第7話 立ち合い
九合目の岩門を抜けると、それまで行く手を挟み込んでいた岩壁が急激に途切れた。
杉の木立も消え失せ、風に晒された膝丈ほどの灌木と、白く露出した岩肌が足元を埋め尽くしている。吹き抜ける冷気が左右から容赦なく肌を叩き、道の先には平坦に削られた岩場が広がっていた。
上がり口の正面に、風雨に晒された小さな石の祠が佇んでいる。
俺は遼の胸を手で制して祠の手前に留まらせ、自分だけがその脇をすり抜けて前へ出た。
裏高尾の頂は、広いとは言えない岩場だった。
俺の背後には、いま駆け上がってきた登り道がある。祠を挟んだ反対側には下山へ向かう細い道が続いており、右手の縁には大人の胸の高さほどまで積み上げられたケルン――古い積み石が佇んでいた。
身を隠せる岩壁はない。風を受け流せる窪みも存在しなかった。
夜空に浮かぶ月を横切った巨大な影が、岩場の中央へと音もなく舞い降りた。
大天狗だった。
九合目で崩落に巻き込まれた土砂が、片方の脚と翼の羽毛に痛々しくこびりついている。だが、その威圧的な立ち姿は微塵も揺らいでおらず、俺の正面、十二歩ほど離れた岩場の縁に仁王立ちしていた。
俺は平らな岩肌へ、右足の靴底を置いた。
背後を振り返れば、まだ下山へと続く道筋が視界の端に見えている。
見えている。それでも、祠の陰に遼を残して俺だけ逃げ出すつもりはなかった。
九合目で主は俺へ風を放ち、俺は足場を崩して応じた。立ち合いはもう始まっている。ここで向き合うのは、俺が選んだことだ。
「浅井さん。祠の裏から絶対に顔を出さないでください」
背後の遼は声を出さず、石の祠の陰へ深く体を潜り込ませた。
俺は懐の油紙を開いた。手元にあるのは、千の紙が一枚と、裾の紙が三枚。
残された千の紙には《不動》の験が写し取られている。封を切れば、一度だけ俺の両足を大地へ強固に繋ぎ止めることができる。
だが、使うべき瞬間はまだ決めていなかった。
視線を巡らせ、広場の右端にある積み石を見据えた。
下段には抱えるほどの大石が組まれ、上に行くほど手頃な石へと積み重ねられている。その上半分は、大人の手のひら一枚分ほど、岩場の内側へ向かって危うげに傾いでいた。
その傾いた重量を一手に支えているのは、下から三段目、右側に噛み合わされた一個の石だった。
細長い形状の石が、上下の石の隙間に斜めに深く差し込まれている。荷を積む歩荷の目で見れば一目瞭然だった。あの要の石を一本引き抜きさえすれば、上半分に積まれた無数の石塊が一気に内側へと崩落するバランス構造になっている。
大天狗までの距離は、十二歩。
積み石までは、右へ六歩。
あの石塊が崩れ落ちる直線上へ大天狗を誘い込むことができれば、勝機はある。
そのためには、まず俺自身があの積み石の直下まで移動しなければならなかった。
大天狗が両翼を大きく広げた。
頂の吹きさらしで放たれる風は、九合目の狭い山道で受けたものとはまるで別物だった。
風を逃がす壁面が存在しない。正面から叩きつけてきた暴風が、肩、胸、腹、両膝を同時に押し潰し、俺の足元は三歩分も後方へ滑り飛ばされた。
岩場の縁、切れ落ちた断崖まであと二歩。
一度の突風でここまで持っていかれた。二度目の直撃を受ければ、間違いなく崖下へ吹き飛ばされる。
大天狗が翼を畳んだ。畳みきるまでに一呼吸。再び両翼を跳ね上げるまでに、もう一呼吸。
その二呼吸分の静寂こそが、俺に残された唯一の行動時間だった。
俺は右斜め前へ向かって二歩駆け出した。
大天狗の巨躯が、ぎょろりとこちらへ向き直る。
翼が開かれた。
