第8話 手形
下山道は、登り道のように形を変えることは一度もなかった。
頂の平坦地から七合目の分岐に至るまで、辻ひとつ現れない。後ろをついてくる遼は疲労困憊で二度ほど立ち止まりかけたが、二度とも三呼吸以内には自力で足を踏み出し、俺の背中を追ってきた。
俺の左肩は腕を水平より上へ持ち上げようとすると激痛で使い物にならず、作業着の右袖は肘から先が引き裂かれて風を通していた。それでも、黒い風切羽を右手に提げて下り勾配を歩く程度なら、何ら支障はなかった。
純白の狼は、頂を出発した瞬間から寸分違わず俺の右側を歩き続けていた。
七合目の尾根に差し掛かったところで、下方から登ってくる救助本隊の明かりとすれ違った。
四人編成の隊列で、先頭に立っていたのは須貝だった。
「……生きとるか」
「二人とも無事です。上は片が付きました」
須貝は遼の顔色を検分し、俺の傷んだ左肩を見つめ、右手に提げた巨大な黒い羽根を凝視した。そして最後に、俺の右側に平然と佇んでいる白い狼へと鋭い視線を落とした。
最後の一頭については誰が見ても説明を求めるべき異常事態のはずだったが、須貝が真っ先に口を開いて告げたのは、弟の安否だった。
「湊は関の詰所におる。温かい湯を二杯飲み干して、婆さんの飴玉を全部平らげたわ」
背後の遼が、その場に崩れ落ちるように両膝へ手をついた。
倒れたわけではない。三呼吸ほど肩を震わせたあと、自力で上体を起こし、何も言わずに下山道へと足を戻した。
須貝は俺たちの背後、頂へと続く闇の斜面を見上げた。
「主はどうした」
「散りました。山が編み直すまでの間は、上に何もいません」
「そうか」
須貝はそれだけ短く吐き捨てると、後続の本隊へ合図を送り、安全確認のために上へと進ませた。
須貝が運んできた俺の背負子を受け取り、風切羽を横木へ括った。左肩に帯を掛けず、右肩で支えて、こちらも足を下へと向けた。
山の現場では、無事を分かち合って喜ぶ感傷的な時間よりも、残された手続きと撤収作業のほうが遥かに長かった。
◆
清滝の関へ辿り着いたのは、東の空が白み始めた朝の六時前だった。
空は重い薄灰色に覆われ、表参道を一晩中照らしていた観光用のライトアップはすでに消え去っていた。高尾山口駅の周辺にはまだ観光客の人影もなく、関の小さな窓口だけが夜の続きのまま黄色い油灯りを灯している。
白い狼は、鳥居に似た木の門を俺たちと並んでくぐり抜け、そのまま関の外側へと足を踏み出した。
山の中をさまよう怪異なら、関の境界を越えて娑婆へ出た瞬間に消滅するはずだった。
だが狼は形を崩すこともなく、門柱の脇、俺の右側へ静かに腰を下ろした。
窓口の役人は、昨夜と同じ男だった。
俺たちの姿を認めるなり弾かれたように立ち上がったが、口をついて出たのは定められた通りの事務的な一言だった。
「手形」
俺と遼がそれぞれの細長い紙を差し出すと、役人は二枚を並べて窓の明かりへ透かした。
白かった紙肌に、薄茶色の線が下から上までしっかりと染み上がっている。
「浅井遼。本日到達、五九九」
役人は手元の台帳へ視線を落とし、次の手形を確認した。
「沢渡迅。本日到達、五九九。既認定丈、二四〇〇」
台帳の決められた行へ指を滑らせ、赤い受領印を押し込む。
「丈は据え置きだ」
「はい」
隣で見ていた遼が、俺の顔と手形を交互に見比べた。
「据え置きって……どういうことですか」
「丈というのは、その人間が生きて登って還ってきた最高到達点の記録なんですよ。五九九の頂を踏もうと、過去に二四〇〇まで登った記録が動くことはありません」
役人の淡々とした説明を聞いても、遼の顔から困惑は消えなかった。
「二四〇〇まで登ったことがあるのに……頂を踏んだのは、これが最初なんですか?」
「最初なのは、頂です」
俺が答えると、遼はまだ納得のいかない目でこちらを見つめていた。
「主との立ち合いは頂付近で起きます。歩荷の仕事は、頂より下にある荷場まで物資を担ぎ上げればそれで完了するんです」
