第9話 とろろそば
熱い湯気を立てるとろろそばが運ばれてきたとき、手元に残っていたのは二千の紙が一枚と、裾の紙が三枚きりだった。千の紙は一枚も残っていない。
背負子は空になり、土間の隅には白い狼が静かに身を伏せていた。首筋から背骨に沿って走る一本の細い黒い筋だけが、今朝まで大天狗の風切羽だった名残をとどめている。
左肩は鎖骨のあたりから固まり、胸より上へはびくとも持ち上がらない。全身のあちこちで鈍く軋む痛みの場所は、数え上げるのも途中でやめていた。
差し引きの計算が合っているとは到底言えなかったが、昨夜戻らなかった二枚の手形は、今朝方には二枚とも無事に関の窓口へ戻った。救助の現場においては、その一点さえ合っていればそれでよかった。
「右に置きます」
厨房から出てきた婆さんの孫娘は、俺の強張った左肩を一瞥しただけで、湯気の立つ丼と割り箸、それに熱い番茶の湯呑みを、すべて右手側へ音もなく並べた。
ついでに土間に下ろしてあった背負子の横木を持ち上げ、俺の左肩を絶対に擦らない側へ回り込んでから壁際へ寄せる。手つきに無駄がなく、荷の重心をよく知っている者の扱い方だった。
「見ただけで分かりますか」
「引き戸を開けるのに、左足の爪先まで使って押し開けていましたから」
「そこまで見られていましたか」
「建て付けが狂って戸が壊れるかと思いましたよ」
孫娘はそれだけ淡々と言い捨てると、盆に乗っていたもう一つの丼を、向かいの須貝の前に置いた。
朝七時過ぎ、軒下で番茶を飲み終えた俺は、婆さんに「奥で倒れて寝な」と怒鳴られて小上がりの座敷へ放り込まれ、再び泥のような眠りから目を覚ましたときには午後二時を回っていた。
筑波の仕事には、もう間に合わなかった。
七時間ほど熟睡したところで、痛めた左肩は腕の上げ方を思い出す気配すらなかった。右の太腿も正座をすれば筋肉が強張り、立ち上がれば引き攣れる始末で、いまはただ腰掛けに座って温かいものを胃に流し込むのが一番理にかなっている。
須貝はその間に詰所への報告を粗方片付け、本隊の連中を宿舎へ追い返し、病院へ行った浅井兄弟の様子まで確認してきたらしかった。
弟の湊の足は、傷跡が残る程度で済んだという。兄の遼は弟の病室の丸椅子に座り込み、関へ提出する始末書を一文字ずつ埋めているところだそうだ。
「また山に入ると言っていましたよ」
「聞いたわ。次はちゃんと金を出して先達を雇う、とも言っとった」
「なら、高い授業料を払って一つは覚えたんでしょうね」
「その一つを覚えるために、夜の裏高尾を丸ごと一晩使い潰しおった。割に合わん高い授業料だわ」
須貝はそう吐き捨てると、割り箸をパチンと二つに割った。
奥から婆さんが番茶の急須を持って現れ、俺たちの丼を順に見下ろした。
「酒は出さないよ。徹夜明けの怪我人に昼間から飲ませるほど、うちはお人好しじゃないからね」
「救助明けの祝いの席じゃなかったんですか」
「祝いだから、とろろの盛りをいつもより増やしてやったんだよ」
箸を入れると、澄んだ温かい出汁の上で、粘り気のあるとろろが蕎麦の麺をごっそりと巻き込んで持ち上がった。左腕は痛みに引き止められて動かないので、右手一本で丼の縁へ顔を寄せ、最初の一口をすする。
出汁は薄味で、山芋の素朴な香りと甘みのほうが勝っている。徹夜で冷え切った内臓には、そのくらいの手加減が一番ありがたかった。噛む手間すら要らないものから順に、喉を通って胃袋の底へと落ちていく。
昨夜から口にした固形物といえば、婆さんにもらった飴玉二つと、婆さんが持たせてくれた握り飯がひとつきりだった。激しくすり減らした体力を補うにはまるで足りないが、失ったものを呼び戻す体の仕事は、この一口から始まるのだ。
二口目を飲み込むと腹の底がじんわりと熱を思い出し、三口目で箸を握る右手の指先にしっかりとした力が戻ってきた。山の中ではいくら願っても取り戻せなかったものが、温かい飯なら一口ごとに目に見えて戻ってくる。