今度は風の直撃コースから身を逸らすため、左前方へ身を投げるように跳んだ。
突風の縁が背中を激しく掠め、作業着の右袖を肘から先まで一瞬で引き裂いていく。着地の反動のまま右へ転がり、岩肌へ片手をついて衝撃を殺し、一拍で跳ね起きる。
積み石まで、あと四歩。
大天狗は翼を閉じず、そのまま地を蹴って前へ間合いを詰めてきた。
巨大な黒い翼が、太刀のように横一文字に薙ぎ払われる。
俺は咄嗟に地面へ伏せた。
頭上すれすれを翼の骨格が通過し、巻き起こった突風の刃だけで右の頬が浅く切り裂かれた。黒い羽先が背後の岩肌を削り取り、火打ち石を叩いたような鋭い火花が夜闇に散る。
風を飛ばすだけでなく、直接の質量兵器としても振るってくるらしい。
薙ぎ払われた翼が引き戻される隙を突き、俺は地を這うように二歩前進した。
積み石まで、あと二歩。
大天狗が身を翻した。その巨躯、俺の立ち位置、そして積み石が、ほぼ一直線の射線上に並んだ。
位置関係は完璧だった。
次に放たれる風圧を利用して、自らの体を積み石の真前まで運ばせる。
俺は両足を肩幅に開き、左足だけを半歩後ろへ引いた。背負った酒樽の中身が揺れ動くとき、押される先へあらかじめ体重を逃がしておくための歩荷の構えだ。
大天狗の翼が跳ね上がった。
一呼吸。
突風が炸裂する直前、俺は自ら両足を岩肌から浮かせた。
胸を巨大な鉄板で叩かれたような衝撃を受け、岩場を滑空するように二歩吹き飛ばされる。
着地したのは、狙い通り積み石の真前だった。
転倒はしない。荷を背負っていない身軽な体なら、この程度の慣性制御は造作もない。
背後には崩れかけた積み石。
正面には立ち塞がる大天狗。
その直線上の狭間に、俺がいる。
ここから俺が身を躱しさえすれば、石塊が雪崩落ちる正面に大天狗だけが取り残される。
俺は腰の小刀を逆手に引き抜き、下から三段目にある要の支え石の隙間へ、切っ先を深く突き刺した。
刃は天狗の羽を削り出して作られた安物の中古品だ。硬い岩盤を両断できるような業物ではないが、石と石の噛み合わせをこじ開ける楔としては十分に機能する。
小刀をテコのようにねじると、支え石が指一本分ほど外側へずれた。
頭上で、上段の石塊たちが擦れ合う重い摩擦音が響く。
大天狗の翼が、再び天へと持ち上がった。
この無防備な前傾姿勢のまま風を受ければ、石を引き抜く前に俺の体が吹き飛ばされて終わる。
俺は左手で胸元から千の紙を引き抜き、指ではなく奥歯でその封を噛み裂いた。
『不動』
声は出さなかった。
だが封が破られた瞬間、見えない大地の杭が、俺の両足の裏と頂の岩盤を寸分の狂いもなく縫い止めた。
暴風が叩きつけてきた。
作業着の背中が激しくはためき、髪が前へ猛烈に引っ張られる。両腕から先を押し戻されそうになりながらも、大天狗の風を受けている踵だけは、濡れた岩肌の上で一ミリたりとも後退しなかった。
これなら、引き抜ける。
俺は小刀の柄を両手で握り直し、腰を深く落として全体重を引く力へ変えた。
支え石が、さらに半分ほど外側へ滑り出す。
上段に積まれていた巨大な重量が瞬時に移動し、積み石全体が地鳴りのような低い軋み声を上げた。
風が止んだ。
足裏を縫い止めていた力が緩んだ。俺は小刀の柄から手を離し、即座に左横の岩場へ体を丸めて転がり出た。
支えを失った要石が、外側へと弾け飛んだ。
上半分を形成していた無数の石塊が、一気に岩場の内側へ向かって崩壊した。
最初の巨石が、大天狗の右翼の関節を直撃した。