「山小屋も、出張所の詰所も、荷を受け取る人間も、すべて頂より手前の標高にある。だから俺は主のいる上部へ進まずに済んできたんです。主と立ち合うこともありませんでした」
役人が台帳を広げたまま待っている。俺はそのまま言葉を続けた。
「だから俺の二四〇〇という数字は、荷場まで荷物を担ぎ上げただけの記録です。それ以上でも以下でもない」
二四〇〇で止まった理由までは、いまここで話す気になれなかった。
役人が奥の棚から、黒塗りの木の盆を取り出して台の上に置いた。
「丈改めの処理はここまでだ。次は、登破の事実確認に入る」
俺は背負子の横木に結んだ紐を解き、括りつけていた黒い風切羽を盆の上へ丁寧に載せた。
朝の薄い光に晒すと、羽軸の漆黒だけが濡れたように深く光を吸い込んでいる。
役人は白手袋をはめ、慎重な手つきで羽を裏返して検分した。
「裏高尾の主の風切羽に間違いないな。立ち合った場所は」
「頂の広場です」
「証人はいるか」
「俺です」
遼が一歩前へ進み出た。
「祠の裏から一部始終を見ていました。積み石を崩して翼を挟み込んで、沢渡さんが小刀で突き刺して……」
「詳しい状況はあとで調書に書いてもらう。見たままの事実だけでいい。推測や感想は混ぜるなよ」
役人は新しい台帳を開き、太い筆を走らせた。
「丈改めと登破の認定は、完全に別の行政手続きだ。手形は高度の数字しか見ないが、登破は確たる証拠の品と証人の目で確定させる」
赤い判子が台帳へ二度、重く鳴り響いた。
「《不動》、一峰。新規の験者として登録完了だ」
役人は顔を上げた。
「これで、あんたも自分の声で札を書けるようになったぞ」
「書き方なんて知りませんよ」
「そこから教わらなきゃならんのか」
「昨日まで、験なんてひとつも持っていなかったんですから」
「そうだったな。丈が二四〇〇もあるくせにな」
役人は苦笑し、盆の上の風切羽を持ち上げて俺へ返そうとした。
その瞬間、足元に伏せていた白い狼が音もなく立ち上がった。
俺が手を伸ばすよりも早く、狼の白い顎が風切羽の先端を咥え込んだ。
噛み砕いたようには見えなかった。黒い羽枝が風に吹かれた煤のようにほどけ、狼の口元へとそのまま吸い込まれていく。太い羽軸までが完全に消失した瞬間、狼の純白の首筋から背骨に沿って、一本の細い黒い筋がすっと走り抜けた。
役人の手のひらには、何も残されていなかった。
「……おい」
「俺も初めて見ました」
役人は手元の台帳の判子と、空っぽになった木の盆を呆然と見比べた。
「……現物の記録を済ませたあとで、心底よかったよ」
その点については、俺も完全に同意だった。
役人は盆を脇へ退けると、狼の異様な姿を台帳の欄外へ墨で手早く書き留めた。
「関の外まで出てくる山のものなんぞ、聞いたこともない。院の本部へ照会を回しておく。返事が来るまでは、そいつを連れて入るたびに窓口で申告しろ」
「分かりました」
◆
登破の認定を終えると、次は浅井兄弟の違反手続きだった。
遼と湊が窓口の前に並んだ。湊は肩から分厚い毛布を羽織り、腫れ上がった右足をパイプ椅子の上へ乗せている。
役人は同情も怒りも交えず、事務的な調子で台帳の違反記録を読み上げた。
「浅井遼。入山時における虚偽の申告。先達が途中で合流すると窓口へ申し出たが、実際には手配すらしていなかった」
「……はい」
「浅井湊。初入山。先達の同行なし」
湊が慌てて口を開きかけた。
「兄ちゃんが無理に連れていったんじゃなくて、おれが――」
「虚偽申告を行ったのは兄の遼だ。それと、先達なしで山に入ったという事実は別個に処理される」
役人は二枚の違反報告書を突き出した。
「処分が正式に下りるまでの間、二人とも裏山への立ち入りを停止する。湊君は病院で診断書を取り、窓口へ提出すること。足が治りきらんうちにまた山へ入られては、こちらの管理責任が問われる」
「弟は、俺が無理を言って引っ張り込んだんです」
「それも記録済みだ。弟を庇った回数は、処分の減免理由には入らない」
遼は唇を噛み締め、黙って書類に署名した。湊もそれに続いたが、冷え切った指先が震え、ペンの文字が大きく乱れていた。