湯気を立てる蕎麦を啜っても、失った高価な札が手元に戻るわけでもなく、痛めた左肩が元通りに治るわけでもない。それでも、次に自分の足で立ち上がるための熱量だけは確実に腹へ収まる。
過酷な裏山から人を連れ帰ったあとで食わせるべき飯とは、まさにこういうものだった。
「で」
須貝が丼の半分ほどを綺麗に平らげてから、箸を休めて言った。
「生きて帰ったな。二人とも」
「ええ」
「お前も、五体満足で戻った」
「須貝さんだってそうでしょう」
「わしは途中で十六のガキを拾って、半分下りただけだ」
「怪我人を一人、背負子に括って夜道を下ろしたんでしょう」
「それが請け負った仕事だろうが」
俺は右手で丼をわずかに持ち上げた。
「じゃあ、仕事が無事に終わったということで」
須貝も無言で丼を持ち上げた。乾杯と呼ぶには低すぎる位置で、二つの丼がカツンと小さく触れ合う。
「安上がりの打ち上げですね」
「五九九メートルの低山で二千の札を切るような阿呆に、これ以上高い馳走を出せるか」
「一枚は未使用で回収できましたよ」
「戻ってきたから結果オーライ、で済ませるな。使わん札を他人の懐へねじ込んで、自分は千の紙一枚で頂の主と立ち合う。お前の勘定の取り方はどうなっとるんだ」
「切らずに済んだ札は、帳尻の上では減っていませんから」
「そういう減らず口を叩くところだよ」
婆さんは鼻を鳴らして笑ったが、膳を下げに来た孫娘は笑わなかった。
その視線が、土間に伏せる白い狼の背骨に走る黒い筋から、俺の胸元の作業着へすっと移動した。
札入れの話ではない。そこには今朝、頂から下りてきて以来、ひんやりとした水のようなものが静かに満ちている。
「験は、もう使ってみたんですか」
孫娘の口から、初めて直接問いかけられた。
「まだです」
「詠唱を口にしてもいない?」
「使いどころがありませんでしたから」
「登破の登録を済ませてきたばかりの験者が、一度も験を試していないのか」
須貝が心底呆れ果てたように眉根を寄せた。
「役所の台帳に判子を押してもらうほうが先だったんですよ」
「初めて試すなら、足場が平らで広い場所でやれよ。継いだばかりの《不動》は、足元だけで治まらんことがあるからな」
「肩がそんな状態なら、今日は絶対にやめておいたほうがいいです」
孫娘は空いた急須を手に取りながら、何でもないことのように言葉を添えた。
「最初は、利かせる場所を自分で選べません。狙ったところより、ずっと広く出ます」
「ずいぶん詳しいですね」
「茶屋の人間ですから」
答えになっているようで、何の理由にもなっていない。
須貝は孫娘の顔を一瞥したが、何も突っ込もうとはしなかった。俺もそれ以上は追及しなかった。この茶屋で腑に落ちないことをいちいち聞き出そうとしていたら、せっかくの蕎麦が伸びてしまう。
「……札は、書くのか」
須貝が前を向いたまま尋ねてきた。
「自分で一度も使ったことのない験を、他人の命を預かる紙に写す気にはなれませんよ」
「書けば、今回自腹で切った札の穴埋めくらい、あっという間に取り戻せるぞ」
「取り戻すために見よう見まねで質の悪い札を書いて、それを買った人間が山で還れなくなったら、勘定の辻褄が合わないでしょう」
須貝の箸が止まり、婆さんの孫娘も盆を抱えたまま、じっとこちらを見つめた。
「なら、まずは自分の体で使い方を覚えにゃならんな」
「荷場まで荷を上げるだけなら、験なんて使わなくても通えますよ」
「……頂の主に会わん限りは、な」
そこで会話が途切れた。
「すみません、おかわりを」
空になった丼を差し出すと、孫娘は軽く眉を持ち上げた。
「怪我人ですよね」
「怪我人だからです。昨日の昼から一食ぶん抜けている」
「一食ぶんで足りますか」
「まずは一杯ずつ、失った分を戻します」
「懐の札のほうも、そうやって計画的に戻しゃあいいのにな」
須貝の横からの皮肉は、聞こえないふりをして聞き流した。