二つ目の石がその高い肩を砕き、三つ目が胸板を強打する。大天狗は咄嗟に後退しようとしたが、その足元へ四つ目と五つ目の石塊が容赦なく転がり込んだ。
片方の黒い翼が、崩れ落ちた巨大な石の下敷きとなって岩場へ縫い止められた。
大天狗が身悶えし、翼を引き抜こうともがく。
挟まれていない左翼だけが必死に持ち上がり、半身だけのいびつな突風が巻き起こった。だが正面を押し潰す風圧にはならず、巻き上げられた土砂と小石が岩場の上を虚しく旋回するだけに終わった。
積み石は完全に崩落した。
だが、大天狗はまだ倒れていなかった。
これだけでは終わらない。
山から生まれた石であっても、できるのは動きを封じるところまでだった。
翼を押さえているうちに、同じく山から出た素材で作られた小刀を、その付け根へ通す。
俺は地面に落ちていた小刀を素早く拾い上げた。
大天狗までの距離は、七歩。
一歩目を踏み出した瞬間、石の下に挟まれていた翼が力任せに持ち上がった。
二歩目、石塊がひとつ弾け飛ぶ。
三歩目、眼窩の奥の鋭い光が、殺気を帯びて俺を捉えた。
四歩目、自由な左翼が横から薙ぎ払われ、強烈な横風が胸板を強打した。
足は止めない。
五歩目、異様に長い鼻の下にある裂け目が、声のない威嚇と共に大きく開かれた。
六歩目、大天狗の自由な左翼の付け根から伸びる鉤爪の手が、俺の首をへし折らんと前頭部へ伸びてくる。
俺はその手の下、生じた懐の死角へ滑り込むように潜り込んだ。
七歩。
小刀の切っ先を、石に挟まれて身動きの取れない右翼の付け根へ、全身の体重を乗せて深く突き立てた。
肉を断つ手応えは、どこにもなかった。
代わりに、目の前にあった巨大な輪郭が、音もなくほどけていった。
黒い霧のようなものが翼の先端からぼろぼろとこぼれ落ち、夜の風に混じりながら天へと昇っていく。巨躯の肩が散り、翼が散り、胸板が夜気へ溶け、最後に眼窩の奥で光っていた二つの光点だけがその場に残された。
死んだのではない。
打ち倒され、形を散らし、山そのものへと還っていく。長い時間が経てば、山が再びあの怪異の姿を編み直すことになるのだろう。
宙に残された二つの光が、静かに俺を見つめた。
次に視線を祠のほうへ向け、その向こうにある下山道を見つめ、やがて夜空へと溶けて消え去った。
九合目で、あれは頑なに前方にしか風を放たなかった。俺が崖際で膝をついたときも追撃を仕掛けてこず、道が崩れ落ちると、俺たちよりも先に頂へ回り込んで立ち塞がった。
もし、あの主が道を塞いでいた真の理由が、侵入者を排除するためではなかったとしたら。
命懸けの頂の立ち合いに、資格を持たない生身の人間を行かせまいと、九合目で押し留めようとしていたのだとしたら。
そう見えただけの、ただの人間の感傷かもしれない。
光は完全に消えた。
大天狗の巨躯は風となって霧散していた。
岩場の中央には、黒い一本の風切羽だけが、静かに残されていた。
拾い上げると、大人の腕ほどの長さがあり、手元の小刀よりも重厚な重量感が手のひらに伝わってきた。
その羽の重みを指先で確かめたまさにその瞬間、胸の奥深くに、つい先刻まで存在しなかった何かが湧き上がっていることに気づいた。
明確な形はない。だが、胸骨の裏側に、ひんやりとした水が満ちているような確かな感覚がある。井戸の底に溜まった冷たい水を思い浮かべたが、その深さも、汲み出せる残りの量も、俺には推し量ることができない。
ただ、その力を自らの声に乗せて解き放てることだけが、直感として理解できた。
唱えるべき詠唱の言葉も、すでに知っていた。