役人は二枚の書類を重ねて引き出しへ仕舞い込んだ。
「命が無事に戻ったからこそ、こうして違反の始末ができるんだ。還ってこなければ、行政処分を下す相手すら残らん。以上だ」
突き放すような淡白な口調だったが、役所の人間としてはそれが最も誠実な態度なのだろう。
◆
最後に、救助活動にかかった費用の精算が残されていた。
役人が救助基金の伝票を差し出し、俺は現場で使用した札を数え上げた。
「二千の紙が一枚。千の紙が一枚」
「どちらも自前の持ち出しだな」
「はい」
「自腹分は救助基金から六割補填。残りは自己負担、後日口座へ振り込みだ」
役人が手慣れた筆致で金額を書き込んでいく。
二千の紙は、八合目の尾根で遼を白い影から引き剥がす際に切った。千の紙は、頂で大天狗の突風に耐え、積み石を引き抜くために使った。どちらか一方でもケチっていれば、いまこうして関の窓口に生きて立っていることはできなかった。
「他に使ったものはあるか」
「九合目で、千の紙を一枚風で飛ばされました」
「使用確認が取れん紛失分は基金からは出んぞ」
「分かってますよ」
三万円が、封も切られずに闇の中へ消え去った計算だ。
もう一枚の二千の紙は、九合目で遼に持たせたまま手元を離れているが、封が切られていなければ救助費用の請求対象にはならない。他人に預けただけの札を、役所に請求するつもりもなかった。
役人が伝票へ承認印を押した。
「自腹の持ち出しに対する六割補填だ。入山者の保険料で成り立っている基金にも、当然ながら底があるからな」
「井戸水みたいに勝手に湧いてくるわけじゃないですからね」
口にしてから、頂で継いだばかりの胸の内の感覚を、無意識に比喩に使っている自分に気づいた。
胸骨の奥にあるあの水のようなものは、使えば減り、休めば勝手に湧き上がってくる。だが現金のほうは、どれだけ寝て待とうと勝手に増えることはない。
「役所の金が勝手に湧いてたまるか」
役人の声が、夜から初めてわずかに緩んだ。
「それから、沢渡さん」
「はい」
「あんた、今月自前の札を救助へ持ち出したのは何枚目だ」
「四枚目です」
「先月は六枚だったな」
「よく覚えてますね」
「毎回、俺が六割補填のハンコを渋々押してるからだ」
役人は書き終えた伝票の控えを寄越した。
「丈を据え置く暇があるなら、自分の札の減り方を真っ先に改めてもらいたいもんだな」
その手続きを受け付けてくれる窓口は、還丈院のどこを探しても存在しないらしかった。
◆
関を出ると、朝の冷たい空気が肺の奥まで染み渡った。
遼は反省調書の用紙を、湊は病院で取る診断書の案内を受け取り、揃って窓口前のベンチに腰を下ろしている。
俺は「みさか屋」の軒下へ戻り、背負子を土間へ下ろした。
重荷が完全に体から離れた瞬間、全身の筋肉が仕事の終わりを認めて一気に弛緩した。左肩の鈍痛、右腿の張り、指関節の軋み、腹筋の強張りが、順を追って次々に悲鳴を上げ始める。
どれも自分の足で歩いて下りてきた証拠のような痛みであり、いちいち数え上げるほどのものではなかった。
「沢渡さん」
背後から声をかけられ、振り返ると遼が軒下まで歩み寄ってきていた。
片手には白い札、もう片手には油紙の札入れが握られていた。
最初に差し出されたのは、九合目で俺が無理やり握らせた二千の紙だった。封は切られず、折り目もついていない。
「ありがとうございました。……使いませんでした」
「使わないで済んだのが、一番いいんですよ」
受け取り、自分の胸の内ポケットへしまい直した。手元の札は、二千の紙が一枚、千の紙はゼロ、裾の紙が三枚。手持ちの備えは、これで辛うじて底を突かずに済んだ。
遼は、もう片方の手にある札入れを持ち上げた。
「こっちは、湊に預けてあったやつです。あいつが……本人に返せって、沢渡さんに言われたからって」
視線を向けると、ベンチの上の湊が毛布にくるまったまま、じっとこちらを見つめていた。
昨夜、六合目の冷え切った岩陰で湊を見つけ出したとき、俺が口走った言葉だった。それは兄ちゃんがお前に残したもんだ、お前が持ってろ、本人に直接返させる、と。
