィシャアの提案で、本日はこの村に泊まる。
その前に、セーレは久々の買い物を楽しんだ。マークは「お留守番」を命じられた。
所持金は、最牡でクライから受け取った支援金が残っていた。
「この村はなんて言う集落なの?」
女同士の会話で楽しそうな談笑が続く。ビィシャアは自身の村の紹介し始めた。
「そういえば言ってなかったわ。ここは譚蔴村っていうの」
「そうなの、私はあの戦時下で、あなたたちの一族の名を知ったわ。ネイサンだったわよね?」
「そうだよ。よく知ってるね」
ビィシャアが語ったのは、ネイサンの名前の由来は一族が使う技と、譚蔴の黒家についてだ。
まず、ネイサンは『Nature's Sun』。
つまり自然の太陽という意味だ。日光が少ない環境であり、それを追い求めたことでついた名前だ。
次に、一族が使うのは錬成に近い能力だ。手を燃やしているのは、石を熱で柔らかくし手で形を整えている。彼等曰く熱くはないとのこと。
最後に黒家は、最初に話した太陽の日光が少ない環境を利用した熱を取り込む技術である。この村は崖下で、日が少ないため、カラスの黒色を見て閃いたらしい。
「そうなの、説明ありがとう」
ビィシャアとセーレは、買い物を終え帰宅した。
母親のご好意で、手料理を振る舞い客人をもてなした。
料理は鳥の姿焼き、芋サラダ、コンソメスープとぶどう酒が出された。その料理はどれも美味で、ぶどう酒が進む。
結局、セーレとマークは酔いが回り、ビィシャアの家に泊まることが決定した。
「コココ、コケ、コケッココ――」
ペット兼食料の鶏の鳴き声で、セーレは目を覚ました。
「朝か……」
ビィシャアの言った通り、この村は崖下で日差しが少ない。
朝の七時なのに、外の天気は薄暗くわずかな陽光が崖の隙間から差し込んでいた。
セーレは床に敷かれた敷布団から起き上がり、玄関ドアを開け外へ出た。
「おはようございます」
「おはよう」
ビィシャアは何やら、小さなポーチの中に鉱石を詰め込んでいた。赤、青、黄色と色とりどりの鉱石は、形も大きさも不揃いで、動くたびに小さな音を立てている。
彼女は一つひとつ確かめるように鉱石を収め、最後にポーチの口を閉じた。そして、決心したように立ち上がると、セーレの前へ歩み寄った。
「私も、セーレの旅に同行させてほしいの」
突然の申し出に、セーレは言葉を失った。ビィシャアの表情からは、迷いと決意の両方が感じられる。
しばらく沈黙が続いた後、セーレは静かに深呼吸し、慎重に言葉を選んだ。
「それは嬉しいけど、私と一緒にいると、あなたの憎しみが増してしまうのではないかしら」
「私はあなたが憎いのかもしれない。でも、正直なところ、パパの死は認めたくないし、あなたが全部悪いとも言えない。だから、これからのあなたを自分の目で見て、この気持ちに決着をつけたいの」
ビィシャアはセーレから目を逸らさなかった。父親を失った悲しみも、彼女に対する複雑な感情も、まだ消えてはいない。それでも、過去に囚われたままではいけないと考えたのだろう。
セーレは彼女の気持ちを受け止めるように、小さく頷いた。
「わかったわ。私は呪いのせいで、あなたの名前を覚えることはできないけど、これからよろしく頼むわ」
そう言って、セーレは左手を差し出した。
ビィシャアは一瞬だけ驚いた表情を浮かべたものの、すぐに微笑み、その手を握り返した。
「えー、俺の時はしなかったよね。握手」
後方からマークの不満げな声が飛んできた。二人の様子を眺めていた彼は、どこか落胆したような顔をしている。
そんなマークを見て、セーレは思わず口元を緩めた。
「ふふふ、あなたは付き纏っているだけでしょう」
「酷いな。ごほん、とにかく……ビィシャアさん。よろしくお願いします」
マークは気を取り直すように咳払いすると、改めてビィシャアに向き直った。
「ビィシャアでいいわ。あなたもよろしくね、マーク」
彼女は気さくに答え、二人に向かって微笑んだ。
こうして、セーレとマークの旅にビィシャアが加わることになった。
それぞれに抱える事情も、胸に秘めた思いも異なる。決して穏やかな旅になるとは限らない。それでも、三人は新たな一歩を踏み出す。
目指すは、王城。
こうして一行は、王城へ向けて出発するのであった。
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