誰かに教わった覚えはない。耳にした記憶すらない。それなのに、頭で考えるより先に俺の喉のほうが、その言霊の形をあらかじめ記憶していたかのように馴染んでいた。
俺は唇を開きかけた。
だが、いまこの場で唱えるべき理由はどこにもなかったため、静かに口を閉ざした。
「沢渡さん……」
石の祠の裏から、遼がおずおずと姿を現した。
俺の手にある黒い風切羽と、激しく崩れた積み石を交互に見つめ、最後に大天狗が消え去った空白の空間を見つめた。
「勝ったんですか」
「いいえ」
遼が怪訝そうに眉を寄せた。
俺は喉の奥に沈む、計ることのできない冷たい水へと意識を向け直した。
「……継ぎました」
月はまだ、灌木の向こうの空の高いところに残っていた。
青白い月光が祠の裏側の地面まで届き、散乱する小石を照らし出している。
祠の真裏に、拳の半分ほどの黒い石がひとつ転がっていた。いつからそこにあったのかは分からない。
拾い上げてみると、指先に硬質な角が当たり、その突起だけが白く擦れていた。黒い石肌は、月明かりの下でも鈍く沈んでいた。俺はその石を、作業着の懐へと滑り込ませた。
それから、右手に持ち替えた風切羽の先を、いったん足元へ下ろした。
月光を背に受け、俺の影が前方の平らな岩肌の上へ長く伸びている。
その影の輪郭へ、風切羽の黒い先端が触れた。
羽枝が岩の上で止まらず、まるで黒い水面に吸い込まれるように、俺の影の中へと沈み込んだ。
手が止まった。
俺自身は微動だにしていないのに、地面に落ちた影の縁が、脈打つように小さく波打った。
思考よりも先に体が動き、羽から手を離して小刀を逆手に構え直した。
だが、羽は地面へ倒れなかった。先端を影の底にくわえ込まれたように、斜めの角度を保ったまま中空で静止している。
「沢渡さん……!?」
「下がっていてください」
影の黒い縁から、白くしなやかな前脚が一本、音もなく抜け出してきた。
鋭い爪が岩肌を擦る。続いて二本目の前脚が現れ、濡れた白い鼻先と、ピンと立った両耳が影の中から滑り出してきた。
犬よりも明らかに四肢が長い。肩の高さは、俺の膝の皿を優に越えている。
狼だった。
息をひとつ、喉の奥で呑み損ねた。
験を継いだ瞬間、唱えるべき詠唱の言葉は自然と理解できた。だが、目の前で起きているこの現象の意味だけは、何ひとつとして分からなかった。
切っ先を向けたまま警戒したが、白い狼は牙を剥くことも威嚇の唸り声を上げることもなかった。影の中から残りの胴体と太い尾を静かに引き抜いていく。鼻先から尾の先端に至るまで、その毛並みは汚れひとつない純白だった。
狼が完全に抜け出ると、中空に留まっていた風切羽がカタリと音を立てて岩肌へ倒れた。
狼はその黒い羽へ鼻先を寄せ、微かに匂いを確かめたが、口にくわえることはしなかった。そのまま身を翻し、俺の右脇へ静かに回り込むと、何事もなかったかのように腰を下ろして前を見据えた。
「……何なんですか、それ」
「分かりません」
俺は狼から視線を離さないまま小刀を鞘へ戻し、地面の風切羽を慎重に拾い上げた。今度は影に触れさせないよう注意しながら、羽軸を右手でしっかりと握り直した。
頂の向こう側には、闇を切り裂くように、一本の下山道がまっすぐに続いていた。
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【この話に出てきた言葉】
・声
験を使うために要るもの。験者の胸の中にあって、使えば減る。
休むと少しずつ戻る。残りは数えられないが、なんとなくは分かる。
尽きると験は使えなくなる。ただし、しゃべることはできる。