救助の現場で遭難者と約束を交わすなとあれほど叩き込まれていたのに、感情に任せて口にしてしまった約束だった。
「俺が受け取る筋合いのものじゃありませんよ」
札入れを遼の胸元へ押し戻した。
遼は受け取り、自分の首へ掛け直した。油紙の袋が、ようやく本来あるべき持ち主の胸元へ戻っていった。
しばらくの間、二人の間に重い沈黙が流れた。
遼がぽつりと口を開いた。
「あんた……なんでそんなに平気でいられるんだ」
山の中で取り乱していたときとは違う。いまの遼は俺を見据え、返事を待っていた。
「平気そうに見えますか」
「見えますよ」
遼の指先が、首にかけた札入れの紐を白くなるほど強く握りしめていた。
「あの人を、人間じゃないって冷たく言い切った。俺の襟首を掴んで強引に引き剥がして、天狗の化け物と戦って、山を下りてきたら平然と札の金の話をしてる」
「精算を済ませるまでが、この仕事ですからね」
「そうやって割り切って言えること自体が、平気だって言ってるんだよ!」
声のトーンが跳ね上がった。
「あの人、ずっと寒いって震えてたんだ。俺が上着を貸そうとしたら、いらないって断って……化け物だったって分かっても、俺の頭の中にはまだ残ってるんだよ」
「もし……もしあれが、本当にまだ生きてる人間だったらどうするんだって、いまも考えちまうんだ!」
遼は一度、荒い息を吐きながら唇を噛んだ。
「人じゃなかったって、頭じゃ分かってますよ。分かってるのに、胸の奥に嫌な澱が残り続けるんだ。俺はたぶん、あの顔を一生忘れられない。それなのに……あんたは何もなかったみたいに普通にしてる。それが、ずるいんだよ」
みぞおちの奥が、かっと熱くなるのを感じた。
弟を岩陰に置き去りにし、一人で上へ登っていったのは遼自身だ。あの白い影を置き去りにする判断を代わりに引き受けてやったのは俺であり、そのあとに残る罪悪感の処理までこちらに押しつけられる謂れはどこにもなかった。
そう怒鳴り返しかけて、思考が三年前のあの山肌へと急停止した。
兄貴に下りろと言われ、俺は兄貴を山に残して、自分一人だけで下山した。
そう言われたからといって、兄貴を残してきた重みまで、誰かに引き受けてもらえるわけではない。
俺は、自分の足で兄貴を置いて下りてきたのだ。
それから三年間、俺は背負子を担いで荷を運び、茶屋で固い団子を噛み締め、札の勘定を計算しながら生きてきた。
遼は兄貴のことを知らない。それでも、何食わぬ顔で生きていると責めるその言葉は、俺が三年間どうしても飲み込めずにいたところへ引っかかった。
「……慣れだ」
それだけを低く返した。
遼は何も言わなかった。それ以上問い詰める気力すら残っていないことが、その疲れ切った横顔から見て取れた。
◆
みさか屋の引き戸が、がらがらと開いた。
婆さんが、湯気を上げる濃すぎる番茶を盆に乗せて土間へ出てきた。
「あんた、いつまでそこに突っ立ってる気だい」
「いま膝を曲げると、二度と立ち上がれそうにないんですよ」
「天狗の化け物には勝てても、うちの敷居には負けるのかい」
「勝ってませんよ。継いだだけです」
婆さんは聞き返さず、湯呑みを軒下の縁台へコトと置いた。
熱い番茶を一口すする。舌の奥に強烈な渋みが広がる。
胸骨の裏側には、頂で満ちた冷たい水のような感覚が、静かに波紋を広げていた。減った気配も、増えた気配もない。
喉を開き、息を乗せれば、あの《不動》の力へと確実に届く。
唱えるべき言霊の形も知っている。
それでも俺は、頂でその力を継いでからこの瞬間まで、ただの一度としてその詠唱を口にしていなかった。
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【この話に出てきた言葉】
・札を書く(ふだをかく)
験者が、自分の声を山の紙に写すこと。
できた札には、験一回ぶんの声が入っている。
札を書くと、験者自身の声が減る。
その験を継いだ験者にしか書けない。