二杯目の丼は、最初の一杯よりもさらにとろろの量が多く盛られていた。祝いの増量サービスが二杯目にも適用されたのか、単に婆さんの手元が狂っただけなのかは聞かないでおく。
二杯目を啜っている間、誰も山の中で遭遇した怪異の正体については口にしなかった。
尾根で出会ったあの白い影が何者だったのか、なぜ大天狗が九合目の道を塞ぎ続けていたのか。温かい出汁の匂いが漂う食卓へ持ち込むには、どれもあまりに冷えすぎた話題だった。
代わりに、須貝が湊の平らげた飴玉の数を大袈裟に語り、婆さんは昨日の朝に遼が勝手に追加した団子二皿分の代金をきっちり請求書に回すと言い出した。
孫娘は、その伝票に「遭難割増」と書き添えてやると言った。
「それ、救助基金の窓口で受理されますかね」
「出るわけないだろう」
「じゃあ、浅井さんの完全な自腹ですね」
「関の窓口で嘘をついて弟を担ぎ込んだ授業料だと思えば、団子二皿なんて安いもんさ」
婆さんが満足げに頷いた。
二杯目を綺麗に平らげるまでに、須貝は番茶を三度注ぎ足し、俺は二度ほど左手で湯呑みを取ろうとして痛みに顔をしかめた。重い眠気が再び瞼の裏へ戻ってきたが、あの飢えるような空腹感に比べればずっと御しやすい。
丼の底を二度見届けるころには、左肩の鋭い痛みこそ引いていなかったものの、全身の痛む部位をいちいち意識する必要はなくなっていた。
内臓に温かい熱が行き渡り、胸元の冷たい水のような感覚も、朝方よりわずかに澄んできた気がする。蕎麦の汁と験の力を明確に区別できるほど、俺はまだ験者という人種に馴染んではいなかった。
須貝が最後の一筋の蕎麦をすすり終えた。
「沢渡」
「はい」
「主の羽を持ち帰り、験まで継いだんだ」
須貝は湯呑みを卓へ置き、まっすぐに俺の目を見据えた。
「次は、もっと上を目指すのか」
箸を置いた。
胸の奥には、誰にも教わっていない詠唱の言葉が静かに沈んでいる。土間の隅には、頂から俺の右側を歩いて下りてきた白い狼が佇んでいる。
それでも、口をついて出たのは、いつもの答えだった。
「担ぐだけですよ」
須貝は笑わなかった。ただ、そうか、と短く吐き捨てて番茶を飲み干した。
孫娘が空になった二杯目の丼を片付けながら、土間の白い狼へ視線を落とした。
「それなら、その狼も荷物なんですか」
「自分の足で歩いてついてくるものは、荷物の勘定には入れません」
「歩荷としては、助かるほうですか」
「一番助かるほうですよ」
今度は、孫娘の口元がかすかに緩んだ。
◆
須貝が引き揚げ、婆さんが表の暖簾を半分巻き上げるころ、山の稜線の向こうへ夕日が沈み始めていた。
俺は懐の二千の紙が一枚、裾の紙が三枚あることを指先で確かめ、空の背負子の帯を右肩だけに通して締め直した。
白い狼も土間の隅から立ち上がり、俺の右脇へ寄ってきた。片肩に偏った木枠を戸口へ引っかけないよう、体を斜めにする。狼まで横に並んだら、建て付けの悪い引き戸を今度こそ押し広げることになる。
「ちょっと待て。俺が先に出る」
右手を鼻先へ向けると、狼は足を止めた。次いで、俺の靴先へ白い鼻面を寄せ、その輪郭が土間に落ちた俺の影へと沈み込んだ。尖った耳も、背中の黒い筋も、最後に残った太い尾も、足元からすっと消えた。
俺は敷居を越える足を止めた。足元を見下ろし、靴底を半歩ずらす。影はいつもの形でついてくるが、狼の爪音はしなかった。
「……おい」
目を足元へ向けたまま敷居をまたぎ、店先の石畳まで出た。そこでもう一度影の縁が膨らみ、白い前脚が一本、音もなく抜け出してくる。狼は元の大きさへ戻ると、何事もなかったように俺の右脇へ腰を下ろした。
「そこに入れるなら、戸は壊さずに済むな」
狼は耳をこちらへ向けただけだった。俺は右手で肩の木枠を持ち直した。抱き上げる手も、通すための隙間も要らず、こいつは俺と一緒に戸口を抜けてきたのだ。
昨日の朝、ここを出発したときと同じ荷はひとつとして残っていない。
店の奥からは、孫娘が器を洗う規則正しい水の音が響いていた。陶器の触れ合う乾いた音が、静かな夕暮れに溶けていく。昨夜の裏山には存在しなかった、娑婆の日常が刻む確かな生活の音だった。
店先で顔を上げると、表参道を駅へ向かって下っていく観光客たちの賑やかな笑い声が遠くから風に乗って流れてきた。ケーブルカーの巻き上げる金属の軋みも聞こえる。その音のすべてが、あの関の木の門の境界線でぷつりと途切れるのだ。
門の向こう側には、巨大な裏高尾がそびえ立っていた。
夕暮れの光が残っている間は、夜の山よりもずっと小さく、穏やかに見える。頂の岩場は深い杉の梢に隠れ、麓からはあの石の祠も、俺が引き倒した積み石の崩落跡も見えない。
俺は頂のある方角をじっと見上げた。
昨夜、俺は確かにあの場所に立ったのだ。
下りの途中、七合目の尾根で、東の空がわずかに明るさを帯びたとき、肩越しに振り返ると、雲の切れ間から遠く富士の姿が見えていた。
見慣れた表の富士山の山肌に、もう一つの巨大な黒い山肌が重なり、その異様な峰は雲海を突き抜けて天へと伸びていた。標高の記録は三七七六メートルしかないはずなのに、その頂がどこにあるのか、下からはまるで見当もつかなかった。
裏富士。
八年前に日本中の山とともに開き、いまだかつて誰一人として頂を踏んで生きて還った者のいない一峰。
俺の丈は二四〇〇だ。制度の上で入山が許されるのは、認定された丈に一〇〇〇を足した三四〇〇メートルの高さまで。どれだけ背伸びをして足し算をしてみても、裏富士の頂にはまるで届かない。
算数の計算自体はひどく単純だった。
だが、なぜ自分がその引き算や足し算を頭の中で繰り返してしまったのか、その理由を説明するのは簡単ではなかった。
夕空の雲の縁に、三年前の兄貴の後ろ姿が一瞬だけ重なって見えた。
俺と兄貴の体を結びつけていた、あの一本のロープの感触までが肌に蘇り、次の瞬間に消え去った。
右脇で、白い狼がまったく同じ空の方角を見上げていた。
八年前、なぜ日本中の霊山は一斉に開いたのか。
山からは薬の材料や、不思議な紙が採れるようになった。
登って無事に還れば肉体そのものが強靭に作り変えられ、頂の主に立ち合って勝てば人智を超えた験を継ぐ。人間はこの八年間で、山から持ち帰ることのできる都合のいい実利を山ほど数え上げてきた。
だが、そもそもなぜ山が開いたのかという根本の理由だけは、八年が過ぎたいまも誰一人として持ち帰れていない。
白い狼の背中で、一本の黒い筋が風もないのにかすかに逆立った。大天狗が落としていった風切羽は、もはや影も形も残していない。あの羽根がなぜ狼の肉体へ吸い込まれ、消えてしまったのかも、いまの俺には見当がつかなかった。
ただ、胸元にはもうひとつ、頂から持ち帰った確かなものがあった。
唱えるべき言霊の形を、俺の喉と声のほうが知っている。
俺は関へ続く石畳の道を八歩だけ進み、鳥居に似た木の門の手前でぴたりと立ち止まった。
手形は持っていない。米の供物も納めていない。今日の俺には、もうあの境界を越えて向こう側へ入る正当な理由はどこにもなかった。
関の外側では、人間が唱えた験の力は山へ届かない。
だからこそ、ここで声を出したところで、何の力も発動しない。平らな場所で試せという須貝の忠告にも、広く出すぎるからやめろという孫娘の戒めにも反しない。ただ、自分自身の喉にその言葉が収まるかどうかを、確かめてみるだけだ。
門の向こうの山肌から、最後の日差しが完全に消え去った。
俺は初めての詠唱を、誰にも聞こえない低い声で、口の中で小さく唱えた。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
門の向こうの深い杉林では、木の葉一枚として止まらなかった。
足元で、狼の爪先が石畳をカリと擦った。
白い狼は門柱の影から静かにこちらを見上げ、片方の尖った耳だけを俺へ向けていた。
俺が参道の坂道を一歩下り始めると、狼もまた音もなく、その右脇へ寄り添うように一歩ついてきた。




